第七章:鏡の中の迷子、キッチンの微熱
週末の夜に交わした、あの一時間の長電話。
その余韻は、月曜日になっても消えなかった。オフィスでパソコンに向かいながら、麻衣はふと、高瀬の声のトーンや、電話の向こうで聞こえた小さな笑い声を思い出しては、資料を読む手を止めていた。
その余韻が消えないうちに届いた高瀬からのLINEが、麻衣の日常をさらに激しく揺さぶった。
『来週末ですが、もしよろしければ品川の水族館はどうでしょう。あそこは夜になると照明が落とされて、とても静かなんです。魚たちを眺めながらなら、ゆっくりお話しできるかと思いまして』
水族館。
その提案に、麻衣は思わず口元を緩めた。遊園地や映画館ほど騒がしくなく、レストランほど対面に緊張を強いられない。横に並んで、同じ景色を見ながら歩く。彼の選ぶ場所には、いつも「対話」への敬意と、麻衣への配慮が感じられた。
既読をつけてから、麻衣は何度もその一文を読み返した。「もしよろしければ」という控えめな前置きの中に、彼なりの緊張と気遣いが滲んでいるように感じられて、麻衣の頬が自然と緩んだ。オフィスの喧騒の中、自分だけがひっそりと別の時間を生きているような、そんな感覚だった。周囲の同僚たちが忙しなく電話をかけ、キーボードを叩く音が響く中で、麻衣は何度もスマートフォンの画面を確認しては、彼の文面から滲む人柄を、指先でなぞるように味わっていた。
品川の水族館には、結婚していた頃、一度だけ夫と訪れたことがあった。あの時は、夫が終始スマートフォンで仕事のメールを確認しており、麻衣は一人で水槽を眺めて時間を潰していた記憶しかない。同じ場所でも、隣にいる人が変われば、まったく違う景色になるのだろうか。そんな予感が、麻衣の胸を密かに高鳴らせた。
あの日、麻衣は帰りの電車で「今度からは一人で来ればいいや」と、ひっそりと諦めたのを覚えている。誰かと一緒にいるはずなのに感じる孤独ほど、こたえるものはなかった。今度は、その記憶を上書きできるだろうか。
『素敵ですね。ぜひ伺いたいです』
そう返信したものの、送信ボタンを押した直後から、麻衣の心には「楽しみ」を上回るほどの「焦燥」が波のように押し寄せた。
彼が選ぶ場所は、いつもどこか静かで、押し付けがましさがない。派手なレストランでも、話題のテーマパークでもなく、ただ並んで歩くだけの水族館。その選択の一つひとつに、麻衣は彼の人柄の輪郭を感じ取っていた。
「……何を着て行けばいいの?」
クローゼットを開けると、そこには「佐伯麻衣」という女性の歴史が整然と並んでいた。
平日の戦闘服である、ネイビーやベージュのテーラードジャケット。アイロンの効いた白いシャツ。そして、かつて結婚生活を送っていた頃に「妻」として着ていた、無難で主張のない膝丈のスカートたち。
一着一着に、それぞれの時代の自分が透けて見える。仕事に必死だった二十代、家庭を守ることに全力を注いでいた三十代、そして、自分を守るための鎧として服を選んできた離婚後の五年間。ハンガーにかかった服の列は、そのまま麻衣の人生の年表のようでもあった。
結婚していた頃、麻衣の服選びには、いつも夫の視線という無言の検閲があった。「派手すぎない?」という一言で、選んだ服を諦めたことも一度や二度ではない。今、誰の許可も必要とせずに服を選べることの自由を、麻衣は改めて噛みしめていた。それなのに、今日ばかりは、その自由の中で自分を見失いそうになっている。
どれも清潔で、社会人として正しい。けれど、今の麻衣が求めている「高瀬の隣に並ぶ自分」には、どれも決定的に何かが足りなかった。
クローゼットの一番奥には、離婚直後に買った、少し背伸びした赤いワンピースもあった。あの頃は「もう誰にも遠慮しない」という決意を込めて選んだはずなのに、結局一度も袖を通さないまま、タグをつけたまま吊るされている。今の麻衣には、その色があまりにも強すぎるように感じられた。
