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第五話 北へ


八日目の夕方、老婆が唐突に言った。


「ここを出るつもりかい」


飯を食べている途中だった。箸を止めて老婆を見ると、老婆は窓の外を向いたまま、自分の椀を手に持っている。


「…なんでわかるの」

「そりゃ、お前さんみたいな小娘の考えなんてお見通しさ」


白霜は少し、むっとした。でも否定できなかった。


「一人かい」

「うん。一人だよ…」


一緒に行ってくれる仲間は、もう誰もいない。

老婆は何も言わなかった。やめておけとも、気をつけなとも。ただ飯を食い続けた。夕暮れが土間の床を橙色に染めていて、老婆の横顔に静かな影が落ちている。その無言が、かえって背中を押した。



十日目の朝、老婆に頭を下げた。


「世話になりました」

「どこへ行くんだい」

「まず麓の村に寄って…それから、まだわからないけど」

「わからないのに行くのかい」


「うん」と白霜は言った。


「私にしかできないことが、あるから」


老婆はしばらく白霜を見ていた。それから無言で立ち上がり、奥へ引っ込んで、戻ってきた時には小さな布袋を持っていた。


「持っていきな」

「え、でも——」

「黙って受け取りな」


有無を言わせない声だ。受け取ると、中には干し肉と少しの銀子。

十日、一緒に暮らせばわかる。老婆だってきつい暮らしだ。それなのに。


「…ありがとう」


声が少し掠れた。


「死ぬんじゃないよ」と老婆は鼻を鳴らした。


「せっかく助けてやったんだから」


ぶっきらぼうな言い方だ。でもその奥にある優しさは、この数日でわかっていた。白霜は深く頭を下げた。老婆はもう、薬草の作業に戻っていた。



山を下りて二日、麓の村に着いた。

師父がよく使っていた薬屋は、村の外れにある。何度か買い出しの供をしたことがある店だ。暖簾をくぐった瞬間、薬草と古い木の匂いがした。二月ほど前にも来たのに、遠い昔のことみたいで、現実感がない。


奥から出てきたのは、白髪の老人だった。師父と長い付き合いだと聞いていた。老人は白霜を見た瞬間、表情を変えた。


「…荘の子か」

「はい」

「翁先生は」

「…亡くなりました」


声が掠れ、目頭が熱い。

老人は何も言わず、ただ深くうつむいて、肩を震わせた。


「…そうか」


長い沈黙の後、やっと出たのは、それだけだった。

そして、店の奥へ向かうと、手に細長い木箱を持って戻ってきた。


「翁先生から預かってたものだ。もしもの時は、荘の者に渡してくれと。三年前のことだ。こんな形で渡すことになるとは、思ってなかったが」


受け取った。木箱は思ったより重い。


蓋を開けると、中にいくつかのものが入っていた。まず目に入ったのは印章だった。黒檀に銀で細工された、重厚な印章。側面に小さく文字が刻まれている。手に取って確かめた瞬間、息が止まった。


——玄崇(げんすう)


三年前に処刑された将軍の名だ。北方最強と謳われた男。謀反の疑いをかけられ、消された。だが武林では今でも、あの死は冤罪だと囁く者がいる。


なぜこれが、師父の手に。


次に出てきたのは、薄い絹に細かく書かれた文書だった。文字が暗号のように並んでいて、すぐには読めない。でもこれが何らかの証拠であることは、見ただけでわかった。そして最後に、折り畳まれた書状が一通。


差出人の名前は、将軍と同じ。

書状の文面は短かい。師父への私信だった。


——旧友よ。わしの命は、もう長くない。息子のことを頼む。きっと、わしの死の真相を追おうとする。だが監視の目もある。時機を誤れば、命を落とすだろう。だからお前に預ける。時が来たと思った時に、信の置ける者と共に届けてやってほしい。この箱の中身が、あの子の力になるはずだ。父として、頼む。


三年前の日付。処刑される直前に、師父へ密かに届けられたものだ。師父はこれを預かり、機を待ち続けていた——鉄嶺荘が燃やされるまで。


白霜はしばらく書状を見つめ、それから一つ一つ丁寧に懐にしまう。


「玄崇将軍と、師父は昔から知り合いだったんですか?」

「あぁ。私と翁先生と玄崇殿は、若い頃からの友人だった」


老人は木箱に視線を落とした。


「この箱を預かった時、いつかこういう日が来るとは思っていたよ」

「…手紙にある息子というのは?」

「玄崇殿の息子、玄鷹殿だ。今は陰嶺に左遷されている。鬼槍、と呼ばれている将軍だ」

「鬼槍…」

「戦場では負けなし。その槍が通った後には、必ず血の雨が降ると言われている。父親ゆずりの、本物の武人だ」


そして、皮肉そうに口角を歪めた。


「それを恐れた連中が、都から遠ざけた」


少し間を置いてから、老人は続ける。


「…一つ、知っておいた方がいいことがある」

「なんですか?」

「鉄嶺荘の名が、朝廷に伝わってる。荘が晏と通じていたという話が、上の方で出回り始めているんだ」

「そんな…逆に襲われたんですよ」

「わかってる。だが朝廷が動けば、話は別だ」


 胸の奥が、すうっと冷たくなった。


「荘主の牌が、別の人間の手にある。そいつが荘と晏の繋がりを示す証拠を持っているらしい」

「…誰が、そんなものを」

「君には、心当たりがあるだろう」

 

答えられなかった。唇を噛んだ。

俯いた肩に、老人の手が触れた。慰めるような、温かい手つきだった。


「このあとは、どうするつもりだい」

「…玄鷹将軍の元へ行きます。師父から預かったものを、届けなきゃいけないから」

「危険だよ。それでも行くのかい」

「はい」


それだけ言った。うまく言葉が続かなかった。でも、それだけで十分な気がした。

老人が目元を拭った。


「…さすが翁先生が選んだ弟子だ」


薬屋を出た。冷たい外の空気が肺に染み渡る。

泣きそうだった。泣かなかった。もう、泣かないことに決めた。

 

地図を広げた。陰嶺まで、北東へ約二十日の道程。

師父が返せなかったものがある。この木箱の中身と、あの夜は、繋がっている。

沈燼も、きっとその先に。


足が、前に向いた。

北へ。まず、北へ。


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