白い部屋の記憶
目を開けた瞬間、少女の眉に力が入った。
「……なに?」
腹に手を当てると、そこは誰かに掴まれてゆっくりとねじられているみたいな、そんな痛みを感じる。布団は寝汗を吸って冷たく、じっとりと肌に張り付いて離れない。麻でできた寝間着も湿っていて、もうすぐ夏なのに体がぶるっと震える。
藁を束ねた天井の隙間からは朝の光が細く落ちている。いつも通り。なのに、腹の奥だけ明らかにおかしい。
「っ」
息を吸った瞬間、胃が持ち上がる。口を押さえるけど間に合わなくて、床に夕飯がそのまま落ちた。べちゃ、と嫌な音と匂いが広がる。
「……もったいない」
昨日の山菜がゆ、あんなに美味しかったのに……。少女はそんなことを思いながら、腹の感じが少しだけ楽になったことに気づいた。出したものをそのままにして目を閉じていたら足音が近づいてきて、頬にひんやりとした手が触れた。
「盛大にやってくれたねえ」
「……バル婆」
目を開けると祖母が傍らに立っていた。ところどころ栗色が残った白髪を後ろで団子にまとめていて、つぎはぎの服には薄布を巻いたまま。朝の支度を放り出してきたみたいだった。小柄な体が、すぐ横にしゃがみ込む。
「……だから言っただろ、お前はいつも食べすぎだって」
第一声のすぐ次の言葉がそれだった。バル婆の手は止まらず、吐いたものを手早く片付けていく。
「だって」
片付けを終えたバル婆は、まったく、と言いながら少女の額に手を当てた。顔がすぐ近くに来る。普段は黒に見える瞳の色が、暗い緑に沈んで見えた。
「熱はないみたいだね……なにか変なものでも食べたんじゃないのかい」
「食べてないっ」
少女の腹の奥がぐっとまた締まって、反論と同時にうめき声が漏れる。吐き気は収まったけど、痛みが消えない。
「……バル婆、テンどうしたの?」
顔をしかめて振り向くと、弟のレンが起きたみたいだった。レンは布団から起き上がらずに大きな伸びをしていた。クルミ色の髪が、眠っている間に解けて布団の上に広がっている。
「また、変なもの食べたの?」
レンの、普段は大きな琥珀色の瞳が今は細められて、じっとテンに向いている。
「食べてないってば……」
テンは言い返しながらお腹をさすった。バル婆が立ち上がって腕を組みながら言った。
「しばらくしても治らないようだったら、ちゃんと言うこと、いいね?」
「……わかった」
「よし。でも、いつもみたいに午後までには治るだろうさ」
バル婆の足音が遠ざかる。レンが体を起こして、テンのお腹にそっと小さな手を当てて聞いてくる。
「本当は、何食べたの?」
「山菜がゆだけだって!」
答えながら、テンの口の端が少しだけ上がる。
「……なに笑ってるの?」
「いつもと逆だなって思って」
言いながら軽くレンの頬を叩いて、テンは布団にまた入る。レンの方が、テンよりずっと体が弱くていつもお腹を壊したり熱を出すのだ。
横になっていても、また痛みが来る。波みたいに間を空けて痛みは襲ってきて、目を閉じると一瞬意識が遠くなった。
「……え」
意識が遠くなった時に視界の端に白いものがよぎって、見ようとして目を開けた瞬間にそれは消える。思わずテンは声を出して誰にともなく聞いていた。
「なに?」
レンが布団を出て、テンの顔を覗き込んで、大丈夫?と声をかけてくる。心配の言葉を出すレンのお腹を押しのけて、テンはわざと明るく言った。
「ほら! 朝ごはん食べてきな」
「――でも」
「いいから!」
そのままレンを部屋の外に追いやって、テンは寝室の扉を閉めた。すぐに布団に戻って突っ伏して、ぎゅっと目を閉じる。榛色の髪は朝の日差しを受けながら少女の顔の横に落ちる。
部屋が、静かになった。
痛みは遠ざけようとすると、かえってすぐにやってきて、腹を強く締めつけていく。息がうまく吸えなくて、視界の端がじわじわと暗くなっていった。
さっきの白いのがまたよぎる。じわじわと暗くなってきていた視界の端にそれが見えはじめる。
並んだ寝台。よくわからない道具。誰かが話している。知らない言葉なのに、耳の奥に直接流れ込んでくる。
顔が、いくつも浮かぶ。知らないはずなのにどこかで見た気がする。息が詰まった。腹が痛いはずなのに、それとは別に頭の奥がきしむように痛い。
「……わたし」
口からこぼれたその言葉に、自分で息をのむ。背中に、冷たいものが流れた。
――わたしは。
「……」
頭の奥が、ぎりぎりと軋む。骨の内側を、誰かにこじ開けられているみたいに痛い。
――白い。薄暗かったはずの視界は全く別のものを映していた。白い壁。並んだ寝台。整然と並ぶ、人の影。
