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シウ

 


 やっと、部屋が人の住める温度になる。


 シウの呼吸が静かになって、咳が落ち着いて熱がほぼ下がった。あっけないくらい薬はすぐに効いた。


 わたしたちはかびていたジュージィを全部片づけて、しっかり掃除をした。母さんがレンとわたしの替えの布団を出してきて、シウとジウの布団と交換する。窓を開けると冷たい空気が入ってきて、部屋の甘ったるい匂いが薄くなる。


 おばさんはシウの熱が下がった後は動けなくなった。床に座ったまま、シウを見ている状態だったので母さんと二人で寝室に連れて行った。ジウはシウのそばを離れようとしない。だからわたしと母さん、バル婆、それとご近所さんも手伝って、三人の面倒を見ることになった。






 そして、シウは薬を飲んだ次の日に意識が戻った。おばさんは涙をぬぐいながらわたしに言った。


「……ひどいこと言ったこと許しとくれ」


「わたしこそ。……おばさんにひどいこと言っちゃったから、おあいこだよ」


 おばさんがちゃんと動けるようになったのは、そこから数日かかった。おじさんは畑から帰って来た後、おばさんが倒れたこと、シウの熱が下がったことを聞いて、何度もお礼と迷惑をかけたお詫びを言ってきた。頭を下げるたびに土の匂いがした。薬代を聞いてきたけど、わたしは薬師様がシウにって言ったことにして、追及は勘弁してもらった。


 シウは、最初は重湯も受け付けなかった。けど薬を飲み終える五日目までにはおかゆを食べられるまで回復した。夜ご飯のおかゆを食べさせながら、わたしは久しぶりに眠気を感じている。まだシウには器をもつ力もないからわたしがおばさんと交代で食べさせている。


 おばさんとジウは居間でおじさんと食べている。ジウはシウがおかゆを食べられるようになってやっと、シウのそばを離れる決心がついたようだった。






 シウがわたしの名前を呼ぶ。わたしは、ん、と短く返事した。


「迷惑かけて……ごめんね」


「……迷惑だと思うなら、早く自分で食べられるようになってわたしを寝かせてよね」


 わたしはシウの口元に慎重におかゆを運びながらそう言った。シウは、ふふっ、て笑って、細くなった指が口元に添えられる。わたしはスプーンを動かす手に視線を落とした。本当に久しぶりに笑い声を聞いた気がする。そのままわたしは続ける。


「あんた以外にも熱病の人は沢山いるんだからね!……だからシウにはすぐに元気になって、村を回るのを助けてもらわないとダメなの。わかった?」


 シウはしばらくわたしを見て、それから頷いて、おかゆを食べ終わるとすぐに目を閉じた。


 眠る前に、布団の端を直しながら言った。


「また来るね」


 シウは、うん、と口だけ動かした。


 立ち上がって部屋を出る。おばさんとおじさん、そしてジウにも挨拶して帰る。三人ともこの五日間でずいぶん元気になってきたみたいだ。シウも固形物が食べられるようになったから、やっと本格的に回復するだろう。


 その日は久しぶりにぐっすり寝た。






 シウが落ち着いて、わたしが家に戻った翌日から、また村を回ることにした。歩いていると、あちこちから咳の音が聞こえてくる気がする。


 母さんとバル婆は継続して注意をよびかけながら、対処方法について伝えていたみたいだ。そうしたら、うちがなぜか熱病の相談窓口のようになっていた。


 母さんは結構張り切っている。なんとなく沢山の人が、この狭いうちに集まることに不安を感じた。それでも、やっと村全体が熱病への意識をしはじめたことが少しだけ誇らしく感じていた。


 狭い家を見回していたら、あまり話したことのない若い母親に手招きされる。確かファンさん、だったかな。足元に小さな男の子がいた。ファンさんはわたしをわざわざ小川の近くに呼び出して言った。


