第六章:電話の向こうの約束、来週末という灯火
七本目を観終えた金曜日の夜。時刻は二十二時を回っていた。
ふいに、スマートフォンが震えた。
メッセージの通知ではない。着信だ。
画面には「高瀬」の二文字。
麻衣は思わず跳ね起き、乱れた髪を無意識に手櫛で整えた。相手に見えるわけではないのに、背筋が伸びる。
三回、四回とコール音が鳴る間、麻衣は深呼吸を一つしてから、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『夜分にすみません。高瀬です。……今、大丈夫でしたか?』
受話器越しに聞く彼の声は、居酒屋の喧騒の中で聞いた時よりも、ずっと深く、耳元に直接響いた。少しだけ、はにかんだような吐息が混じっている。
「はい、大丈夫です。ちょうど今、リストの最後の映画を観終えたところだったので」
『ああ、タイミングが良かったです。……映画、どうでしたか?』
麻衣はベッドサイドの間接照明の灯りだけを残し、部屋の他の明かりを落とした。冷めかけたハーブティーのマグカップを両手で包み、枕にもたれかかる。まるで、彼と同じ部屋の中で向き合っているかのような、不思議な親密さがあった。
そこから、どちらからともなく映画の話が始まった。
文字のやり取りも楽しかったが、声に乗せられる熱量は格別だった。
一人が寂しいと思っていた、あの冷たい部屋。
けれど、スマートフォンのスピーカーから漏れる彼の声が、空気の粒子を温めていく。
「高瀬さんのリストのおかげで、この一週間、なんだか別の世界にいたみたいです。仕事中も、あ、あのシーンの続きはどうなるんだろうって考えてしまって」
『ふふ、それは嬉しいな。僕も、麻衣さんから届く感想が楽しみで、仕事の合間に何度もチェックしてしまったんですよ。……実は、僕もこの年で、こんなに誰かと熱心に物語について話せるなんて思っていなかった。』
話は映画から、お互いの子供時代の思い出、今の仕事の悩み、そして、少しだけ過去の結婚生活の話へと移り変わっていった。
「子供の頃、どんな子だったんですか?」
麻衣が尋ねると、高瀬は少し考えるように間を置いた。
『内向的な子でしたね。休み時間も、友達と遊ぶより、図書室で一人本を読んでいる方が好きでした。今もあまり変わっていないのかもしれません』
「意外です。今はこんなに、いろんな場所を旅されているのに」
『旅先では、意外と一人でも寂しくないんですよ。景色や、知らない土地の空気が、話し相手になってくれる気がして。……麻衣さんは、子供の頃どんな子でしたか?』
「私は、逆に人に合わせるのが得意な子でした。空気を読んで、その場に馴染む。今思えば、それが今の私を作った気もします」
『麻衣さんらしいですね。でも、それってすごく大変なことだと思います。人に合わせるって、自分をたくさん擦り減らしますから』
その言葉に、麻衣は胸を突かれた。誰かにそんなふうに自分を労ってもらったのは、いつ以来だろう。
「最近、お仕事の方はどうですか? プロジェクト、大変そうな感じでしたけど」
『正直、慣れない環境でのプレッシャーはありますね。周りは優秀な人ばかりで、正直、まだ肩身が狭い部分もあります。……でも、麻衣さんとこうして話していると、不思議と明日も頑張れる気がするんです』
その率直な弱音に、麻衣は逆に安心感を覚えた。完璧に見える人ほど、実は不安を抱えているものなのかもしれない。
「高瀬さんは、お休みの日は映画以外にどんなことをして過ごされるんですか?」
『そうですね……最近はもっぱらボルダリングです。全身の筋肉を使って、無心で壁を登っていると、余計なことを考えずに済むので。麻衣さんは、休日はどんなふうに過ごされることが多いんですか?』
「私は……恥ずかしながら、家でじっとしていることが多いです。掃除をして、映画や配信ドラマを観て。今思えば、少しもったいない過ごし方をしていたのかもしれません」
『もったいなくなんかないですよ。静かに自分と向き合う時間も、同じくらい大切だと思います。……でも、もし良ければ、今度僕のボルダリングにも付き合ってもらえたら嬉しいです。無理にとは言いませんが』
その誘いに、麻衣は思わず頬が緩んだ。運動とは無縁の生活を送ってきた自分が、壁を登る姿など想像もつかなかったが、それでも「一緒に何かをする」という響きだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
「ボルダリングなんて、私にできるかどうか分かりませんが……機会があれば、ぜひ挑戦してみたいです」
『無理せず、まずは見学からでも。麻衣さんのペースに合わせますから』
その気遣いに、麻衣はまた一つ、彼への信頼を積み重ねていった。
「高瀬さんは、今度また旅行の予定とかあるんですか?」
『そうですね、夏には北欧に行きたいと思っていて。白夜の時期に、ずっと行きたかった街があるんです。……もし機会があれば、いつか一緒に行けたら、なんて考えたりもしますが、気が早いですよね』
その言葉に、麻衣の心臓がまた小さく跳ねた。「一緒に」という響きが、これまでのどんな褒め言葉よりも、深く胸に沁みた。
「気が早いなんて、思いません。……そんな未来があったら、素敵だなと思います」
