契蟲
最初に動いたのはレンだった。それとも父さんだったかもしれない。そして母さん。三人分の大小の足音が聞こえた。バル婆だけが動かない。
声が聞こえる。父さんの低い声、母さんが何か言っている。それから、レンが叫ぶ声。
「――テンとなんで離れなくちゃならないんだよ」
久しぶりにレンの大きい声を聞いた。うんと小さな頃、癇癪で駄々をこねるたびによく叫んでいた。いつ頃から聞かなくなったんだろう。
顔を戸の方に向ける。バル婆に目をやると、バル婆もわたしと同じ方向に顔を向けていたので、目は合わなかった。
決定事項、と薬師様は言っていた。薬師様が決めたわけじゃないのだろう。中央の誰かが決めたことを、伝えに来ただけ。だとしたら、その決定に反論することが意味するところがなにか。
母さんの声が聞こえた。
「――そんなの、おかしいじゃないですか!無罪なんでしょう……この子は悪くないと認められたんでしょう。どうして家から離されなきゃいけないんですか。まだ、十一歳なんです!」
薬師様の声は聞こえない。反論してないのか、聞こえないのか分からなかった。
「――監視だなんだって、それじゃ罪人と変わらねぇじゃないですか」
父さんの本気で怒っている時の声をはじめて聞いた気がした。でも、やめて。こんなところで逆らったら——。
「バル婆……みんなを、止めて」
バル婆がわたしを見た。唇をぎゅっと閉じている。それから立ち上がって外に向かった。
「――どうしてテンをどこかに連れて行くの」
レンの問いに答えてくれる人はいない。バル婆のよくとおる声が聞こえた。
「――騒いでも変わらないだろ」
「――でも!」
母さんが反論する。
「――決めたのは薬師様じゃない。そうなんだろ?」
外が静かになった。バル婆が続けた。
「――ただ、なんでテンが中央で管理される必要があるか、それだけは教えてくれないかい」
「――悪いが教えることはできない。言えるのは、娘はこの家を離れ、中央が管理することになった、ということだけだ」
薬師様の声がやっと聞こえた。
「――そうかい。でも、テンは魔法を使った覚えがないみたいだ。薬師様。あんた、確信があってのことなんだね」
やめて。バル婆まで、その人たちに逆らうなんて。わたしの体に力が入る。
「――当然だ」
体から力が抜ける。……薬師様は、当然と言った。
しばらくして、四人が部屋に戻ってきた。バル婆とレンが縄をほどいていく。
「いいの?」
「薬師様から許しはもらってるわ」
母さんが顔を歪めて言った。縄がほどかれても、しばらく体がしびれて動けなかった。
その日の夕飯は、家族で囲んだ。そして何度目か分からない言葉をレンが言う。
「テンを夜のうちに別の村に連れて行けばいいんじゃない?みんなで引っ越そうよ」
父さんとバル婆は黙っている。母さんはお椀を置いたまま手をつけていない。わたしは、バル婆に口に運んでもらっているのに、何を食べているか分からなかった。
監視下、という言葉を頭の中で転がす。この家を離れ、中央が管理する。刑務所のような場所なのか。そういう人間をどこかに集めて管理するということなのか。
どちらにしても、今の家には居られない。もし拒めば。そこから先は考えたくなかった。
結局、この世界でも自分の意志で生きることができなかった。わたしは、減らないおかゆを見ながらバル婆に熱病のことを聞いた。
「熱病にかかった人たちは」
「……落ち着いてきてるよ。お前の薬が効いたんじゃないかってことになってる」
母さんも大体の人が治まってきていることを教えてくれる。ハンさんも含めて重症者のほとんどは、もう快方に向かっていた。新しく重症になる人も増えていないらしい。
――こんなに急に収まるものなのだろうか。
薬師様が、何かしてくれたのかもしれない。そう思うと本当に、よかった、と感じた。なのに同時に、あの人は、そんなことするような人じゃない。でも医者なら、そうして当然なんだとも思ってしまう。