「あのね。……シウに譲った薬をうちにも譲ってくれないかしら?」


 どこで聞いたの?――わたしはすっとぼけることにした。


「薬?」


「あら、違った?あなたが薬師様からもらった薬をシウにあげてひどい熱病を治したって聞いたんだけど」


 嫌に具体的だ。


「誰から聞いたの……そんなこと」


「みんな知ってるわよ。違うの?」


 みんな。


 そんなことをわざわざ言うひとがいるのだろうか……。違う、知らない、と言ってわたしは家に速足で戻った。後ろからなにか言われたけど急いで帰ったからちゃんとは聞こえなかった。


 母さんは、色々な人の話を聞きながら、鍋のこげをガリガリと落としている。


「……母さん、話があるの」


「テン、悪いけど後にしてくれる?今は手が離せないのよ。今じゃないとだめなの?」


「……今話したいの」


 こんなこと本当は聞きたくない。母さんはわたしの顔を見て、少しだけ鍋をまだ磨いていた。でも少しして、もう、と言いながら、結局手を止めた。わたしと話してくれるようだ。


「ここで話すのじゃダメなの?」


 わたしは母さんを寝室に引っ張っていく。母さんは仕事を中断させられて明らかに機嫌が悪く見える。


「母さん」


「一体なんなの?」


 ほとんど怒鳴り声で言われる。


「シウに薬師様の薬をあげたこと……誰かに話したりした?」


「話してないわ」


「じゃあ、誰かがわたしがシウに薬をあげたことを話してるのは聞いた?」


「わたしは聞いてないわ……どうして?」


「さっきファンさんにシウに譲った薬をくれ、って言われたの。……だから」


 母さんの目がぐるりと回った。


「だから母さんが誰かに話したと思ったってことね」


「……ごめんなさい」


「全く!」


 母さんはあきれながら、鍋磨きに戻った。わたしは肩の力を抜いた。


 ――でも、そしたら誰が。


 うちを出て考えながら村を回る。ファンさんと同じことを何人かに聞かれてすごく気まずい返ししかできない自分が嫌になる。


 本当にみんな知っているみたいだ。


 ”村を救う勇者にでもなるつもりか?”


 薬師様はわたしに薬を渡した張本人だから当然シウに薬を譲ったことを知っている。 点と線が繋がったような気がする。でも、”治ることを祈ろう”って言っていたのに。


 辟穢焦露のレシピ――金札三枚以上の価値。そんなことのために?






 いつの間にか、清安院まで歩いて来ていた。


 今日はロンが外にいて、久しぶり、と声をかける。


 ロンはいつも半分閉じたみたいな、真っ黒の瞳を大きく見開いた。それからぱっと周りを見る。なんだろう?わたしはロンの顔を覗き込んだ。


「どうしたの」


「お前……ちょっとこっち来い」


「へ?」






 清安院の中庭に引っ張って行かれた。小さい子たちの声が遠くから聞こえる。日が入らないのか、中庭はがらんとしていて薄暗い。今日はやけに人に引っ張っていかれたり、わたしが引っ張っていく日だ。


「聞いたんだ」


「なに?」


「……相談役の家の外」


 ロンは中庭の端を見ている。わたしの方を見ない。


 まさか、――薬師様との会話を聞かれていた?いつ?どこまで?というかどうやって?わたしは慎重に聞くことにした。


「……シウに薬をもらう話を聞いたってこと?」


「ああ」


「……シウが死にかけてたのは知ってる?薬が必要で、薬師様が煎じてくれて、シウは回復したんだけど」


 ロンは何も言わない。子どもたちの声が遠くから届く。


「あのね。……仕方なかったの。シウがすごく大変で、でね――」


「霊門ってなんだ」


 ロンは今日初めてわたしを真正面から見た。突然聞かれた。


「お前、病気なのか」


「……そんなわけないじゃない」


 立ち上がる。膝が伸びきる前に、体が向きを変えていた。


「わたし。……村を回らないといけないから、またね」


 ロンは止めなかった。村に急いで帰った。けどもう、家を周りながらのことだったので当然声をかける家なんか残っていない。なんて言うのが正解だったんだろう。






 シウの件以来、村の人はほとんど伝えた対処法をしてくれるようになった。


 実際に伝えた治療で改善された人も少なくないはずだ。なのに、なぜだか病人が減らない。バル婆が外から戻ってきて言った。


「……まただ。ハンがまた熱を出したってさ」


「また?……昨日は落ち着いてたって聞いてたのに」


「いやな感じだ」


 バル婆はそれだけ言って、手を洗い始めた。軽症だった人が次の日には重症化していたり、再発している人も見られた。それでも亡くなった人はいない。シウやレンにも注意しながら、自分もかからないように気を付ける。






