ダード納豆
レンが朝食を食べながら言ってきた。「姉さん、今日はジウと川に行くから」
「……え」思わず私はレンに迫る。
「熱は?」「なーい」「お腹は?」「平気!」「本当に?」「うるさいなあ」
うるさいで結構。でも、一か月前のレンに「川に行く」なんて言葉は出てこなかった。
「おかわりしてから行きなよ」「する!」即答だった。
レンがおかわりをするのが、最近は当たり前になってきた。熱もめっきり出なくなって、お腹を壊すことも減った。
食事を変えて、父さんに頼んで布団の下に木のすのこを作ってもらったから、夏の夜も通気性を確保できる。そして、布類は小まめに洗濯をする。たったそれだけのことで、ここまで変わった。
父さんと話したのは、出稼ぎから戻ってきた日の夜だった。布団の下の通気性を良くしたい。木で土台が作れないか。父さんは黙って聞いていた。返事もなかった。次の朝、庭で木を削る音がしていた。今ではバル婆と父さん母さんの布団の下にもすのこがある。
そしてレンは代筆の稼ぎを渡してくれる。そのたびに少しずつ貯まっていく。まだ銀片十枚にはほど遠いけども。
畑から帰ってきたバル婆は自分のおかゆに、すりつぶしたシンズをかけている。一度もらったら口が痺れた。種ごとすりつぶすと辛みが数倍になるらしい。わたしは興味本位で少しだけもらう——を毎回繰り返している。
わたし食休みをしながら次のことを考えることにした。
食事改善の次に必要なのは、腸を整えることだ。体が栄養を吸収できなければ、どれだけ良いものを食べても意味がない。腸内環境を整えるなら発酵食品——ところが、この世界には発酵食品を食べる習慣がまったくないみたい。冬は干した肉、冬野菜。それだけ。記憶のどこを探しても、発酵食が見当たらなかった。
ないなら、作るしかない!
材料なら手に入る。
大豆によく似たダード豆と、藁。
ダード豆で、納豆を作る。醤油も作りたかったけど、あれは数ヶ月から一年かかるから今は納豆だ。
ダードを煮て、藁に詰めて、軒下の陰に隠した。次の日に確認しに行ったらなんと、なかった。
「……あれ」
台所でバル婆が鍋を磨いていた。「バル婆、軒下に置いてたやつ、知らない?」「捨てたよ」手を止めずに言う。
わたしのダード納豆が。
「あれは料理なの!」「あんなものが料理なもんかい!」バル婆は手を動かしながら続ける。「藁もダードも無駄にして!」」「無駄じゃないの!」「腐ってたんだよ!」「腐ってないの!」
レンがそっと別の部屋に移動していくのが見えた。
よし——隠れてやることにしよう。
次は台所の奥の、バル婆が滅多に開けない棚の隅に置いた。温度が高すぎると雑菌が勝つ。低すぎると菌が死ぬ。夏だから発酵は早いはずだ——と思って二日後に開けたら、アンモニア臭が部屋中に広がった。思わずえずく。遅すぎたんだ。ダードは藁の中で黒ずんでいた。
捨てる。次!
