その日、報告はなされた
「は? もう一度言ってくれ」
松上フェリシアが珍しく、目を通していた書類から顔をあげた。
いつも、“余裕” という名の透明な仮面をつけているような主人の、こんな顔を見られるのは側仕えの特権だろう。
松上フェリシアは一人部屋。今日は学園の寮ですごすが、王都にある実家に帰ることも、何ヵ所かキープしている宿や借り上げた家で寝ることもある。
場所が変わっても変わらないのは常にお付きの人がいることで、学園にいるときは、たいてい松中アンナがその役目を担っている。
松中アンナとしては、何気ない雑談がてらの報告だった。
お嬢様、と。呼ばれるのが嫌いな松上フェリシアの場合、本人が博識なので、普段は松中アンナが報告をしても、ふーんで済まされてしまう。
だからこそ、仮面のはがれた年相応の驚いた表情は貴重だった。
「スライムが文字を書いた、と申しあげました」
ちょっと大袈裟ではある。
沢音リーナの使い魔であるスラリスが人の読める文字を記したのは本当であるが、意味までは理解して書いてはいないだろう。良くできたオートマタの中には、文字を書くものもあるが、それと同じ。バネや歯車の組み合わせで手元がそう動くだけで、人形が意思を持って記しているわけではない。
それでも、使い魔とはいえスライムがそんなことをした、なんて話は今まで生きてて聞いたことがないので、やっぱり沢音リーナのスライムは特別なのだろう。
が、松上フェリシアの考える、スラリスの可能性はそこではない。
「書類の、一旦、インクで書いた部分が修正できるって ?!」
「はい。びっくりですよね」
鉛筆と消しゴムは、この世界にもある。
ゆえに想像はできる。口で説明されても。
しかし、松中アンナが実際に見た驚きには到底及ばないだろう。
松上フェリシアの頭の中では、ちょっとした間違いを消して訂正できる=こう、スライムが細い触手で文字をなぞってちょいちょいっと訂正している姿が浮かんでいる───それでも、書き損じればまるまる一枚書き直しになる正式な文書では大助かり───だが、本物はまるで違う。
今回は一段ずれた名簿を直しただけだが、その可能性は無限大。指示の仕方によっては、文章のレイアウトや、こっからここをこっちにとか。様々な本から必要な部分を集めて一枚にまとめる、なんてことも。
ただ、同じ文書をひたすら複写するのでさえ、今まで必要だった版を用意しなくていいのだから、ものすごく時間が節約できる。
この紙もう一枚あったらな、と思わない日のない松上フェリシアだ。ああでもある、こうでもある。彼女の夢が膨らんでいく。
そして。
ひょっとしたら。もし、かりに。
ここが、こうなったら、ここにこう書く、とまで覚え込ませれば、面倒な帳簿付けが劇的に楽に・・・。とは、松中アンナの夢。
だが、松上フェリシアの表情は険しくなっていた。
「どうかなされましたか?」
「ああ、うん。それなんだけど」
一回見れば話は早いのだけれど、もう、部活も終了し、生徒は寮や家に帰ってしまっている時間だ。
仕方なく松中アンナに質問を繰り返す松上フェリシアだが、彼女が頭を抱えるまでに、そう長い時間は必要なかった。
気づいてしまったのだ、彼女は。
「・・・これを知っている人は?」
「今日、部室にいた人だけですけど・・・」
「至急、口止めしてくれ。されてないんだろう?」
うなずく松中アンナに、松上フェリシアはそら恐ろしさすら感じる。
それは彼女へ、ではなく、放っておくと何を仕出かすかわからない集団に対するモノだ。
「かしこまりました」
雑談モードの砕けた様子から、松中アンナが、きりりと仕事モードに切り替わる。
もちろん夜更けに彼女が男子寮に立ちいることはないが、口止めは速やかになされるだろう。
「カッッエのやつが帰った後で本当に良かった」
松上フェリシアの口から、ほぅと息がもれる。
彼の訪問タイミングが少しずれていたら、口止めされていたのはこっちだったに違いない。
その場合、たとえ口止めされたとしても、松中アンナは主人に報告し、口止めした側にその事実を伏せる。これは口が軽いのではなく、自分の主人に対する信頼の現れだ。
その上で松上フェリシアは口を挟む必要があれば、従者を除いた状況で、たまたま知ったという演出を施し介入する。必要がなければ沈黙を守る。
それでも秘密を知る人間の中に、成り上がりの野望を持つ者がいるといないとでは、対応がぜんぜん変わってくる。
「・・・明日は部室に顔を出してみるかな」
実際にスラリスの活躍を見学し、口止め前に喋った人がいないか確認し───
───実際に書類のゼロの数でも増やして見せてやろう。
ふふっ。
自分たちが考え出した手法の恐ろしさに気づいていない後輩達がどんな反応をするか。
松上フェリシアの明日の楽しみが少し増えた。




