第八章:深夜の迷い、水底の夢
翌日の夜。麻衣はいつものように、キッチンに立っていた。
今日の作り置きは、彩り豊かな野菜の肉巻きと、出汁をたっぷりと含ませた高野豆腐の煮物、それに新玉ねぎのおかか和え。
包丁の音が、トントントンと軽快に響く。豚肉でアスパラとにんじんを巻き、焼き色をつけていく。フライパンの中で肉汁がじゅうじゅうと弾ける音が、キッチンに満ちていく。高野豆腐は、出汁を吸うたびにふっくらと膨らみ、優しい黄金色に染まっていった。新玉ねぎは薄く切り、水にさらしてから、鰹節と醤油で和える。辛味の少ない春先の玉ねぎならではの、瑞々しい甘みが際立つ一品だ。
(高瀬さんに、食べてもらいたいな……)
ふいに、そんな想いが指先から溢れそうになる。
彼が言っていた、お酒が飲めないという言葉。それなら、家庭的で優しい味付けの料理が合うかもしれない。
彼は何を美味しいと思うだろうか。
麻衣の作る「出汁の味」を、彼は気に入ってくれるだろうか。
けれど、同時に戸惑いも頭をもたげる。
いつか食べてもらえる日が来るなんて、期待していいのだろうか。
二人はまだ、一度しか会っていない。
お互いの「欠落」を確認し合っただけの、バツイチ同士。
また、元夫の時と同じように、いつかはこの料理の味に飽きられ、麻衣の存在そのものが「当たり前」という名の透明な背景に変わってしまうのではないか。
結婚生活の終盤、元夫は麻衣の作る料理に「美味しい」の一言すら口にしなくなっていた。無言で箸を運び、無言で食べ終える。その沈黙が、麻衣の作る料理から、少しずつ意味を奪っていった。あの頃の虚しさを、麻衣はまだ忘れていなかった。
料理は、作り手の心をそのまま映す鏡のようなものだと、麻衣は思っている。丁寧に出汁を取れば、その分だけ料理は優しい味になる。だが、その丁寧さを受け取ってもらえなければ、注いだ手間はただの自己満足になってしまう。高瀬なら、この不安ごと受け止めてくれるだろうか。
火を止め、鍋から立ち上がる湯気を眺める。
料理をすることは、麻衣にとっての愛情の表現だ。
けれど、その愛情が重荷にならないだろうか。
この年での恋愛は、一歩間違えれば「生活感」という名の重力に引きずり下ろされてしまう。
まだ手を繋いだこともない相手に、こんなにも生活の匂いのする料理を作っている自分を、麻衣はふと客観視した。もっと軽やかに、もっと恋愛らしく振る舞うべきなのだろうか。それとも、これこそが今の自分にできる、精一杯の誠実さなのだろうか。答えは出ないまま、麻衣は保存容器の蓋を一つずつ閉じていった。
保存容器に料理を詰めながら、麻衣はふと、大学時代の友人に電話をかけたい衝動に駆られた。けれど、時計を見るとすでに夜十時を回っている。こんな些細な不安を誰かに聞いてもらうには、少し遅すぎる時間だった。
結局、麻衣はその不安を、自分の内側だけで消化するしかなかった。
その週の半ば、実家の母から電話がかかってきた。他愛のない近況報告のつもりで出た電話だったが、話しているうちに、麻衣は自分でも驚くほど自然に、高瀬のことを口にしていた。
「今度、今度って、母さん詮索しないから安心して。……でも、良かったわね。無理せず、麻衣のペースでね」
電話の向こうの母の声は、驚くほど穏やかだった。詮索も、急かすような言葉もない。ただ、そっと麻衣の背中を押してくれるような温かさだけがあった。
思えば、結婚が決まった時も、離婚を報告した時も、母はいつも同じ距離感で麻衣を見守ってくれていた。喜びすぎることも、悲しみすぎることもない。ただ、麻衣の選択を信じて、そっと後ろに立っていてくれる。その静かな信頼が、今の麻衣にはたまらなく心強かった。
「相手はどんな方なの、なんて聞かないから安心して。でも、もし辛くなったら、いつでも帰ってきていいのよ」
その一言に、麻衣は胸が熱くなるのを感じた。急かさず、詮索せず、それでいて揺るぎない居場所を用意してくれる。母のそんな距離感を、麻衣は改めてありがたく思った。
「うん。ありがとう」
電話を切った後、麻衣はしばらくスマートフォンを見つめていた。出汁を丁寧に取りなさいと教えてくれた母は、恋愛についても、余計な口出しをせず、ただ見守ってくれる人だった。その距離感に、麻衣は今更ながら感謝の念を抱いた。
寝る前、麻衣はいつもより丁寧に肌の手入れをすることにした。化粧水を重ね、乳液を馴染ませ、目元には少し値の張る美容液を薄く伸ばす。鏡に映る自分の顔を見つめながら、麻衣は自分に問いかけた。
(誰のためでもなく、自分のためにやっていることのはずなのに、どうしてこんなに彼の視線を意識してしまうんだろう)
それでも、手を止めることはなかった。むしろ、この些細な儀式そのものが、これから訪れる週末への期待を形にする作業のように感じられた。
美容院の予約サイトを開き、週末の午前中に空きがあることを確かめる。前髪を整えるだけの、ほんの小さな贅沢。それだけのことが、今の麻衣にはひどく特別な行為に思えた。
