秋の始まり
レンが細かい文字を眺めながら、指で文章を追っている。
「これでいいかな」
レンが紙を差し出してくる。発病してからの記録。わたしは受け取って、ゆっくり読む。まだ早く読むことはできないから、ほとんどレンに任せっきりなのが申し訳なくなる。でも、少しずつ教えてもらって、最近やっと、簡単な読み書きができるようになってきた。レンの教え方が上手なおかげだ。
記録は、日時が正確で、見やすい字、その時々の状況が丁寧に書かれている。おそらく字が読めるものなら誰が読んでも分かる。本当に優秀だ。
「……ありがとう! 本当に助かった」
わたしは全部には目を通さないで、丁寧に折り目にそって紙をたたみながらお礼を伝えた。
「どういたしまして……明日はぼくもいくんだよね?」
レンが上目遣いでわたしを見る。前回留守番にされたことを、まだ根に持っているらしい。薬師様のところに行くと伝えた日、次は絶対に行くと言って聞かなかった。
「うん……でも、大丈夫?」
「なにが?」
「薬師様の家とうちを往復するとすごい疲れるし、時間もかかるけど……」
「大丈夫」
「でも……森の道は歩いたことないでしょ?」
「大丈夫だって!」
正直なところ、レンの体調は四ヶ月前とは見違えるほど良くなってはいる。でも往復二時間の山道がはじめてというのは事実で、それが引っかかっていた。
「大丈夫!……テンのおかげで元気になったから」
読み書きだけじゃなくて、人をおだてる能力もあるみたいだ。
「もう! 仕方ないな……」
そういって諦めて、レンの頭に手を乗せると、少しだけ照れた顔をして手をはらった。わたしは折り込んだ紙をもう一度見る。字は読めるようになったけど、レンにはまだ全然かなわない。薬師様に記録について詳しく聞かれたとき、うまく答えられるか分からないからレンがいてくれれば、心強い。
わたしは、ずっしりとした袋を揺らして音を鳴らす。こんなにたくさんのお金を持つのは初めてだ。
「あげたんじゃない、貸しだよ」
バル婆が銀片十枚が入った袋を渡してきた時にそう言った。バル婆は貸しだって言ったけど、返そうとしたら絶対に断られるに決まっている。
そもそも、こんな大金をどうしたのか聞こうとしてバル婆に目を向ける。
バル婆をよく見ると、いつも付けていた金属のかんざしが木に変わっているのに気が付いた。
前のかんざしは、光が反射して虹色や油膜のような色をした綺麗な黒い石が付いていた。安物さ、と言っていたけど、毎日寝る前に磨いていたのを知っている。いつか、自分も付けてみたい、そう思っていたのに。それが、いつの間にか無くなっている。
わたしは、我慢できずにバル婆に抱きついた。バル婆は、一瞬だけ固まってから、わたしの背中をぽんと叩いた。
……辛いもの好きなバル婆に、何か美味しいものでお返しできないか。シンズを使った料理か、何か別のものか。しっかり考えておこう。
ただ、わたしだってお金のことはずっと考えていたし、何もしていなかったわけじゃない。
レンに字を教わりながら、あちらの世界で得た知識をこの世界向けにまとめてみた。最初に書いたものは今見るととても読めたものじゃなかったから書き直したけど、見る人が見たらかなり役に立つと思う。
漢方のレシピだ。
シウと森を回りながら、昔読んだ漢方の百科事典に載っていた植物と似たものをいくつか見つけた。
世界が違うぶん、全く同じ効果とは言えないかもしれない。だから、今は研究中だ。
それとは別に、すでに形になったものもある。
しばらくの間、ダード納豆を作るために、腐った豆を試食し続けたわたしに必須だったもの。あまり好きではなかった、あの独特な匂い。でも腹痛で動けなくなると、不思議とあの黒い粒を探してしまう。正露丸だ。
