白い部屋の記憶
「……っ」頭の奥が、ぎりぎりと軋む。骨の内側を、誰かにナイフでこじ開けられているみたいに痛い。まるで、巨大な何かに、齧られているような感覚。
——わたしは、“痛み”という怪物に、ずっと喰われ続けている。
――白い。
薄暗かった視界の端に、それがまた現れる。白い壁。白い布。整然と並ぶ、寝台に寝ている人たち。
名札が目に入る。そこに書かれている名前を、わたしはなぜか読めてしまった。そして、それが自分の名前だった気がした——
知らないはずの光景なのに。どうしてか、すべて知っている。
「なに……これ……」まばたきをしたはずなのに、消えない。それどころか、少しずつ、こちら側に滲んでくる。頭の奥で、何かがほどける。絡まっていた糸が、無理やり切られて、また結びなおされるように。
――違う。これは、初めてじゃない。わたしは、これを――
◆
白いけど薄いグレーの天井を、何度も見上げた。見慣れているはずのそれは、いつも同じなのに、毎回違って見える。私は毎日、朝起きて灯りがつくと、天井のシミみたいに見える模様の数を数えていた。トラバーチン模様というらしいその模様は、1枚の天井板に、2000個ほどの穴模様があった。数えたから、たぶん合ってる。
ただ寝ているだけの私には、それを数えることくらいしかやることがなかった。そのせいで、その模様は私の生活をさらに退屈なものにしていた。
学校や病院、事務所でよく見るこの天井が、私の人生で一番見ている景色になった。天井に水槽でも作って魚や亀を泳がせてくれたら退屈しないのに、なんてことまで考える。……地震が来たらそのまま下敷きになって終われるかもしれないしね。
無機質で冷たい。消毒の臭いと、形容しがたい死の空気が漂っている。「……また、来ちゃったか」かすれた声が漏れて、それが自分のものだと気づくのに少し時間がかかった。腕には細い管が刺さっている。透明な液体が、ゆっくりと体の中に落ちていくのがわかる。
ピッ、ピッ、と規則的な電子音が鳴っている。命を刻む音。——ここは、病院だ。
体が重い。起き上がろうとしても、思うように力が入らない。喉が乾く。けれど、体を起こすことができず、水を飲むこともできなかった。「……はぁ」ため息をつくと、喉の奥がじんと痛む。
最近は、ずっとこうだ。どこかが痛んでいない時間の方が少ない。それはもう、単なる「どこかが痛い」という次元の話じゃない。気づけば、痛みが体の中に広がっている。
痛みには、音があると思う。
腰の奥、背骨の芯から、鈍い杭を打ち込まれ続けているような感覚がある。一秒ごとに、その杭がミシミシと深く沈み込んでいく。
息を吸えば肋骨が軋み、吐き出せば肺の裏側が焼け付いた。
もう肉なんてほとんどないのに、痛覚だけが研ぎ澄まされていく。それだけが、私に生きていることを思い出させる。
静かに呼吸して、目だけ動かす。ベッドの脇には、本と映像作品のディスクが積まれている。分厚いもの、薄いもの、表紙が擦り切れたもの。
動けたときは、その中から一冊を手に取って、隅から隅まで読み込んだものも少なくない。
——医学書。
ページをめくる指は、思ったより軽い。視力だけは落ちていなかったから、読むことだけは、まだできた。
「……ふふ」小さく笑う。こんな体になっても、結局これだ。体にいいもの、美味しいものを食べることと、医学書を読むこと。それだけが、私の楽しみだった。医者でもないのに。専門家でもないのに。それでも、どうしても知りたかった。体のことを。病気のことを。どうすれば、治るのかを。
「……原因不明、か」小さく呟く。何度も聞いた言葉だ。何度も説明された内容。検査しても、はっきりした原因はわからない。対症療法しかできない。様子を見るしかない。
――ふざけないで。
心の中でだけ吐き捨てる。怒る元気なんて、もう残っていない。それでも、諦めきれなかった。
もし、もっと知識があれば。もっと、調べられれば。――
「……私が、医者だったら」
ぽつりと零れたその言葉は、誰にも届かない。
◆
次に目を覚ましたとき、視界はぼやけていた。音も遠い。誰かが何かを言っているけれど、うまく聞き取れない。
体の感覚が薄い。痛みすら、どこか遠くにある。
――ああ、とぼんやり理解する。これで、終わりなんだ。
怖くはなかった。ただ、悔しかった。
「……もっと……」声にならないまま、言葉だけが浮かぶ。もっと知りたかった。もっと調べたかった。ちゃんと、治したかった。自分の体を。そして……もっと生きたかった。
視界が、ゆっくりと白に溶けていく。思考だけが、あとに残っていた。
◆
「――っ!」息が戻る。体が重い。痛い。熱い。けど、違う。さっきまでとは違う痛みだ。腹の奥が焼けるように痛む。でも、命に関わるほどの深刻さじゃない。頭の中では、すごい速さで何かが暴れている。
「……は……ぁ……っ」荒い呼吸の中で、言葉にならない単語だけが浮かぶ。水。食べ物。腹痛。吐き気。断片的な知識が、ばらばらに浮かんでは消える。
「……なんで……」全部はわからない。でも――何かが違う。
「テン……?」遠くで声がする。レンの声だ。「……姉さん……?」
わたしはゆっくり目を開ける。見慣れた藁の天井。土の床。――なのに、さっきまで見ていた“白い部屋”が頭から離れない。息を整えようとするたびに、心臓の音がうるさく響く。
わたしは――わたしは、今――
「……違う」かすれた声が零れる。レンが驚いたようにこちらを見る。でも止められない。「……違う、これ……」頭の奥で、何かが繋がる。
ただの村の子どもじゃない。この痛みの原因を、なんとなくだけど知っている。知らないはずなのに、知っている。
「――わたし、知ってる」腹の奥を押さえながら息を吐く。痛みは消えない。むしろ強くなっている。けど、さっきまでとは違う。ただ苦しいだけじゃない。腹は焼けるように痛いのに、それとは別の場所から、興奮が湧き上がってくる。
レンが本気で心配そうな顔で見ている。「……バル婆呼んでくる」
顔を上げる。涙で滲む視界の向こうで、この世界が少しだけ違って見えた。
「……治せる」自然と声が震える。でも、それは痛みのせいじゃない。
わたしは、わたしを治せるんだ。




