第三話 あの日の思い出
気持ちが傾いていると気づいたのは、入荘して五年目の春。
十四歳の春。梅が咲いていた。荘の裏手の古い梅の木に白い花が満開で、稽古の帰り道、白霜は一人でその下に座っていた。沈燼が通りかかった。
「白霜、何してんの」
「梅、見てるの。ほら、満開だよ」
「花なんか見てどうすんだ」
「もったいなくない?こんなにきれいなのに」
沈燼は少し笑った。
それからなぜか、白霜の隣に腰を下ろした。
「…座るの?」
「ちょっとだけ」
二人で梅を見た。
風が吹くたびに花びらが舞い、その一枚が白霜の髪に落ちた。沈燼がそれを指でつまみ、そっと払う。
たった、それだけのこと。なのに白霜の心臓は、意味もなくうるさく鳴った。
(あ、そうか)
好きなんだ、と思った。
気持ちに気づいてから、白霜はしばらく沈燼を避けた。
目が合えばすぐ逸らし、話しかけられても短く答えて終わらせる。夜の素振りも、沈燼が来そうな時間を外すようにした。
自分でもどうかしていると思う。好きなのに、近づけない。距離を置けば置くほど、余計に意識してしまう。
それでも沈燼は、そんな白霜を気にした様子もなく、変わらず話しかけてきた。
「飯、食ったか」
「うん。食べた」
「顔色悪いぞ」
「余計なお世話」
「は?生意気なやつめ」
そして、次の日も同じように話しかけてくる。その次の日も、また次も。
それが、じわじわと白霜の壁を溶かしていった。
ある夜のことだ。
いつの間にか、隣に沈燼がいた。気づかなかった。
「避けてるだろ」
「…避けてない」
「避けてる」
断言だった。
「前は夜の練習場に来てたのに、最近は来ないし、飯の時も俺の反対側に座る」
「気のせいだよ」
「気のせいじゃない」
返せる言葉がなくて黙ると、沈燼もしばらく沈黙した。それから、静かに言った。
「避けんなよ」
「別に避けて——」
「お前に避けられるの、嫌だ」
白霜は沈燼を見た。沈燼も、こちらを見ている。何か言おうとして、言葉が出なかった。
先に目を逸らしたのは、沈燼の方だった。
「明日の夜、練習場に来いよ。変な癖がつく前に、型を直してやる」
それだけ言って立ち上がった沈燼の耳は、わずかに赤く染まっていた。
◆
関係が変わったのは、白霜が十五歳の夏。
稽古の後、二人きりで水を飲んでいた時のことだ。
「好きだ」
突然すぎて、器を落としそうになった。
「…はい?」
「好きだ。前から」
いつも通りの顔だ。でもその目は、いつになく真剣だった。白霜は思わず目を逸らした。
「ちょっと待って。突然、なに?」
「突然じゃない。ずっと思ってた」
「急すぎるよ」
「そう?」
沈燼が少し笑う。柔らかい、見慣れない笑い方だった。
「それで、返事は?」
白霜はしばらく沈燼を見ていた。心臓がうるさく、耳まで熱い。返事を静かに待つ沈燼の顔を眺めているうちに、いつの間にか声が漏れていた。
「…私も」
「私も、なに」
「大好き。ずっと前から」
沈燼の表情が、少しだけ変わった。笑ったまま、でも目が温かくなって、それから照れたように視線を外した。「よかった」と、いつもの大きな声じゃなく、ぼそっと言った。その「よかった」がなんだかおかしくて、白霜は笑ってしまった。
「なに笑ってんだよ」
「沈燼も照れるんだって思って」
「照れてない」
「照れてるじゃん」
「…うるさい」
その夜、二人で並んで帰りながら、沈燼がそっと白霜の手を取った。指を絡めて、しっかりと。
「白霜。手、つないでいい?」
「今さらじゃない?」
「一応、聞いとかないと」
「特別に許可しましょう」
沈燼が笑った。白霜も笑った。それが、私たちの始まりだ。
四年間、一緒にいた。
恋人になってからの四年間は、それ以前の五年間と、見た目はあまり変わらなかった。同じ荘で修行して、同じ飯を食べて、同じ星を見る。ただ、少しだけ違うことがあった。夜の素振りが終わった後、沈燼が隣に座って月を見るようになった。話すでもなく、ただ並んでいる。それがいつの間にか当たり前になっていた。
荘の外へ使いに出る時、二人で行くことが増えた。山道を歩きながら、沈燼がくだらない話をして、白霜がそれに乗っかって、笑いながら歩いた。
「小霜って、花を見る時だけ顔が変わるな」
ある日、山道の脇に咲いていた野花に白霜が足を止めた時、沈燼が言った。
「そう?かわいい?」
「ちょっとだけ、子供みたいな顔になる」
「失礼じゃない?」
「褒めてる」と沈燼は笑った。
小霜、と呼ばれるようになったのは、恋人になってからのことだ。最初に呼ばれた時は少し恥ずかしかったけど、すぐに慣れた。慣れてしまったら、その呼び方がない日が、少し物足りなかった。
ある夜、星を見ながら二人で並んでいた時、沈燼が不意に言った。
「小霜、俺のこと好き?」
「…急になに」
「確認したくなった」
前を向いたまま言う。月明かりの中で、少し耳が赤かった。
「好きだよ」と白霜は答えた。
「荘で一番」
「そこは嘘でも、世界で一番、だろ?」
「欲張り」
「俺は、世界で一番好きだ」
さらっと、でも真剣な声だった。
頬が熱い。見られたくなくて、膝を抱えて顔を伏せると、沈燼の手が白霜の髪をそっと一度だけ撫でた。
「小霜、顔上げて」
「やだ」
「なんで」
「赤いから」
「見せてよ」
「絶対やだ」
結局、その夜は顔を上げなかった。でも沈燼の手が、ずっと白霜の手を握っていた。そういう夜が、たくさんあった。
稽古で打ち負かされた夜、悔しくて黙っていると、沈燼が何も言わずに隣に座った。しばらくして「明日、また打ち負かしてやる」と言ったから「最悪」と返しながら笑ってしまった。悔しいのに、笑えた。
冬の終わり、使いの帰り道に雨に降られた。
急いで軒下に駆け込んで、二人で並んで空を見た。灰色の雲が低く、雨はなかなか止む気配がない。
「全然止まないな」と沈燼が言った。「うん」と白霜は答えた。沈燼の肩が、白霜の肩に触れていた。その温度が、心地よかった。
そういう四年間だった。特別なことは、何もなかった。
ぜんぶが、特別だった。




