第二話 見知らぬ天井
目が覚めた時、見知らぬ天井があった。
節の多い、古い木の板。隙間から光が差し込んでいるが、朝か昼か、わからない。それよりも先に気づいたのは、体が動かないということだ。動かないというより、動かす気が起きない、という方が近い。背中が熱く、呼吸するたびに傷口が引きつった。
「やっと起きたんだね」
低い声がした。土間の方を向くと、老婆が座っている。薬草を束ねる手を止めもせずに、こちらを見ていた。しわだらけの小さな手が、慣れた動きで茎を縛っている。
「三日だよ」
老婆は言った。
「山から転がり落ちてきて、うちの畑に倒れてた。まったく。若い娘が、こんな大怪我で」
三日。その言葉が、頭の奥でゆっくりと溶けていく。
「あんな傷で死ななかったんだから、お前さん、相当しぶといね」
老婆はぶつぶつと言いながら、手を動かし続けた。
「…他に、誰か来ませんでしたか」
「さあね。うちに来たのはお前さんだけだ」
そうか、と思った。
三日間、誰も来なかった。生き残りがいれば山を下りてくる。村に助けを求めに来る。それが誰もいないということは——
「あの…他に何か変わったことは」
「山が燃えてたよ」
「…山が」
「三日間ずっと煙が上がってた。民家もいくつか焼けたって話だよ。まぁ、あたしにゃ関係ないけどね」
老婆はふん、と鼻を鳴らすと、手元に視線を落とした。
仰向けになると、天井の節が目に入る。ぼんやりと、それを数えた。
こうして知らない場所で目が覚めるのは、初めてじゃない。
鉄嶺荘に拾われた夜も、同じだった。
◆
あの時のことを、断片的にしか覚えていない。
生まれたのは北方の農村。父は荷運びで生計を立て、母は機を織った。小さな、ただそれだけの暮らしだった。
戦が来たのは、白霜が九歳の秋のことだ。何の前触れもなかった。
朝、働きに出た父が夕方になっても戻らない。夜になって、遠くから煙が上がると、母が手を引いて走り出した。どこへ向かっていたのか、今でも知らない。
途中で、手が離れた。
気づいたら一人だった。夜の野原に、子供が一人きり。煙の匂いだけが鼻の奥に残っていた。どれだけ歩いたのか、どこで倒れたのか、その記憶もほとんどない。
次に目を開けると、知らない天井があった。
翁白麟老師が、そこにいた。丸い顔の、白い髭の、穏やかな目をした老人だ。
老師は白霜の顔をしばらく見て、それからこう言った。
「ご飯を食べなさい」
それだけだった。それから、荘での生活が始まった。
鉄嶺荘は、山の中腹に建てられた武術の山荘だ。武林でそれなりに名の知れた門派で、戦孤児や流れ者を拾い集めて武を教えていた。弟子は多い時で三十人ほど。年中誰かが組み手をしていて、年中誰かが怒鳴られていて、笑いもあれば喧嘩もある。そういう場所だった。
初めて木刀を握った時、手の収まりがあまりにも自然で、泣きたくなった。
ここに居ていいんだ、と許された気がした。
◆
十年が経った。
また知らない天井の下にいる。
けれど、あの頃と違うことが一つ。今度は誰も「ご飯を食べなさい」とは言わない。
この十年の間に、荘には色々な人間が来た。来ては去り、来ては残った。白霜もその一人だ。気づけば古株になっていて、気づけばここが唯一の家になっていた。
そのすべての中心に、沈燼がいた。
沈燼は白霜より二歳上の兄弟子だ。白霜が入荘した時、沈燼はすでに山荘で一位二位を争う腕前だった。
鉄嶺荘は、笑顔が決して多くない。戦孤児や流れ者が集まる荘だから、みんなどこかに傷を抱えている。だからか、沈燼の明るさは最初から目立っていた。
師父に叱られた時でさえ、声を上げて笑う。「すみません師父、気をつけます」と頭を下げて、翌日にはけろっとしている。稽古でしくじっても「俺ならできる」と言って顔を上げる。誰かが暗い顔をしていると、くだらない話を始めて、気づいたら周りが釣られていた。
沈燼がいると、空気が和む。沈燼がいると、みんなが笑う。そういう人だった。
最初に沈燼を意識したのは、入荘して二年目の夏のこと。
その頃の白霜はまだ十一歳で、荘の中では一番の年下だった。剣の腕は伸びていたが、体が小さい分、力負けすることが多い。悔しくて、毎晩一人で残って素振りをしていた。
ある夜、気づいたら隣で沈燼も素振りをしていた。
「なんで来るの」
「俺も練習したかったから」
「私が先にいるのに」
「演武場はこんなに広いんだぞ。文句があるなら、白霜が先に帰ればいいだろ」
そのまま二人で黙って素振りをした。
月が出ていた。沈燼の剣筋は、無駄がない。振るたびに風を切る音が、白霜のそれとは違う。きれいだ、と思った。悔しいけれど、とてもきれいだ。
どれくらい経ったか、沈燼が不意に口を開いた。
「白霜、力で押し切ろうとしすぎ」
「…わかってる」
「お前は女なんだから、もっと——」
「女とか男とか関係ないもん!」
「お前、ほんと頑固だな」
素振りを続けながら、沈燼は言った。責める声じゃなかった。
「この間、三兄に負けたのが悔しいんだろ」
「ほっといてよ」
「三兄の攻めは速い。でもお前も悪くなかった。次は力じゃなくて柔で崩してみろよ」
慰めじゃない。ただ思ったものを口にした、という感じ。それが、柔らかな温度を持って、耳に届いた。
その夜からだ。沈燼は時折、練習場に姿を見せるようになった。来ない日の方がずっと多かったけれど、来た時は必ず何か一つだけ言った。「今日は腰が入ってた」「左の肘が甘い」「重心意識しろ」。それだけ言って、また素振りに戻る。
白霜はいつしか、その「一言」を待つようになっていた。