シウのお葬式についても聞こうとして、口を閉じる。後でレンに聞く、と決めて飲み込んだ。夕飯が終わって、バル婆がわたしに聞いた。
「テンは、どうしたい」
「……よく考えたい。監視が一時的なものなら、しばらく我慢する。みんなとここで暮らしたい」
母さんの肩が揺れた。わたしは母さんから視線をずらす。
「ねえ、もし一生なら、もし……わたしが拒んだらどうなると思う?」
全員が黙った。この反応。
ずっと前、私学の先生に言われたことを思い出す。
”軽い罪は棒叩き。悪けりゃ九族皆殺しさ。”
死にたくなけりゃ、いい子にするんだぜ、と、そう言っていた。わたしは死ぬほど悪いことをしたのだろうか。
九族皆殺し……わたしがおかしたのは、どれほどの罪なのか。それが分からないのが恐ろしかった。
結局、その夜は結論が出なかった。一生誰かの監視下に置かれる。それでも生きていることに意味があるのか。それなのに、明日の昼までに答えを出さなければいけない。薬師様が来る前に、聞きたいことが山ほどあった。それなのに、答えをもらえないまま質問だけが増えている。
寝る前にレンに聞いた。わたしたちは夕食のときからずっと黙ったままだった。
「シウのお葬式……もう終わっちゃった?」
「……終わっちゃった。けどうちはみんな出てない。理由は分からないけど」
布団の中で目を閉じた。きっと、わたしのせい。
「そっか」
シウのことを考えると、思考が凍りついたようにすべて上滑りしてしまう。考えかけると、視界が滲みそうになる。だから振り払う。今は、明日のことを考えなければいけない。
レンの寝息が聞こえてきても、わたしは考えをまとめられないでいた。
雨の音がする。うるさくて目が覚めた。隣ではレンが眠っている。
音を立てないように布団から滑り出て、痛む両手を使ってゆっくり服を着た。自分がかけていた布団を折りたたんで、レンの上に重ねる。
居間に行くと、みんなもう起きていた。
「おはよ」
父さんだけが、おう、と返してくれた。
母さんに、顔を洗ってもらった。
台所に入る。今日は雨だからバル婆も畑に出ない。珍しく、みんなで朝食を囲める。
朝食の支度をしようとして、包帯に巻かれた手を見た。そのまま視線がずれて、棚の隅に目が止まる。バル婆が滅多に開けない場所。隙間から、かすかに納豆のにおいがする気がした。棚に手を触れる。
来年も作る、とみんなに約束した。シウにも、約束した。
そこには、ダード豆で作った特製の醤油が置かれていた。完成までにはあと数か月。わたしは棚から手をはなす。
バル婆に天地返しを教えようと思っていた。それなのに、台所にいるバル婆の背中を見ながら、朝食が出来上がっても言い出せなかった。
寝室の戸を開けると、レンはもう起きていて、布団の上で服を着替えていた。わたしが、おはよう、と声をかけると、レンはひどく小さい声で言う。
「なんで……行かなきゃいけないの?悪いことなんかしてないのに」
わたしも、わからない。レンの眉が寄って、目は赤くなっていた。
「行ったら、もう帰ってこない気がする」
ずっと考えていたことを口に出されて、唇が震えた。わたしは、言われたことを無視して朝食ができたことを伝える。
「おかゆ、できたよ」
「……いらない」
――この数か月、レンの食事のことを考えて、バル婆と一緒にやってきた。
レンも分かってくれていると思っていたのに。わたしはギュッと手を握りかけて、痛みで手を開いた。
「……わかった。……もう一緒に食べられないかもしれないけど、それでいいのね」
言ってから、レンが目を大きく見開いた。みるみるうちにそこから水滴が盛り上がって、それから、大声で泣き出した。何年も聞くことのなかった声に体が固まる。
「――ごめん、ごめんね!」
何度謝っても泣き止んでくれない。わたしも目が滲んできた。レンの背中に手を伸ばしかけて、触れずにそのまま、寝室を出た。
母さんが顔を上げる。
