第二話 鱗の餞別
竜の声というものを、大半の人は一生に一度も聞かない。竜は滅多に鳴かない生き物だからだ。
その竜が、王立竜舎の三十七頭、全頭で鳴いた。
地鳴りみたいな低い声が幾重にも重なって、王都の空を震わせた。厩番たちは腰を抜かし、竜舎長は真っ青になって兵を呼び、騎士たちは剣の柄に手をかけて右往左往した。反乱か、疫病か、地震の前触れか。
違う。私には分かった。分かって、しまった。
――行くな。
三十七頭分の、それだけだった。行くな。行くな。行くな。声にならない声が、竜舎の石畳を伝って、私の踵を掴んでいた。
「……ごめんね」
私は竜舎を振り返って、精一杯の笑顔を作った。
「みんな、ごめん。私はもう、ここの治療師じゃないの。でも大丈夫。ちゃんとご飯を食べて、痛かったら我慢しないで鳴くのよ。我慢が一番、体に毒だから」
すると、奇妙なことが起きた。
一番近い房の老竜が、首を伸ばし、身を震わせて――鱗を一枚、私の足元に落とした。
続いて隣の若竜が一枚。向かいの雌竜が一枚。ヴェスタも、翼を引きずって房の格子まで来て、銀の鱗を一枚。三十七頭が、次々と。
竜の鱗は、勝手には剥がれない。竜が心から信頼した相手にだけ、生涯に数枚、自分の意思で落とすと言われている。騎士が相棒の竜から一枚もらえれば、家宝にする。それが、三十七枚。石畳の上で、夕陽を受けて、三十七色に光っていた。
私はその場にしゃがみこんで、今度こそ、声を上げて泣いた。人間には安い首でも、竜たちは、そう思っていなかったらしい。
「――なるほど。異変の原因は、あなたか」
低い声がしたのは、その時だった。
顔を上げると、見知らぬ竜騎士が立っていた。王都の騎士たちの華やかな青い制服ではない、砂色の飛行外套。日に焼けた顔に、遠くを見る癖のついた目。歳は三十前後だろうか。外套の肩章には、国境竜騎士団の黒竜の紋。
「国境守備、第一竜騎士団のライナス・ホールデンだ。昨日から王都に来ている。任務は――王立竜舎の竜たちの『原因不明の一斉異常』の調査。国境まで聞こえたのでな、あの声は」
「こ、国境まで」
「竜の声は山を越える。で、調べに来てみれば」
彼は石畳の鱗の海を見て、それから泣き腫らした私の顔を見て、事情を全部悟ったような顔をした。
「厩番たちに話を聞いた。ヴェスタの診断を出した竜医が、今日付けで追放されたそうだな。診断書は『受理されていない』ことになっている、とも」
「……お耳が早いですね」
「竜の耳はもっと早い。ヴェスタの翼、過剰訓練による翼膜炎症だろう。うちの団医が遠目で見てそう言った。あなたの診断は正しい」
初めてだった。この王都で、私の診断を「正しい」と言った人は。
「言っておくが、慰めではない。国境では、診断の正しさは命に直結する。だから正しいものは正しいと言う。それだけの話だ」
それだけの話が、この王都では十年、一度もなかったのですけれど。
ライナス卿は、床の鱗を一枚拾い上げ、しげしげと眺めて、単刀直入に言った。
「エルシー・フェアバンクス竜医。国境に来ないか。第一竜騎士団の主任竜医として」
「……は?」
「うちは竜が百二十頭いる。国境の実戦部隊だ、怪我も病気も王都の倍ある。なのに竜医は万年不足でな。理由は簡単、危険で、汚れて、誰も褒めてくれないからだ。あなたのような人が、喉から手が出るほど欲しい」
「わ、私は今日、治療ミスで追放された身ですが」
「治療ミス?」
彼は、心底不思議そうな顔で、手の中の鱗を掲げた。
「三十七頭が鱗を落とした竜医が? ……いいか、竜医どの。うちの団の流儀を教えよう。人事の査定は、書類ではなく竜に聞く。竜は嘘をつかない。忖度も、捏造も、派閥もない。竜が信じた者を、俺は信じる。それだけだ」
竜は、嘘をつかない。
その一言が、まっすぐ胸に刺さった。この十年、私が竜舎で信じてきた、たった一つのことだったから。
「待遇の話をする。俸給は王立竜舎の二倍半。危険手当と往診手当は別途。診療棟はあなたの設計で建て直す。助手を二名付ける。装具も薬品も、必要なものは黙って揃える。……あと、これは俺の個人的な追加条件だが」
「は、はい」
「うちの団では、竜医は下働きではない。作戦会議に席がある。竜を飛ばすか止めるかの最終判断は、騎士ではなく竜医が持つ。あなたの『飛ばせません』は、団長命令と同じ重さになる。二度と、誰にも、握り潰させない」
私の「飛ばせません」に、重さをくれるという。
昨日、紙ごと握り潰されたあの言葉に。
「……一つだけ、確認させてください」
「どうぞ」
「そちらの竜舎では、痛みを我慢している竜に、我慢をさせ続ける騎士はいますか」
ライナス卿は、初めてにやりと笑った。
「いたら、俺が鞍を取り上げる。国境では、竜を粗末にする騎士から先に死ぬ。竜を大事にしない人間を、うちは英雄とは呼ばん」
「……もう一つだけ。ずるい質問をしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「あなたは、私の『竜の声が聞こえる』という話を、気味が悪いとはお思いにならないのですか」
ライナス卿は、心底きょとんとした顔をした。
「なぜだ。羨ましい、の間違いだろう。俺などバロンの機嫌を読めるようになるまで十五年かかった」
私は、三十七枚の鱗を丁寧に拾って包み、その人と一緒に、王都を出た。
荷物は鞄一つと、鱗の包みが一つ。十年分の財産は、少しだけ重くなっていた。