久しぶりに、ネイルサロンの予約も入れてみた。普段は爪を短く切り揃えるだけで済ませていたが、今回だけは、控えめなベージュのジェルネイルを施してもらうことにした。指先の変化一つで、こんなにも心が浮き立つものかと、麻衣は自分でも驚いていた。
水族館までの経路も、麻衣は何度も地図アプリで確認した。品川駅から徒歩何分、閉館時間は何時。調べる必要のないことまで調べては、まだ何も始まっていない週末に、少しずつ輪郭を与えていく。
バッグの中身も、いつもより慎重に選んだ。荷物になりすぎない小さめのショルダーバッグに、リップと、念のための折りたたみ傘。デパートで新調したハンカチも、そっと忍ばせておいた。
その夜、麻衣は新しいワンピースとパールのネックレスを、実際に身に着けてみた。鏡の前でくるりと一回転し、裾の揺れ方を確認する。靴は、履き慣れたローヒールにするか、少し冒険して華やかなパンプスにするか、最後まで迷った末、結局は歩きやすさを優先することにした。
全身を鏡に映しながら、麻衣は小さく呟いた。
「……悪くない、と思う」
その一言に、これまでの数日間の焦燥と迷いが、少しだけ報われたような気がした。
ふと、何か手土産を用意すべきだろうかという考えが頭をよぎった。それでも、初めての正式なデートで、あまりに気合の入ったものを渡せば、彼を身構えさせてしまうかもしれない。結局、何も持たずに、自然体で会うことに決めた。それが、今の麻衣にできる、精一杯のさりげなさだった。
その夜、麻衣はなかなか眠りにつけなかった。
目を閉じると、水族館の大きな水槽の前で、青い光に照らされた高瀬の横顔が浮かぶ。
彼はどんな服装で来るだろう。
いつものスーツではなく、カジュアルな装いの彼。
想像するだけで、心臓の奥がキュッと締め付けられる。
スマートフォンに手が伸びる。
彼からの連絡はない。
昨日、映画の感想を送ったきりだ。
返信が来ないのは、彼も忙しいからだろうか。それとも、自分にそれほど興味がないのだろうか。
もしかしたら、電話であんなに長く話しすぎたことを、後になって後悔しているのかもしれない。踏み込みすぎたと思われただろうか。それとも、あの映画の感想を送りすぎて、重い女だと思われてしまっただろうか。
そんなネガティブな思考が、深夜の静寂の中で増幅していく。
麻衣はスマートフォンを手に取り、これまでのトーク履歴を最初から読み返してみた。他愛のない挨拶から始まり、映画の感想、そして先日の長電話へと続く言葉の連なり。読み返すたびに、彼の言葉の端々に滲む誠実さが、確かにそこにあることを麻衣は再確認した。
(大丈夫。ちゃんと、ここに残ってる)
(私、おかしいわ。たった一回のデートで、こんなに一喜一憂して)
四十三歳の分別。
それは、傷つくのを避けるための盾だったはずだ。
けれど、その盾を捨ててでも、彼の心の近くに行きたいと願っている自分を、麻衣は否定できなかった。
窓の外、夜明けの気配が忍び寄る。
冷えた空気を吸い込み、麻衣は深く溜息をついた。かつての結婚生活では、こんなふうに眠れない夜を過ごすことなど滅多になかった。良くも悪くも、感情の起伏が少ない毎日だったのだ。今の落ち着かなさは、確かに苦しい。けれど同時に、自分がまだ何かを強く求められる人間であることの証でもあった。
週末まで、あと三日。
期待と、不安と、ほんの少しの勇気。
それらを抱えたまま、彼女は浅い眠りの中へと落ちていった。
夢の中で、彼女は広い海の底にいた。
隣には、誰かがいる。
その温もりだけが、暗い水底で唯一の道標だった。
周囲を無数の魚たちが、光を反射しながら泳いでいく。声は聞こえないのに、隣にいる誰かが何かを話しかけてくる気配だけが、はっきりと伝わってくる。麻衣は手を伸ばそうとするが、指先は水の中で重く、なかなか届かない。
もどかしさの中で目を覚ますと、窓の外にはうっすらと朝の光が差し込み始めていた。
寝不足の重い瞼をこすりながら、麻衣は昨夜の不安の数々を思い返し、少しだけ苦笑した。あれほど眠れないほど思い悩んでいたことも、朝の光の中では、どこか滑稽な迷子の記録のように思える。
それでも、その迷いの一つひとつが、麻衣にとっては確かな「生きている証」だった。誰かのために心を揺らし、誰かのために鏡と向き合う。そんな日々を、麻衣はもう一度、自分の手に取り戻し始めていた。
洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗う。鏡に映る自分の顔は、寝不足で少しむくんでいたが、その目の奥には、これまでにない微かな輝きが宿っているように、麻衣には感じられた。
朝食は、いつもより丁寧に用意した。トーストと目玉焼きだけの簡単な献立だが、皿に彩りを添えるためにミニトマトを飾り、コーヒーも豆から挽いた。些細なことの一つひとつに手間をかけることが、今の麻衣には、自分自身への小さな祝福のように感じられた。
起き上がり、カーテンを開ける。まだ静かな街並みに、朝の光がゆっくりと満ちていく。今日を含めて、あと三日。麻衣は小さく深呼吸をして、新しい一日を迎える準備を始めた。