 あれからわたしは薬師様が作った薬を再現してみることにした。


 あちらの世界ではアスピリンと呼ばれていた解熱鎮痛剤。柳の樹皮から取れる成分をヒントに作られた薬だった。一応薬師様がやっていたように聞こえた呪文をかけながら、荒地花柳の樹皮を鍋で混ぜてみたけど、当然のように光り輝く薬はできなかった。


 薄っすら黄色のとろりとした薬湯ができた。台所の入り口にレンが立っていてじとーっとした目で見つめていたのにしばらくしてから気づいた。呪文をかけるのを聞かれていたみたい。


「姉さん、何作ってるの」


「秘密」


 わたしは鍋をまぜながら言った。


「……バル婆には言ってあるの?」


「今は黙っといて」


 レンはしばらくわたしを見てから、うーん、とだけ言って外に遊びにいった。どっちだ。うん?うーん?。考えながら鍋に視線を戻した。


 この薬は使わない予定だけど、本当の本当の最終手段として、作っておくことにした。


 ”病人全員分の薬を買ったとしても次に誰か病気になった時に薬がなくて恨まれるのはお前だ”


 あの時の会話が反芻される。


 だから、誰も重症化しないように村を回った。重症化したら、すぐになるべく自分たちでできる対処をする。終わることのない追いかけっこみたいだ。






 その日は、すごく寒い夜だった。寒くて寝付けなくて、布団の中でもぞもぞしていたらドアをどんどんと叩かれる音が聞こえた。心臓が飛び上がる。


 布団に入ってじっとしていたけど、どんどん、という音は止まない。レンが隣でもぞもぞして、どうしたの?、って聞いてきた。


「なんだろう」


 でも布団に入るような時間にドアを叩かれるのがまともなわけがない。


 バル婆と、そのすぐあとに母さんがわたしたちの寝室の前をかけていく。火鉢の炭の灯りはぼんやりとしているけど、居間にろうそくの明かりが灯って隙間から明かりがもれてくる。


「こんな夜中に」


 バル婆の声だ。小声だけど非常識な人に容赦なく圧がかかる声。レンとこっそり笑いあった。


「バル婆!すまねえ、うちのが大変なんだ」


 声に聞き覚えがあった。シウの家の隣のおじさん?この間、バル婆が熱をまた出したと言っていた。

 わたしはすぐに布団を出た。足元が冷たい。服を着て、上着を着て、靴をはいた。


「レンは寝てて……わたしは何か手伝えることがないか見てくる」


「僕もいく!」


 レンがぎゅっと腕を掴む。


「だめ!あんたがかかったらせっかく治ったのに元も子もないでしょ!」


 わたしは腕をはがして布団の中に押し込む。バル婆も母さんもずっと無事だ。わたしも今のところ大丈夫。でも、レンはダメだ。


「分かった……でも早く帰って来てね」


 わたしは、うん、と言って今日だけ寝室の扉を閉めた。窓は開いているから換気は問題ない。なぜだか、声を聞かせたくない。






 わたしは居間に行って母さんに声をかける。


「テン、起きたのね」


 母さんはろうそくの前に寝巻の上に厚手の服を重ね着して、座っていた。


「バル婆のお友達のハンさんが危ないみたい。今バル婆がおじさんと一緒に見にいったわ」


 寝室に置いてきた薬湯が頭をよぎる。母さんから、お湯を受け取りながら聞いた。


「ねえ、母さん。もし誰かを助けられるかもしれない薬があったとしてね……でも悪くなるかもしれないし、全然効かないかもしれない。そういう薬があったら母さんならどうする」


 母さんはしばらく黙って、手の中の湯呑を見ていた。聞いてから少し間があいて答えてくれた。


「……すがれるものがあったら、すがりたいと思うんじゃないかな。でも、もし助からなかったら、その薬のせいにしたくなるかしら」


 わたしはうつむいた。


「テンならどうするの?」


 ”原因不明です。対症療法で様子を見ましょう”