四十三歳。
若作りに見えてもいけない。かといって、老けて見えるのも論外だ。
世の中には「年相応」という便利な言葉があるけれど、その基準がどこにあるのか、麻衣にはいまだによく分からない。若い頃は年齢を重ねれば自然と自信がついてくるものだと思っていたが、実際には、選択肢が狭まっていくような息苦しさの方が大きかった。
気合が入りすぎていると思われたくない。しかし、適当に済ませたとも思われたくない。
麻衣は次々と服を引っ張り出しては鏡に合わせ、そして落胆してベッドに投げ出した。
「これじゃ仕事帰りみたい。……こっちは、なんだか顔色がくすんで見える」
鏡に映る自分を、これほどまでに執拗に観察したのはいつ以来だろう。若い頃なら、なんとなく手持ちの服を組み合わせれば、それなりに様になったはずだった。けれど今は、一枚一枚が「四十三歳の今の自分」というフィルターを通して、厳しく品定めされていく。
目尻の乾燥、頬のわずかな緩み。かつては気にならなかった細部が、水族館の青い照明の下でどう映るのかを想像すると、背筋が寒くなった。
鏡の前で、麻衣は無意識にほうれい線のあたりを指で押さえていた。若い頃には気にも留めなかった箇所が、光の当たり方一つで、ひどく老けて見えることがある。けれど同時に、こうした些細な変化にいちいち一喜一憂している自分を、麻衣はどこか滑稽にも感じていた。
(新しい服を、買いに行こう)
決意したのは平日の昼休みだった。
昼食を早々に済ませた麻衣は、給湯室で一人、水族館デートで何を話そうかと思いを巡らせていた。映画の話は尽きないだろうが、それだけでは芸がない。仕事の話は、あまり深入りしすぎると野暮になる気がする。かといって、沈黙が続くのも怖い。
そんな些細なことに、これほど頭を悩ませるのは何年ぶりだろう。かつての職場の飲み会や取引先との会食では、話題に困ることなど一度もなかったのに。相手が「特別な人」になった途端、言葉を選ぶことの難しさが、まるで別次元のものに変わってしまう。
週末まで待てない。今のままの自分では、彼に会う資格がないような、そんな強迫観念に駆られていた。
仕事帰りのデパート。華やかな照明と、若々しい店員たちの視線が痛い。閉店間際の時間帯にもかかわらず、フロアには週末の予定を控えた買い物客たちの熱気が満ちていた。エスカレーターを上がるたび、鏡張りの壁に映る自分の姿が、いつもより疲れて見える気がして、麻衣は思わず背筋を伸ばした。
以前の自分なら「私は私だから」と、堂々と振る舞えたはずなのに。今の麻衣は、まるで初めて恋を知った少女のように、自分の容姿に自信が持てずにいた。
若い後輩たちは、マッチングアプリで気軽に出会いを重ね、休日ごとに違う相手と食事に出かけていると聞く。彼女たちの身軽さを、麻衣は羨ましいと思ったことは一度もなかった。けれど今、たった一人の相手のためにこれほど心を砕いている自分は、あの身軽さとは対極にある、不器用で重たい恋の形をしているのかもしれない。それでも、この不器用さこそが、今の自分に嘘のない在り方だと、麻衣は思いたかった。
婦人服フロアを何周もしながら、麻衣は自分がどれだけ長い間、こうした場所と距離を置いてきたかを思い知らされた。トレンドのシルエットも、今年らしい色合いも、まるで分からない。マネキンに着せられた服を眺めながら、麻衣はしばらくその場に立ち尽くした。
店員たちの視線が、時折自分に向けられる気がした。「何かお探しですか」と声をかけられるたび、麻衣はうまく言葉にできない自分の希望を、しどろもどろに説明する羽目になった。「デートに着ていく服」とは、さすがに気恥ずかしくて言えず、「ちょっとしたお出かけに」という曖昧な表現でごまかすしかなかった。