「どうしたの?」
「なんでもない」
袖で目元をぬぐって、台所に向かう。痛む手で朝食を食卓に並べる。母さんが並べたおかゆを一つとって寝室に持って行った。
食器を片付けながら、茶碗についた傷を見ていた。いつついたのか、考えたこともなかった。
あと数刻で薬師様が来る。
外に出たかった。村を少し歩いて、考えをまとめたかった。でも、縄をほどくのは許されても、家から出ることは許されていない。
食卓に戻って湯呑を持った。飲む。立ち上がる。部屋の中を歩く。また座る。
どちらを選べばいいのか、まだ、決められなかった。
薬師様は約束通り、昼に来た。
母さんが玄関に出て、食卓の席を勧めた。薬師様の後ろで戸が閉まる。外は土砂降りなのに、薬師様の衣には濡れた跡がなかった。
バル婆が湯呑にお湯を入れて出す。甘いものは出なかった。寝室の戸が開いて、レンが出てくる。泣きはらした目で、わたしの方を見ない。
父さんがわたしの隣に座って、バル婆と母さんは台所の入り口に立っている。レンは寝室の戸の前から動かなかった。
薬師様は、湯呑の端を指でこするだけで、手をつけない。薬師様がわたしに聞いた。
「答えは決まったか」
決められなかった。
だから、質問をまとめた紙を取り出す。ほとんどはレンが書いてくれた。昨日と今朝、自分で書き足した字がいびつに重なっている。
薬師様はそれを見て、眉が少し動いた。
「その前に聞きたいことがあるの」
「なんだ」
「……まず、中央の——」
「待て。中央の決定に関して伝えられることはない。それと、その紙はなんだ」
「質問をまとめたの」
わたしが差し出した紙に薬師様が目を通していく。この人は、わたしたちが書いた紙を見るたびに顔色が変わる。今日は、白くなっていった。
紙をすべて読み終わる前に、薬師様は言った。
「質問には答えられない」
「まって!それなら、中央の決定を拒否したらどうなるのかだけ教えて」
薬師様が目を通していなかった裏面の質問だった。
「伝えられることはないと言っているだろう」
ダン、と食卓が鳴って、父さんが立ち上がる。
「つまり、おれたちには言えないことが待ってるんだな」
眉間に深くしわを寄せて薬師様を見ている。母さんが呼びかける。
「タダン!」
父さんは座らない。薬師様が少し引いたけど、狭い食卓では、あまり意味がない。
「ひ、伝えられることはないと言っているだろう」
わたしも薬師様を睨んだ。薬師様は父さんを極力見ないで、わたしだけを見た。
「死ぬのか、死なないか——それだけ教えてくれればいいの」
「伝えられない」
「言うんだ」
父さんが食卓を挟んで迫る。母さんが台所から走ってくる。薬師様と父さんの間に割り込もうとしている。
「止めて!あなたが罪に問われるかもしれないのよ!」
「質問にひとつも答えてもらえずにテンが居なくなるんだぞ!」
母さんの動きが一瞬止まった。薬師様をちらっと見る。薬師様は逃げるように椅子から立ち上がった。
「ど、どうしてもと言うなら、そちらにも相応の危険を背負ってもらう」
「……危険だと?」
父さんが言った。薬師様は頷いて、腰に下げた袋から黒い虫のようなものを二つ取り出して卓上に置く。焦りすぎたのか、同じものがいくつか床に転がる。すぐにしゃがんで拾い集めた。
「これはなんだ」
「契蟲だ」
ケイコ?
「だから、なんだそれは!」
「これはな……お互いの言葉を縛る虫だ」
卓上を見て、わたしはぞっとした。蟲はひっくり返って足をジタバタさせている。薬師様がわたしに向かって言った。
「契約で許された相手以外には、縛った内容は話せない。もし話したら死ぬ。怖ければ……止めることだ。お互い危険を冒す必要もない」
薬師様は少しだけ落ち着きを取り戻したように見えた。
情報が、少なすぎる。何を縛るのかも、どこまで話せるのかも、分からない。しかもそれを破ったら死ぬ——どこまでも、汚い。
「これが、わたしにとっての最大限の譲歩だ」