 何度も聞かされた言葉が戻ってくる。――わたしなら。


「……試したいと思う。どうせ助からないかもしれないなら。試せるものがあるなら、試したい」


 ――でもみんながそう思うわけじゃない。しばらくして、バル婆が帰って来た。ろうそくの炎が揺れる。ハンさんは、と母さんが聞くと、バル婆は首を振った。


「薬師様のところに行く」


「――待って」


 とっさに声が出た。バル婆が振り向く。


「時間がないんだよ」


「……薬があるの。効くか分からないけど」


 短い間があいてにらまれた。でも、持っておいで、と言われる。


 急いで寝室に戻って、普段は酒を入れている空の甕に詰めた薬湯を抱えてくる。念のために沢山作ったから、甕のぎりぎりまで入っている。


「これは」


「薬師様がシウに作ってくれた薬と同じ材料で煮詰めた薬湯。いくつか入れていたものが、わたしには分からなくて。真似して、――呪文もかけてみたけど、光らなかった」


 バル婆の顔は動かない。


「他に言うことは?」


 黙っているか、一瞬迷った。


「前にバル婆に貸してもらった……銀片十枚で、シウの薬を買った」


 母さんの口が動いて、わたしのことを大きな目でじろりと見る。でも、それだけだった。


「おしまいかい?」


 わたしはこくりとうなずいた。バル婆はわたしを引っ張ってハンさんのうちに連れて行った。おばさんは荒い息だけど、なんとか意識があるようで、シウの時みたいに無反応ではなかった。ただ時折すごくせき込んでいるし、近くにいくと熱気を感じるくらい熱がある。危険な状態だとわかる。


「ハン、わかるかい?――薬を持ってきた」


 バル婆はおばさんとおじさんに聞こえるようにゆっくり言う。


「きくか、きかないか分からない。悪くなることもあるかもしれない。薬師様の薬の方が確かだけど、銀片十枚かかる。どうする?」


「やっぱり薬師様の薬が……でも、十枚」


 おじさんがつぶやいた。ひと月の収入全部をかけて、助かるかわからない。おばさんは首を振って、またせき込んだ。しばらくして、命には代えられんだろ、とおじさんが言って、奥から銀片を持ってきた。わたしはなぜか、息をついた。


「いいんだね?」


 バル婆が銀片を受け取る。おじさんが、頼む、と言うと、すぐに薬師様を呼びに行こうとするバル婆に、母さんが、代わります、と言って走っていった。


 わたしは今できることを、と思うけどすでにバル婆や母さんから対処を教わっていたおばさんの家では、できることがない。


 おじさんが落ち着きなくおばさんの顔の汗をぬぐって、低い声で話しかけている。これはわたしが伝えた。意識を保たないと、薬を口に運べないからだ。


 緊張しながら、母さんの帰りを待つ。どれくらい経ったか分からない。


 おばさんの意識が段々と朦朧としてきて、時折強くどこかに行こうとするのが分かる。せん妄だ。おじさんは泣いていた。バル婆もおばさんの手を握って話しかける。わたしだけ何もできなくて、部屋の外で待つしかない。


 しばらくして、母さんが一人で帰って来た。銀片の袋を握りしめたまま、息が切れ切れだ。わたしは手を引いてバル婆のところに連れていく。


「薬師様は?」


 おじさんが聞く。


「今、薬師様は……別の熱病のひとのところよ」


 母さんが言う。わたしは母さんの背中をなでる。


「今日は寒かったからか、症状が悪くなったひとが他にも多くて。薬師様に薬をお願いする人が、ほかにもいたの」


「そんな」


 おじさんは着物の胸元を目元まで持っていって、汗とも涙ともつかないものをぬぐった。


「次に来てくれるようにお願いはしてあるけど」


 母さんが銀片をおじさんに返そうとしたけど、おじさんは茫然としたように動かなくなってしまった。母さんは、おばさんの寝台の脇に袋を置いた。


「薬師様が、自分が来るまでに集めておいてほしいものがあるって言ってたわ」


 荒地花柳の木の枝、鍋、清潔なお湯。


「枝とってくる」


 わたしは母さんの制止も聞かずに飛び出した。何もできない自分がもどかしいのと、せん妄にうなされるおばさんをこれ以上みていられなかった。夜に川に落ちたらわたしもただでは済まないからそれだけに気を付ける。


