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第四話・桃の花


十九の春、荘に来てちょうど十年が経った夜のことだ。

演武場の端に並んで座って、月を見ていた。石畳が白く光っている。風が出ていて、桃の花びらがゆっくりと散っていた。静かな夜だった。遠出の稽古に出ていた弟子たちはまだ戻らなくて、荘にはめったにない静けさがあった。


「小霜」


沈燼の声は、いつになく真剣だった。


「なに?」

「俺、荘を出た後のこと、考えてる」


沈燼が先のことを話すのは珍しい。


「どこへ行くか、決まってるの?」と聞くと、「まだ。でも、」と沈燼が白霜を見た。


「一緒に行こう」


恋人になって四年。

初めて聞いた、決意の言葉だった。


「…私も?」

「うん。小霜も」


沈燼が白霜の手を取った。指と指が絡まる。四年間で馴染んだ、いつもの手の重さだ。


「俺はお前と行く。それだけは決めてる」


声のひとつひとつに、深みがある。だから、自然と「…私も」とつられた。


「沈燼と行きたい。どこだとしても」


沈燼が少し目を細めた。


「よかった」

「断られると思った?」

「まさか。小霜が俺を断るはずないだろ」

「すごい自信だね」


白霜が笑うと、沈燼も笑う。

柔らかな月光の下、桃の花びらが一枚、風に乗ってひらりと落ちてくる。沈燼がゆっくりと身を傾けると、唇が、触れた。四年間で何度も触れた唇だけど、この夜のそれは少し違った。


約束のような、誓いのような、そういう口づけだ。


「顔、赤い」

「言わないでよ」

「…小霜」

「なに」

「お前が好きだ。本当に」


沈燼の唇から紡がれる言葉が好きだった。

彼の言う「好き」という響きが、何よりも好きだった。


「私も。大好きよ、沈燼」


もう一度、唇を寄せる。心から幸せだと思った。


今夜の幸福は、ずっと続くと。

そう、思ってた。


——荘が燃えたのは、それから一ヶ月も経たない夜のことだ。



目を閉じると、耳にあの笑い声が浮かんでくる。

四年間、隣にいたのだ。くだらない話をした。喧嘩もした。「世界で一番好きだ」と言われて、何度もキスをした。


あの笑顔は、嘘だったのか。四年間は、全部嘘だったのか。

わからない。

わからないまま、憎まなければならない。それが、一番辛かった。


傷が痛む。でも傷よりも、胸の奥にあるしこりのようなものが、もっと痛い。

それは『憎しみ』と呼ぶには、あまりに輝きを放っていた。


老婆が飯を持ってきた。黙って受け取って、食べながら思った。泣けたら楽になるのかもしれない。でも泣けない。涙は、あの夜に出し尽くした。残ったのは、思い出だけだ。



傷が塞がるまで、結局十日かかった。

老婆は毎日、何も言わずに薬草を替えて、飯を持ってきた。世話をしながら、一度も「何があったのか」と聞かない。その沈黙が、ありがたかった。聞かれたら、何と答えていいかわからなかったから。


三日目の夜、どうしても眠れなくて、暗い天井を見ていた。老婆が土間で何かをしている。灯りを落とした部屋の中で、老婆の影が静かに動いていた。


「…眠れないのかい」


老婆が言った。こちらを見ていなかった。ただ手を動かしながら、独り言のように。


「うん。眠れないの」

「そうかい」


それだけだった。しばらく沈黙が続いて、老婆の手が薬草を刻む音だけがする。その音が、妙に落ち着いた。


「婆さんは」と、気づいたら口を開いていた。


「大切な人を、失ったことある?」

「あるよ」

「辛かった?」

「今でも辛いさ。でも飯は食える。そういうもんだ」


老婆は決して、いつか辛くなくなる日が来る、とは言わなかった。そっちの方が、正直だと思った。辛いまま、飯を食う。辛いまま、眠る。辛いまま、朝が来る。

それが、生きていく、ということなのかもしれない。



五日目の朝、初めて外に出た。

老婆に断ってから、納屋の裏の空き地で刀を抜く。型を一つ打った。体が重かった。背中の傷が引きつって、腰が入らない。ひどいものだった。それでも、手の収まりだけは変わらなかった。刀が、手に馴染んでいる。

型を終えて、しばらくそのまま立っていた。遠くに山が見える。鉄嶺荘のあった山だ。こうして見ると、何も変わっていないように見えた。緑の木々が覆っていて、澄んだ空が広がっていた。


「上手いね」


声がして振り向くと、老婆が腕を組んで立っていた。


「…見てたの?」

「悪いかい?通りかかっただけさ」

「体が鈍ってるから、恥ずかしい」

「どこで習ったんだい」

「山の上で」

「そうかい」


それ以上聞かなかった。ただ鼻を鳴らして、「飯ができてる。食いな」と踵を返す。その背中を見送りながら、もう一度山を見た。


師父たちは、あの山にいる。荘の仲間たちも、みんなあの山にいる。

けれど、弔いに戻ることは、まだできなかった。

傷が塞がったばかりだったし、何より、今戻ったら、もう前を向けなくなる気がした。


待っていてほしい、と思った。声には出さなかった。


必ず戻る。ちゃんと弔いに来る。それまで、あの山で待っていてほしい。

でも今は、行かなければならない。

師父が「生き延びなさい」と言った。だから行く。生きて、やるべきことをやって、それからちゃんと戻ってくる。それが今できる、唯一の約束だった。


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