第五話 北へ
八日目の夕方、老婆が唐突に言った。
「ここを出るつもりかい」
飯を食べている途中だった。箸を止めて老婆を見ると、老婆は窓の外を向いたまま、自分の椀を手に持っている。
「…なんでわかるの」
「そりゃ、お前さんみたいな小娘の考えなんてお見通しさ」
白霜は少し、むっとした。でも否定できなかった。
「一人かい」
「うん。一人だよ…」
一緒に行ってくれる仲間は、もう誰もいない。
老婆は何も言わなかった。やめておけとも、気をつけなとも。ただ飯を食い続けた。夕暮れが土間の床を橙色に染めていて、老婆の横顔に静かな影が落ちている。その無言が、かえって背中を押した。
◆
十日目の朝、老婆に頭を下げた。
「世話になりました」
「どこへ行くんだい」
「まず麓の村に寄って…それから、まだわからないけど」
「わからないのに行くのかい」
「うん」と白霜は言った。
「私にしかできないことが、あるから」
老婆はしばらく白霜を見ていた。それから無言で立ち上がり、奥へ引っ込んで、戻ってきた時には小さな布袋を持っていた。
「持っていきな」
「え、でも——」
「黙って受け取りな」
有無を言わせない声だ。受け取ると、中には干し肉と少しの銀子。
十日、一緒に暮らせばわかる。老婆だってきつい暮らしだ。それなのに。
「…ありがとう」
声が少し掠れた。
「死ぬんじゃないよ」と老婆は鼻を鳴らした。
「せっかく助けてやったんだから」
ぶっきらぼうな言い方だ。でもその奥にある優しさは、この数日でわかっていた。白霜は深く頭を下げた。老婆はもう、薬草の作業に戻っていた。
◆
山を下りて二日、麓の村に着いた。
師父がよく使っていた薬屋は、村の外れにある。何度か買い出しの供をしたことがある店だ。暖簾をくぐった瞬間、薬草と古い木の匂いがした。二月ほど前にも来たのに、遠い昔のことみたいで、現実感がない。
奥から出てきたのは、白髪の老人だった。師父と長い付き合いだと聞いていた。老人は白霜を見た瞬間、表情を変えた。
「…荘の子か」
「はい」
「翁先生は」
「…亡くなりました」
声が掠れ、目頭が熱い。
老人は何も言わず、ただ深くうつむいて、肩を震わせた。
「…そうか」
長い沈黙の後、やっと出たのは、それだけだった。
そして、店の奥へ向かうと、手に細長い木箱を持って戻ってきた。
「翁先生から預かってたものだ。もしもの時は、荘の者に渡してくれと。三年前のことだ。こんな形で渡すことになるとは、思ってなかったが」
受け取った。木箱は思ったより重い。
蓋を開けると、中にいくつかのものが入っていた。まず目に入ったのは印章だった。黒檀に銀で細工された、重厚な印章。側面に小さく文字が刻まれている。手に取って確かめた瞬間、息が止まった。
——玄崇
三年前に処刑された将軍の名だ。北方最強と謳われた男。謀反の疑いをかけられ、消された。だが武林では今でも、あの死は冤罪だと囁く者がいる。
なぜこれが、師父の手に。
次に出てきたのは、薄い絹に細かく書かれた文書だった。文字が暗号のように並んでいて、すぐには読めない。でもこれが何らかの証拠であることは、見ただけでわかった。そして最後に、折り畳まれた書状が一通。
差出人の名前は、将軍と同じ。
書状の文面は短かい。師父への私信だった。
——旧友よ。わしの命は、もう長くない。息子のことを頼む。きっと、わしの死の真相を追おうとする。だが監視の目もある。時機を誤れば、命を落とすだろう。だからお前に預ける。時が来たと思った時に、信の置ける者と共に届けてやってほしい。この箱の中身が、あの子の力になるはずだ。父として、頼む。
三年前の日付。処刑される直前に、師父へ密かに届けられたものだ。師父はこれを預かり、機を待ち続けていた——鉄嶺荘が燃やされるまで。
白霜はしばらく書状を見つめ、それから一つ一つ丁寧に懐にしまう。
「玄崇将軍と、師父は昔から知り合いだったんですか?」
「あぁ。私と翁先生と玄崇殿は、若い頃からの友人だった」
老人は木箱に視線を落とした。
「この箱を預かった時、いつかこういう日が来るとは思っていたよ」
「…手紙にある息子というのは?」
「玄崇殿の息子、玄鷹殿だ。今は陰嶺に左遷されている。鬼槍、と呼ばれている将軍だ」
「鬼槍…」
「戦場では負けなし。その槍が通った後には、必ず血の雨が降ると言われている。父親ゆずりの、本物の武人だ」
そして、皮肉そうに口角を歪めた。
「それを恐れた連中が、都から遠ざけた」
少し間を置いてから、老人は続ける。
「…一つ、知っておいた方がいいことがある」
「なんですか?」
「鉄嶺荘の名が、朝廷に伝わってる。荘が晏と通じていたという話が、上の方で出回り始めているんだ」
「そんな…逆に襲われたんですよ」
「わかってる。だが朝廷が動けば、話は別だ」
胸の奥が、すうっと冷たくなった。
「荘主の牌が、別の人間の手にある。そいつが荘と晏の繋がりを示す証拠を持っているらしい」
「…誰が、そんなものを」
「君には、心当たりがあるだろう」
答えられなかった。唇を噛んだ。
俯いた肩に、老人の手が触れた。慰めるような、温かい手つきだった。
「このあとは、どうするつもりだい」
「…玄鷹将軍の元へ行きます。師父から預かったものを、届けなきゃいけないから」
「危険だよ。それでも行くのかい」
「はい」
それだけ言った。うまく言葉が続かなかった。でも、それだけで十分な気がした。
老人が目元を拭った。
「…さすが翁先生が選んだ弟子だ」
薬屋を出た。冷たい外の空気が肺に染み渡る。
泣きそうだった。泣かなかった。もう、泣かないことに決めた。
地図を広げた。陰嶺まで、北東へ約二十日の道程。
師父が返せなかったものがある。この木箱の中身と、あの夜は、繋がっている。
沈燼も、きっとその先に。
足が、前に向いた。
北へ。まず、北へ。




