第三話 国境の竜舎
国境の竜舎は、王都の常識が通じない場所だった。
まず、竜が元気だ。百二十頭が広い岩山の斜面に放牧されていて、朝は日光浴、昼は好きに飛び、夕方に自分から房へ帰ってくる。王都のように一日中狭い房に繋がれてはいない。
次に、人が竜に頭を下げる。出撃前、騎士たちは必ず相棒の竜に「今日も頼む」と声をかけ、帰投後は自分の手で鱗を拭く。どんなに疲れていても、竜の世話が先、自分の食事が後。それが団則ですらなく、当たり前の習慣として根付いている。
そして、竜医が尊重される。
着任した日、私は作戦会議室に案内されて、卓の席を一つ与えられた。「主任竜医」の札付きで。会議で私が「この三頭は連続飛行が続いたので明日は休ませます」と言うと、歴戦の騎士たちが「了解」と即答して、本当にそれで決まる。決まって、しまう。最初の頃は毎回、狐につままれた気分だった。
助手も二人付いた。竜医志望の少年と、薬草に詳しい元従軍看護師のおばさま。二人とも呑み込みが早く、ひと月もすると簡単な処置は任せられるようになった。「先生の仕事を残らず盗みます」と少年は宣言している。大いに盗んでほしい。教えた分だけ竜が救われるのなら、私の知識には、出し惜しみをする理由が一つもない。
「王都では、違ったのか」
会議の後、ライナス団長に聞かれた。
「王都では……竜医の意見は『参考』でした。飛ばすかどうかは騎士さまの気分と、大会の日程が決めるものでしたので」
「なるほど。それで名竜が何頭も潰れてきたわけだ」
団長は苦い顔で言って、それから真顔で付け足した。
「ここでは遠慮なく止めてくれ。俺のバロンも、容赦なくだ」
バロンというのは、団長の相棒の黒い老竜である。御年六十二歳。歴戦の勇士だが、あちこちにガタが来ていて、着任早々に私は彼の左後脚の古傷に長年の炎症を見つけた。
「バロンさま、これは痛かったでしょう。なんで我慢していたんですか」
手当てをしながら話しかけると、老竜は喉の奥で、ぐるる、と低く鳴いた。流れ込んでくるのは、照れくささと、それから――あの男が心配するから、という、不器用な気遣い。
竜も騎手も、似た者同士である。
「……団長。バロンさまの左後脚、着地の時にずっと痛みがあります。当分、岩場への急降下は禁止です」
「なに。おいバロン、貴様、痛いなら痛いと」
ぐるる、と老竜はそっぽを向き、団長は「この頑固者が」と額を押し付けた。強面の団長が老竜の鼻先に額をつけてぐりぐりやっている図は、国境名物として、私の胸に永久保存された。
余談だが、この団の竜たちは団長のことを「群れ長」と呼んでいる……ように、私には聞こえる。竜が人間を群れの一員に数えるのは、実はとても珍しい。この人が竜たちに何を積み重ねてきたかの、それが何よりの答えなのだと思う。
働き始めて分かったのだが、ライナス・ホールデンという人は、まっすぐすぎるほど、まっすぐな人だった。
診療棟の設計図を頼まれて三日徹夜で引いたら、「良い図面だ」と即決され、翌週には本当に着工した。危険な難産の当直明けには、なぜか厨房が私の好物の焼き林檎を「団長のご指示で」出してくる。冬用の飛行外套が支給された時は、内側に私の名前が刺繍してあった。「備品の取り違え防止だ」と団長は言ったが、団医いわく、名前入り支給品はこの団で私が初めてらしい。
なぜ焼き林檎が好物だと知っていたのかと聞いたら、団長は視線を逸らして「バロンに聞いた」と言った。バロンは竜である。私の好物を知る機会は、私が診療棟でひとりごとを言った時しかない。つまりこの人は、老竜を経由して私のひとりごとを収集している。抗議すべきか照れるべきか、いまだに結論が出ていない。
極めつけは、着任ふた月目の夜だった。
急患――若竜の毒草誤食――を夜通し処置して、明け方、診療棟の椅子でうたた寝をしてしまった。目が覚めると、肩に砂色の飛行外套がかかっていて、椅子の横の床に、団長が座り込んで壁にもたれて眠っていた。
「だ、団長? なぜここに」
「……ん。ああ、起きたか」
「起きたか、ではなく。朝の哨戒は」
「副長に代わってもらった。急患と聞いたのでな。……手伝えることは無かったが、朝一番に容態を聞ける場所で待ちたかった。それだけだ」
それだけだ、で片付く距離ではない。診療棟と団長室は、竜舎を三つ挟んでいる。
「若竜は、もう峠を越えました。三日もすれば飛べます」
「そうか」
団長は、心底ほっとした顔で息を吐き、それから私を見て、ふっと笑った。
「あなたが来てから、うちの竜は皆、毛艶ならぬ鱗艶がいい。バロンなど、近頃は若返ったと評判だ。……礼を言う。あなたの十年を、王都は安く見積もったが、この国境では、値札が違う」
値札が違う。
その言葉に、じわりと目の奥が熱くなって、私は慌てて薬品棚の整理を始めた。この団長は、こういうことを、こういう率直さで言う。予告なしに。心臓に悪い。
ちなみにその一部始終を、房の格子越しにバロンが見ていた。老竜は喉の奥で、ぐるるる、と長く鳴いた。流れ込んできたのは、面白がる気配と、それから、呆れるほど明確な一言だった。
――にぶい。
「ど、どっちがですか」
思わず声に出して聞き返したら、バロンは答えず、そっぽを向いて尻尾で地面を叩いた。二回。
後で知ったのだが、竜の尻尾二回は「両方だ」の意味だそうである。




