第一話 竜は嘘をつかない
「ヴェスタは飛ばせられません。翼の付け根に炎症があります。最低でも十日の休養が必要です」
王立竜舎の診療棟で、私はきっぱりとそう告げた。
明日は建国祭の竜騎士大会。その前夜に、出場筆頭のヴェスタ――銀鱗の美しい雌竜の翼に、私は診断の札を下げた。飛行禁止の、赤い札を。
「ふざけるな、エルシー!」
札を叩き落としたのは、ヴェスタの騎手にして私の婚約者、エセルバート・グレアム卿だった。王立竜騎士団の若き英雄。三年連続大会覇者。社交界の姫君たちの憧れの的。
「明日が何の日か分かっているのか? 陛下の御前だぞ! 三連覇がかかっているんだぞ!」
「分かっています。ですから今夜のうちに申し上げています。ヴェスタの翼膜は、限界です。この二月の旋回訓練が過酷すぎました。私は先月から三度、訓練量の調整をお願いしましたが」
「竜医ごときが、騎士の訓練に口を出すな!」
竜医ごとき。
はい、私は竜医だ。王立竜舎の治療師。騎士さまたちが表彰台で光を浴びている間、竜舎で鱗を磨き、翼膜に軟膏を塗り、夜通し産気づいた竜に付き添う、日陰の下働きである。
でも、これだけは譲れない。私には、竜の声が聞こえる。言葉ではない。痛みや、怖れや、我慢が、体温みたいに流れ込んでくる。物心ついた時からそうだった。だから分かる。ヴェスタは今、翼の付け根が焼けるように痛い。痛いのに、この子は飛ぼうとする。エセルバートに応えようとして。竜は、そういう生き物なのだ。健気で、律儀で、人間よりよほど、約束を守る。
「エセルバートさま。ヴェスタは痛みを我慢しています。明日、全速の旋回に入れば、翼膜が裂けます。裂ければ二度と――」
「またそれか。『竜の声が聞こえる』だの、気味の悪い妄言を」
彼は吐き捨てるように言って、それから、思い出したように口の端を上げた。
「ちょうどいい。言おうと思っていた。エルシー、君との婚約は解消させてもらう」
「……はい?」
「セリーヌ嬢と婚約することになった。聖竜の巫女の再来と言われるお方だ。竜を鎮める聖なる力をお持ちで、家柄も申し分ない。竜の血と泥にまみれた君とは、その、住む世界が違う」
竜の血と泥にまみれているのは、あなたの竜を生かすためなのだけれど。
言いかけて、やめた。この人には、多分もう、何を言っても届かない。三年前、婚約した頃のエセルバートは、まだ竜舎に通って自分でヴェスタの鱗を磨く人だった。勝つたびに、磨く時間が減った。称賛は人を軽くする。軽くなった人は、地面で働く者の声が聞こえなくなる。
思えば予兆はいくらでもあった。去年の冬、ヴェスタが風邪気味だと伝えた時、彼は「大会に間に合わせろ」とだけ言った。治療費の明細を見て「竜にこんなに掛けるのか」と眉をひそめた。彼にとってヴェスタは、いつからか、相棒ではなく勝利を運ぶ道具になっていた。道具あつかいをされている当の本人が、それでも健気に彼を乗せ続けていたことを、彼は最後まで知らないままだろう。
「承知しました。婚約解消、お受けします。――ですが、それとこれとは別です。ヴェスタは明日、飛ばせません。竜医として、飛行禁止の診断を出します」
「はっ。負け惜しみで竜を取り上げる気か? 醜いな」
「診断書は竜舎長に提出します。規定ですので」
私は本当に提出した。その夜のうちに、正式な書式で、所見と処置と根拠を全部書いて。
翌朝、大会は――ヴェスタの棄権で始まった。
エセルバートが自分で棄権したのではない。朝、鞍を付けようとした彼を、ヴェスタが初めて拒んだのだ。首を振り、後ずさり、どうしても背中を許さなかった。当然だと思う。痛いのだから。
けれど観客席は違う受け取り方をした。三連覇の英雄が、竜に逃げられた。醜聞だ。誰かの首が要る。
そして翌日、竜舎長の執務室に呼ばれた私は、こう告げられた。
「エルシー・フェアバンクス。ヴェスタの容態悪化は、貴様の治療ミスと断定された。本日付で王立竜舎から追放とする」
「……治療ミス、ですか。診断書をお読みになりましたか。炎症の原因は過剰訓練だと」
「診断書? さて、そんなものは受理されとらんが」
竜舎長は、にやりと笑った。机の上には、私が出したはずの診断書の代わりに、見覚えのない「治療記録」が載っていた。私の筆跡を真似た、雑な捏造が。
ああ、と思った。首が要るのだ。英雄さまと、その新しい婚約者さまと、大会を仕切った竜舎長さまの体面のために、一番安い首が。竜医ごときの首が。
ちなみにこの追放劇の裏で、私の後任にはセリーヌ嬢の遠縁の青年が座ることも決まっていたらしい。竜に触ったことすらない、帳簿仕事だけは得意なお人だそうだ。人事というものは、つくづく、竜の健康より軽い。
「弁明は」
「一つだけ。……ヴェスタの治療は、誰が引き継ぐのですか」
竜舎長は、虚を突かれた顔をした。追放される人間が最後に心配するのがそれか、という顔だった。それ以外に何を心配しろというのだろう。
「引き継ぎなど不要だ。貴様程度の仕事、誰にでもできる」
誰にでもできる。この言葉を、私はこの竜舎で何百回聞いただろう。誰にでもできるはずの仕事の後任が、なぜ十年経っても一人も育たなかったのかを、この人たちは一度も考えたことがないのだ。
「私物をまとめて、日暮れまでに出て行け」
私は一礼して、竜舎に戻った。荷物は鞄一つ。十年勤めた治療師の全財産である。
――その帰り際に、あれが起きた。
王立竜舎の竜が、全頭、一斉に鳴いたのだ。