記憶を頼りに原材料を思い出して、まず炭焼き小屋のおじさんを探した。
「見学させてもらえますか」
「なんだって?」
「けんがく、したいの……炭がどうやってできるのか気になって……」
変わった子だって言われながら、付いていくことには了承してもらえた。炭焼き小屋は火事の危険があるため村から離れた森の川沿いにあった。
山から切り出した木材を炭窯に入れて、数日間かけてじっくりと蒸し焼きにする。その工程を見学するのには、病院暮らしが長くてじっとしていることに慣れているわたしでも、かなり根気がいった。
でも実際に見ていると、おじさんはただじっとしているだけじゃない。窯の温度を手のひらで確かめたり、煙の色を見て炭の出来を判断したりしている。地味だけど、見ごたえがある。その気持ちのままに賞賛の言葉をかけたら、最後には自由に見ていけと、ぶっきらぼうに言われた。ついでに十本ほど最高の出来の白炭をくれた。
でも、わたしが欲しいのは炭じゃない。
木を蒸し焼きにしたとき、窯に残る成分がある——木クレオソートという。木材を高温で蒸し焼きにすると、煙と一緒に油分や水分が出てくる。それが冷えると液体として溜まる。——と本には書いてあった。
煙突付近や冷えた石にくっついた黒くネバつくものを、おじさんが見ていない隙にしっかり頂戴してくることに成功した。
採集物にオリブ油を加えながらじっくり煮込んで、丸い粒状にして乾燥させる。
実験として、液状、半乾燥、しっかり乾燥の三種類で試した。食あたりはどれも軽減された上に、しっかり乾燥した丸薬だけは日持ちもしている。
ただ、煮込んだ時に部屋に残った独特の匂いは換気してもなかなか取れなくて、バル婆に叱られた。叱られついでに、こんな匂いの薬を知っているか聞いたら、ないと言ってた。少なくともこの辺りには、これに似たものはないらしい。
でも――実際に薬が人の手元に届くまでには、時間がかかる。数十年かかることもある。気の遠くなる回数の確認を、いくつもいくつも積み重ねて、ようやく、人のもとに届く。
わたしが提案できるのは製薬の一番最初の段階、候補物質を見つけたところまで。それで足りるかは分からないし、信じてもらえる保証もない。
だから、ダメ押しでレンにもう一つ頼むことにした。「納豆研究日誌」と並行して、薬を試した記録ノートも作ってもらった。
試したのはわたし自身。
一人だから心もとないけど、ほぼ一ヶ月腹痛に見舞われ続けたおかげで、記録だけはたっぷり溜まった。……ありがたいのかありがたくないのか分からないけれど。
それを記録するレンは、腹痛の状態について詳細な記録をするよう求めるわたしを、若干引いた目で見ていた。けど、文句も言わずに書いてくれた。
バル婆には話していない。自分の体で薬効を確かめたなんて聞いたら、なんと言われるか目に見えているから。
それに——わたしのやっていることは、たぶん、この村の誰の目にも、少しずつ”普通”からはみ出して見えている。それは自覚している。でも、止まる気にはなれなかった。
実際の薬と臨床試験ノート、そして発病からの記録。この三つを交渉の材料にすることにした。
レシピを渡して、この世界で研究改善して販売まで繋げてもらえれば、相談料と治療費を合わせた銀片十枚と金札三枚以上に対して、十分すぎるほど元はとれるはずだ。そう今は思いたい。
わたしはひとつひとつのものを確認しながら袋に詰めていく。
発病からの記録と臨床試験ノート、丸薬を布の袋に丁寧に詰めた。内容の確認と袋詰めをレンに手伝ってもらいながら、ふと横を見るとレンが少しわくわくした顔をしている。
「明日の交渉、うまくいくといいね」
「うまくいきますように」
わたしは祈るように指を組んで目を瞑った。隣から、寝がえりを打つ音がしばらく聞こえていた。