 あれから数日で、花は全部散っていた。


 月の灯りに照らされて、細かい枝が沢山地面に落ちているのが分かる。手近な枝のきれいなのを拾い集めて、一目散におばさんのところに走る。早く戻らなければ——その気持ちが働いて、足の感覚がないくらい走った。


 おばさんの家の前について扉を開ける。


 おじさんがおばさんに話しかける声が聞こえる。わたしはすぐに母さんが準備していた鍋の隣に枝を置く。薬師様がいつ来るか分からない以上、今から煮出しても時間が合わない可能性もある。来てから合わせた方がいい。そして、おばさんの様子を見に戻った。


 おじさんはおばさんに話しかけているけど、おばさんの方はもううわごとを言わなくなっていた。痙攣している。


「バル婆、おばさんの震えはいつから?!」


 バル婆はおばさんの手を握りながらキッとわたしを睨んだ。


「お前が出た後すぐだよ!どうしてだい」


 数分以上続いているってことだ。しかも呼びかけに全く反応しない。


 口を開いた。声が出なかった。バル婆を見つめるしかできないでいると、バル婆がすぐに動いておじさんの前にわたしの薬を持ってきた。


「薬師様を待つ時間はないみたいだ。決めな」


 バル婆はおばさんとおじさんに話しかけた。おじさんはバル婆を見た。それからおばさんを見た。そして何もない場所を見て言った。


「……よ、よし」


 わたしは走って台所から湯呑を持ってきた。バル婆に渡すと、すばやく薬湯を注いで、おじさんに手渡す。おじさんの手が震えていた。


 湯呑がゆっくりおばさんの口元に近づいていく。少し開いた唇に、薬湯が触れた。


 ゆっくりと、流し込む。飲めているのか分からない。おばさんは動かない。わたしは手を握り合わせて目を閉じた。目を閉じたまま、数えている。一、二、三。


 部屋の中の音だけを聞く。おじさんの浅い呼吸。バル婆の衣擦れ。


 ――息の音が、変わった気がした。


 目を開ける。おばさんの体はまだ動いていない。でも、さっきよりも、肩の揺れが小さくなっている。気のせいかもしれない。


 バル婆が何かを確かめるようにおばさんの手を握り直した。誰も口を開かない。おばさんの息が、また少し落ち着く。荒かった音が、わずかに静かになっている。まだ安心できない。でも——たしかに。


「……おい」


 おじさんがおばさんを呼んだ。声にならない声だった。






 わたしはじっとしていられなくて。近くにあった布をもって台所に濡らしにいった。ついでに自分の顔の汗もぬぐう。鼻から息をはいた。バタン、とおばさんの家の扉が開いた。


「テン!」


 レンと、ジウが入ってくる。ジウは少し前まであった目の下のクマが消えていたけど、日焼けした肌が青ざめて灰白色になっている。薄暗いなかで不気味に頬が何かで光っていた。わたしはなんで二人が扉に立っているのか分からなかった。