今度はまばたきしても、消えない。それどころか、少しずつ滲んで、浸食してくる。頭の奥で、絡まっていた糸が無理やり切られて、また結び直される。
――これは、初めてみるものじゃない。
白いけど薄いグレーの天井を、何度も見上げた。見慣れているはずのそれは、いつも同じなのに毎回違って見える。
私は毎日、朝起きて灯りがつくと、天井のシミみたいに見える模様の数を数えていた。
トラバーチン模様というらしいその模様は、1枚の天井板に、2000個ほどの穴模様があった。数えたから、たぶん合ってる。ただ寝ているだけの私には、それを数えることくらいしかやることがなかった。
学校や病院、事務所でよく見るこの天井が、私の人生で一番見ている景色だ。天井に水槽でも作って魚や亀を泳がせてくれたら退屈しないのに、なんてことまで考える。……そうしたら地震が来てそのまま下敷きになれるかもしれない。
無機質で冷たい部屋。消毒の臭いと、形容しがたい空気。
「……また、来ちゃったんだ」
かすれた声が漏れて、それが自分のものだと気づくのには少し時間がかかった。
腕には細い管が刺さっている。透明な液体が、ゆっくりと体の中に落ちていくのがわかる。
ピッ、ピッ、と規則的な電子音が鳴っている。
体が重い。起き上がろうとしても、思うように力が入らない。喉が乾く。けれど、体を起こすことができず、水を飲むこともできなかった。はぁとため息をつくと、喉の奥がじんと痛む。
最近は、ずっとこうだ。どこかが痛んでいない時間の方が少ない。それはもう、単なる”どこかが痛い”という次元の話じゃない。気づけば、痛みが体の中に広がっている。腰の奥、背骨の芯から、鈍い杭を打ち込まれ続けているような感覚。一秒ごとに、その杭がミシミシと音をたてて深く沈み込んでいく。
息を吸えば肋骨が軋み、吐き出せば肺の裏側が焼け付いた。もう肉なんてほとんどないのに、痛みの感覚だけあるのが不思議なくらいだった。
ベッドの脇に目を向けると、本と映像作品のディスクが積まれていた。分厚いもの、薄いもの、表紙が擦り切れたもの。隅から隅まで読み込んだものも少なくない。
何度開いたか分からない。角の折れたページばかりが勝手に開く。難しい言葉の隣に、私が書き込んだ小さな字が並んでいる。理解したくて、何度も書いた。
「……ふふ」
知っている。この本のどこに何が書いてあるか、全部。医者でもないのに。
「レストランをせっかく予約してたのに。……しかも、やっぱり原因不明、か」
何度も聞いた言葉。何度も説明された内容。検査しても、はっきりした原因はわからない。対症療法しかできない。様子を見るしかない。
――ふざけないで。
心の中だけで、吐き捨てる。怒る元気は、もう残っていない。
それなのに、諦めきれなかった。もし、もっと知識があれば。もっと、調べられれば。
「……私が、医者だったら」
ぽつりと零れたその言葉は、誰にも届かない。
次に目を覚ましたとき、視界はぼやけていた。音がこもって聞こえる。痛みすら、どこか遠くにある。
――ああ、これで終わりなんだ。そう、確信した。怖くはない。ただ、悔しかった。
「……もっと」
声にならないまま、もう叶うことのない望みだけが浮かぶ。
原因を、知りたかった。ちゃんと、治したかった。もっと、おいしいものを、食べたかった。
そして……もっと、生きたかった。視界は、ゆっくり白に溶けていった。
白くぼやけていた視界に、段々と色が戻ってくる。呼吸も一緒に戻ってきて、体の痛みもはっきりしてくる。腹の奥が焼けるように痛むけど、白い部屋で感じていた痛みじゃない。
頭の中では、すごい速さで何かが暴れている。水。食べ物。腹痛。吐き気。断片的な知識が、ばらばらに浮かんでは消える。
「テン?」
声がする。
「……姉さん?」
レン?
目が開く。――口を大きく開けて、必死に空気を取り込もうとする。
見慣れた藁の天井。土の床。なのに、さっきまでの白い部屋がまだ目の裏に残っている。
「消えて」
かすれた声が零れる。レンが驚いたようにテンを見る。
「……違う、これ」
テンは独り言を繰り返した。
「――わたし、知ってる」
腹の奥を押さえながら息を吐く。痛みは消えない。むしろ強くなっている気さえする。
レンが心配そうなおびえたような顔でテンを見て言った。
「……バル婆呼んでくる!」
テンは顔を上げる。そこはただの藁の天井だったけど、涙で滲む視界の向こうで、この世界が少しだけ違って見えた。