三度目は、少し早めに取り出してみることにした。匂いをかぐ。香ばしい。糸も引いてる。……いける気がする。
その夜、腹が痛くなった。
霊門の、あの圧痛とは全然違う。もっと広い範囲が、ぐるぐると痛む。うちの糞小屋に五回走った。
翌朝、バル婆に見つかった。「昨日から顔色が悪いと思ったら」ダードの袋を持ちながら腕を組んでこちらを見下ろしている。「ダードで何をしたんだい」「……実験」「食べ物を粗末にするんじゃないよ!」
「しばらくダードを使うのは禁止」「え!」「反論も禁止だよ」
ダードと反論の禁止令が出た。
——でも、あきらめない。
今度は数が減ってもばれないようにごく少ない数のダードで、また始めた。
今度はレンに頼んで、やるたびに記録してもらう。温度、時間、藁の状態、匂い。「姉さん、これ何の記録?」「納豆研究日誌」「ナットー?」「うん。あとで分かるから書いといて」レンは首をかしげながらも、几帳面な字で書き続けてくれた。
記録を見比べながら、少しずつ条件を変えていく。発酵しすぎたもの、足りないもの、途中で腐ったもの——失敗するたびに、何かが分かる、ような気がする。体に良い方向に変化するのが発酵で、そうでない方向に進むのが腐敗だ。この境界線を、記録と感覚で覚えていくしかないのだ。
最初の失敗から約一ヶ月後。棚を開けた瞬間、香ばしい匂いがした。
ゆっくり藁をほどくと白い糸が引いた。
「……できた」
誰もいない台所で、一人で食べた。塩をひとつまみ入れて箸で十回ほど混ぜる。豆と塩がしっかり絡む。口に運ぶ。
動けなくなった。
美味しい。本当に、美味しい。前の世界では当たり前だったものが、ここにあった。捨てられて、失敗して、禁止されて、それでもここに、自分で作った。しばらく、そのまま座っていた。
その夜、食卓に藁苞を置いた。
バル婆が目を細めた。「……なんだい、これ」バル婆の声が一段低くなる。
「料理」「今日は藁が料理かい」「藁の中に料理があるの。開けてみて」
レンが恐る恐る藁を持ち上げ、匂いをかいで顔をしかめた。バル婆は腕を組んだまま動かない。
「これはダード豆を使った料理なの」
バル婆の目が細くなる。「最近、また豆が減っていたのはそのせいかい」ばれてた。「で、でも本当においしいから!」
すぐにお皿を持ってきて、藁をあける。香ばしい匂いが鼻に届いた瞬間、おなかが鳴る。二人はあいかわらずすごい顔をしている。「テン、それ腐ってない?」レンが鼻をつまみながら言う。
腐ってはいるんだけど——体にいい方の腐り方だから大丈夫です!と、今は説明しても伝わらない。
塩をかけて、箸で混ぜ始める。ぐるぐると回すたびに糸がぴんと引いて、豆と塩がしっかり絡んでいくのが分かる。熱々のごはんにかける。口に運ぶ。
幸せだ。
これまでは一人でこそこそ試食していたから、熱々のごはんにかけて食べるのはこれが初めてだ。一気にごはん茶碗一杯を口にかきこんだ。咀嚼しながら恍惚としていたら、隣でごくっと音がした。
満面の笑顔で藁苞を差し出す。「食べないなら私が食べちゃうからね」
レンは器をさっと自分の方に寄せて藁苞を開けて塩をかけて混ぜ始める。——よし、食べる気になった。口の手前まで運んで、でも匂いが来た瞬間に「うっ」と言って、器を置いてしまう。
「テンが食べていいよ、あげる」ノー!あんたに健康になってほしくて作ったのに!
……匂いがだめなのか。なら、隠せばいい。油は匂いをおさえるよね。この世界にはオリーブオイルに似たオリブ油がある。香りが独特で普段は使いにくいけど——今回はむしろそれがいいかもしれない。あちらでも確かオリーブオイルと塩と納豆の組み合わせは合う、って聞いた気がする!
オリブ油をとってくる。納豆にかけて、もう一度混ぜる。箸を動かすたびに、さっきとは違う香りが立つ。差し出すと、レンは恐る恐る口に運んだ。最初は見たことない顔をしていたのが、だんだん笑顔になる。
「お、おいしい!」
でしょーとも。鼻高々でバル婆を見ると、バル婆はすでに自分の分にオリブ油と塩をかけて混ぜ始めていた。混ぜ終わって一口食べたあと、シンズをパラっと入れる。
何そのアイデア!私にも頂戴!二人ともおかわりしてくれた。
その日、納豆をお腹いっぱいに食べた幸せを感じながら布団に入った。うとうとしつつお腹を撫でていたら「っ....」久しぶりにあの感覚。
おなかをねじられるような違和感。痛いかと聞かれたら全然痛くないけど、すごく不快な感じが治まらない。前回は5分ほどだったのに、今回はしばらく経ってもおさまらない。
隣でレンがぐっすり寝息を立てている。わたしはその日しばらく寝付けなかった。前世の記憶が戻ってから約2か月。
次の診察までも約2か月。