「なに」


「……シウが、死んだ」


 ジウが言った。濡れた布を持ったまま、動けなかった。


「……死んだ」


 ジウの口が動いている。でも、言葉が、妙に遠く聞こえて何を言っているか理解できなかった。


 今朝だって大分元気になってた、やっと器も持てるようになった。わたしはジウに聞いた。


「……誰が見たの」


「え?」


「ちゃんと、確認したの?」


 わたしは続けた。だって、そんなはずない。熱は、呼吸は、脈は。


「ちゃんとみたの!?」


 質問が、自分でも止められない。だって。村の人の言う”死んだ”なんて曖昧なものだもの。ましてやジウだ。嘘だ。ジウに次々質問してたら母さんが来た。


「テン?」


 そう言って、扉の近くに立っていたジウとレンを見る。


「あんたたち」


 呼吸が弱いだけかもしれない。意識がないだけかもしれない。


「シウはさっき、死んだ……母さんと父さんが言ってたんだ」


 そう言ってジウの目から堰が切れたように涙があふれ出した。


「嘘だよ――」


「本当だ!」


 被せて言われる。だって、そんなの変だ。ジウも、おばさんも、おじさんも嘘をついてるんだ。そうだ。


「レン……あんたは見たの?」


 レンは青ざめた顔で首を振った。やっぱり。


「バル婆の近くに薬があるから、あとでシウの家に持ってきて」


 わたしはレンにそう言ってシウの家に走った。足がもつれる。シウの家まで。視界が揺れる。


 頭の中では、ずっと同じ言葉が回っていた。まだだ。まだ決まってない。まだ助かる。


 だってシウは、薬師様からもらった薬で助かった。わたしがおかゆを食べさせて、今日は器をもてるくらい回復した。死ぬわけない。もし熱病でもまた助けるんだ。戸が見えた。


 開いている。湿った薬草の匂い。


 中から嗚咽が聞こえる。わたしは乱暴に戸をくぐった。なんでこんな夜中なのにこんなに人が居るの?こんなに人が居たらシウの治療ができないじゃない。


「どいて!」


 声が掠れる。誰かが何か言った。違う。寝てるだけかもしれない。熱が下がっただけかもしれない。

 布をめくる。シウの顔が見えた。眠っている。


「シウ」


 返事がなかったからわたしはすぐに手首を掴んだ。ほら、あったかい。


 ――でも。聞こえない。わたしは膝をついた。震える手で、親指を押し込む。


 違う。そんなはずない。もっと奥かもしれない。シウの腕が細くなってたからだ。もっと強く押す。焦るな。落ち着け。わたしは息を止めた。指先の感覚だけに集中する。


 胸に耳を押し当てる。


「……テン」


 誰かが後ろで名前を呼んだ。おじさんの声だったかもしれない。わたしは聞こえないふりをした。今は音を聞くために集中しているのだから。


 シウの肩を揺する。


「シウ」


 返事はない。


「シウ!」


 わたしは両手でシウの顔を挟んだ。暖かいじゃないか。それなのに、嫌だ。


 嫌だ嫌だ嫌だ。


 わたしはシウの顎を持ち上げた。

 気道、確保。記憶が勝手に動く。胸を見る。上下していない。


 わたしは震えていた。それでも息を吸って口を押し当てた。空気を吹き込む。

 胸が少し膨らむ。わたしはすぐ胸に手を置いた。位置を探す。

 肋骨。胸骨。重ねる。押す。沈む。一回。二回。三回。押すたび、シウの身体が揺れる。


 やめろ。

 そんな風に揺れるな。


「――テン!」


「黙って!!」


 誰に言われたのか分からなかった。わたしは止めなかった。胸を押すたびに腕が震える。手のひらが、焼けるように熱い。なんで。分からない。でも止めない。


 もう一度、息を入れる。胸骨圧迫。呼吸。圧迫。呼吸。止めるな。脳が死ぬ。まだ戻れる。


 まだ。


 汗が額から落ちる。視界が滲む。でも手だけは止めない。


「戻れよ!!」


 声が漏れた。お願いだから。圧迫するたび、シウの腕が小さく揺れる。それがまるで、本当に生き返りかけているみたいで。


「……テン」


 バル婆の声だ。


「やめな」


「まだ!!」


 わたしは叫んだ。終わらせない。認めるな。止めた瞬間、本当に死ぬ。だから止まれない。腕が痛い。肩が痛い。息が切れる。喉の奥が熱い。


 それでも。


 戻らない。胸は動かない。脈もない。呼吸もない。さっきまであったかかった手首が、冷たくなっていく。


 周囲の泣き声が聞こえていた。誰かがすすり泣いている。わたしかもしれない。

 でもわたしは続けた。やめたら終わる。やめたら。圧迫した胸が、かすかに軋んだ。ぐ、と妙な感触が手に返る。


 肋骨が、折れた。わたしは、やっと止まった。焼けつく両手を置いたまま、固まる。


 シウは動かない。何も返ってこない。わたしだけが、荒い呼吸をしている。


「……あ」


 掠れた声が漏れた。




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