その一言を口にした瞬間、麻衣は自分がどれほど素直に、この人との未来を思い描き始めているかを、改めて実感した。
驚いたのは、高瀬が麻衣の話を遮ることなく、最後の一滴まで掬い上げるように聴いてくれることだった。
「……ごめんなさい、私ばかり話しちゃって。男の人と、こんなに長く電話するなんて、もう何年振りか分からないくらいで」
『いや、僕こそ。もっと聴いていたいと思ってしまって。麻衣さんの声は、落ち着きます。……あ、もう一時間以上経ってますね。すみません、引き止めてしまって』
一時間。
元夫とは、十年一緒にいても、これほどまでに「言葉」が通じ合った実感はなかった。
何を話したかではなく、どう感じたかを共有できる喜び。
それは、失われていた感情の回路が、バチバチと音を立てて再接続されていくような感覚だった。
思えば、元夫との会話は、いつも「連絡事項」の交換に終始していた。今日の予定、明日の予定、支払いの確認。感情を言葉にする習慣そのものが、二人の間からいつの間にか消えていた。今、高瀬と交わしているこの一時間は、麻衣にとって、失われた言語をもう一度学び直しているような時間だった。
人と深く繋がるということは、こんなにも体力を使うものだったのかと、麻衣は改めて驚いていた。けれどそれは、疲労というよりも、長らく眠っていた筋肉が久しぶりに動いた後の、心地よい張りのようなものだった。
「あの……高瀬さん」
『はい?』
「リストの映画、全部観終えてしまったので……次は、高瀬さんの「生の声」で、感想を聞きたいです」
沈黙。
心臓が耳元で鳴っている。
言ってしまってから、麻衣は自分の大胆さに驚いていた。この歳になって、こんな遠回しな誘い方しかできない自分を、少し情けなくも思う。それでも、これが今の自分にできる精一杯の勇気だった。
やりすぎた、と後悔しかけたその時、電話の向こうで高瀬が小さく笑った。
『そうですね。……僕も、直接お会いして話したいです。……来週末、もしお時間が合えば、どこかでお会いしませんか?』
「はい。ぜひ」
その返事が、思っていたよりもずっと自然に、麻衣の口から零れ落ちた。
『良かった。……では、また詳しい場所と時間は、追ってご連絡しますね。おやすみなさい、麻衣さん』
「おやすみなさい」
通話が切れた後の静寂は、以前とはまるで違う質感をしていた。以前なら、電話の後の静けさは、ただの「音の不在」でしかなかった。けれど今夜は、その静けさの中に、まだ彼の声の余韻が確かに漂っている。
電話を切った後も、麻衣はしばらくスマートフォンを握りしめたまま、ベッドに横たわっていた。
天井を見つめる。
つい二週間前まで、ここはただ眠るだけの場所だった。
けれど今は、明日という日が、そして来週末という未来が、指先に触れられるほど近く、熱を持って存在している。
四十三歳の恋愛。
それは、若者のような爆発力はないかもしれない。
けれど、一本の映画を丁寧に読み解くように、一通のLINEの行間を慈しむように。
ゆっくりと、けれど確実な足取りで、麻衣は新しい人生のプロットを書き進めようとしていた。
窓の外、夜の静寂に、遠くで電車の走る音が聞こえる。
明日はスーパーで何を買い、何を作ろうか。
そんな些細な日常のディテールが、今の麻衣には、たまらなく愛おしく感じられた。
翌朝、麻衣はいつもより早く目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の中を淡く照らしている。
枕元のスマートフォンを手に取ると、高瀬から短いメッセージが届いていた。
『おはようございます。昨夜は長々とお付き合いいただいて、ありがとうございました。おかげで、久しぶりにぐっすり眠れました』
その一文を読み、麻衣は布団の中で小さく伸びをした。
来週末、彼に会う。
その約束が、これからの一週間を、どんな些細な出来事も輝かせてくれるはずだった。仕事の忙しさも、満員電車の息苦しさも、今の麻衣にとっては、来週末へのカウントダウンの一部でしかなかった。
クローゼットを開け、来週末に着ていく服のことを、もう思案し始めている自分に気づく。まだ場所も時間も決まっていないというのに、心はすでに先を急いでいた。
洗面台の鏡に映る自分の顔を、麻衣はしばらく見つめた。
まだ何も変わっていないはずの、いつもの、見慣れた顔。
とはいえ、その目の奥に宿る光だけは、確かに以前とは違って見えた。
その日出社すると、後輩がまた麻衣の顔を見て、からかうように言った。
「佐伯さん、また機嫌良さそうですね。今度は隠す気もないみたいですけど」
「……そんなに分かりやすいかな、私」
「バレバレですよ。何かいいことあったら、今度教えてくださいね」
軽く笑ってその場をやり過ごしながら、麻衣は自分の内側で膨らんでいくこの感情を、もう少しだけ大切に、誰にも触れさせずに温めておきたいと思った。
通勤電車の窓から見える空は、澄み渡るような五月晴れだった。来週末という具体的な約束を胸に抱いたまま迎える一週間は、これまでのどんな一週間とも違って感じられた。仕事の締め切りも、取引先とのやり取りも、すべてがその約束に向かうカウントダウンの一部のように、意味を持って麻衣の日常を彩っていった。