最初に入った店では、店員に勧められるまま流行りのビッグシルエットのブラウスを試着してみたが、鏡の中の自分がひどく借り物めいて見えて、結局棚に戻した。二軒目の店でも、なかなかしっくりくるものが見つからない。
三軒目、少し落ち着いた雰囲気のセレクトショップに入ったところで、麻衣の目に一枚のワンピースが留まった。
試着室の中で、麻衣は一枚の淡いラベンダー色のワンピースを身に纏った。
シルク混の柔らかな生地が、体を優しく包む。
「お客様、とてもお似合いですよ。お肌のトーンが明るく見えます」
店員のお決まりの台詞も、今の麻衣には福音のように聞こえた。
「実は今度、大事な方とお会いする予定があって……」
思わず零れた一言に、店員は嬉しそうに目を細めた。
「それでしたら、この色は本当におすすめです。派手すぎず、でも印象に残る色合いなので」
その後押しに、麻衣は肩の力が抜けるのを感じた。誰かに背中を押してもらうことが、これほど心強いとは思わなかった。
会計の列に並ぶ間、麻衣はアクセサリー売り場に立ち寄り、控えめなパールのネックレスを手に取った。
「こちら、先ほどのワンピースにもよく合うと思いますよ」
会計を担当してくれた別の店員が、そう声をかけてくれた。麻衣は少し悩んだ末に、そのネックレスも一緒に購入することにした。誰かに会うために、これほど細部までこだわって身支度を整えるのは、本当に久しぶりのことだった。
鏡の中の自分を、麻衣は何度も角度を変えて見つめた。悪くない。むしろ、久しぶりに「自分を大切にしている」という実感が持てる装いだった。試着室の小さな鏡の前で、麻衣は何度も裾の揺れ方を確認し、光の当たり方によって色味がどう変わるかまで丁寧に見極めた。こんなにも一枚の服と真剣に向き合ったのは、何年ぶりだろうか。
お化粧はどうしよう。アクセサリーは?
高瀬は、何に気づいてくれるだろうか。
いや、そもそも彼は、麻衣の服装なんて気にするタイプなのだろうか。
スマートフォンを取り出し、「何を着ていけばいいですか」と尋ねようとして、麻衣は途中で指を止めた。そんな質問をしてしまえば、これがどれほど自分にとって特別なことなのかを、彼に知られてしまう。少しくらいは、余裕のある大人の女性を演じたい。そんな見栄が、麻衣の指を止まらせた。
結局、メッセージは送らずに、麻衣は一人で悩み続けることを選んだ。それでも、その悩みの一つひとつが、決して嫌なものではなかった。むしろ、誰かのために悩めるということ自体が、久しく忘れていた贅沢な感情なのだと、麻衣はひそかに実感していた。
会計を済ませながら、麻衣は自分が予算の倍近い金額を使っていることに気づいたが、不思議と後悔は湧かなかった。
デパートを出たところで、スマートフォンが震えた。高瀬からのメッセージだった。
『水族館、夜の八時からの回にしようと思うのですが、大丈夫でしょうか。閉館間際は特に人が少なくて、ゆっくり見られるんです』
『はい、大丈夫です。楽しみにしています』
そう返信しながら、麻衣は今しがた選んだワンピースの入った紙袋を、少しだけ強く抱きしめた。
買い物袋を下げて帰宅した麻衣を待っていたのは、いつもの静まり返った部屋だった。
けれど、クローゼットには新しい服が。そして心には、週末へのカウントダウンが灯っている。
翌朝、化粧ポーチにいつもより明るい色のリップを忍ばせていたのを、後輩に目ざとく見つけられた。
「佐伯さん、そのリップ、新色ですか? もしかして週末デートですか?」
「……ち、違うから。ちょっと気分転換で買っただけ」
しどろもどろに答える麻衣を見て、後輩はますます確信を深めたような顔で笑った。麻衣は誤魔化しきれないまま、自分のデスクへ逃げるように向かった。




