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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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5/12

第五章:真夜中のスクリーン、重なる独白

四月の終わり、夜のとばりが下りるのが少しずつ遅くなってきた。

 佐伯麻衣の日常は、ここ一週間で劇的な変容を遂げていた。といっても、誰かを目に見えて生活の中に招き入れたわけではない。ただ、仕事から帰り、手早く作り置きの夕食を済ませた後の「一人の時間」の質が変わったのだ。

 離婚してからの五年間、夜のこの時間は、ただ「今日という日をやり過ごすための空白」でしかなかった。何を観ても、何を食べても、明日を変えるほどの意味は持たなかった。けれど今は違う。一晩ごとに、確かに何かが自分の中に積み重なっていく実感があった。

 『冬の旅人』を観たあの夜から、麻衣は毎晩、高瀬から届いたリストの映画を一本ずつ観るようになっていた。

 部屋の明かりを落とし、間接照明だけを灯す。

 テレビの前に座り、高瀬から送られてきた「映画リスト」のPDFをスマートフォンで開く。

 そこには、彼が愛した物語たちが、彼自身の言葉を添えられて並んでいた。

『第一夜:もしお疲れでなければ、この静かなフランス映画から始めてみてください。台詞は少ないですが、光の使い方がとても雄弁なんです』

 彼が薦めてくれたのは、一九六〇年代の古いヌーヴェルヴァーグ作品や、北欧のひっそりとした単館系映画、あるいは日本の古いモノクロ映画だった。自分一人では、サブスクリプションの膨大な海の中で、決してクリックすることのなかったであろうタイトルばかりだ。

 リストには、遠い異国の言葉が並ぶタイトルもあれば、聞いたことのある邦画の隠れた名作も紛れていた。それぞれのタイトルの脇には、星の数ではなく、高瀬自身の短い一言が添えられている。「涙腺注意」「静かな衝撃作」「疲れた夜にこそ観てほしい」――そんな飾らない言葉の一つひとつが、彼の人柄を物語っていた。

 二本目の夜、麻衣が選んだのは、ある海辺の街を舞台にしたモノクロ映画だった。

 画面の中で、名前も知らない俳優たちが、寄せては返す波のように淡々と言葉を交わす。物語らしい物語はほとんどない。ただ、老いた漁師と、故郷を離れる若者の、短いすれ違いだけが描かれていた。それでも、画面から目が離せなかった。

(映画を、こんなに「真剣に」観るのは初めてかもしれない……)

 これまでの麻衣にとって、映画やドラマは「消費」するものだった。家事の合間に流し見したり、寂しさを紛らわすためのBGM代わりにしたり。内容を完璧に把握しなくても、なんとなく結末が分かれば満足していた。

 だが、今は違う。

 このシーンを高瀬はどう見たのだろう。彼は解説の中で「窓辺の影が、主人公の迷いを表している」と書いていた。その一節を思い出しながら画面を凝視すると、確かに、ただの暗がりだと思っていた影が、深い感情のおりのように見えてくるから不思議だ。

 三本目の夜は、都会の片隅で偶然出会った二人の男女が、一晩だけ言葉を交わす物語だった。互いの過去には深く踏み込まず、ただ「今」という時間だけを慈しむような会話の応酬に、麻衣は何度も画面を巻き戻して観返した。

 一本観終えるごとに、麻衣の心には、これまで使ってこなかった新しい筋肉を動かした後のような、心地よい疲労感と高揚感が残った。観終えた後は必ずノートを開き、印象に残ったシーンや台詞を書き留めるのが、いつしか習慣になっていた。誰に見せるためでもない、自分だけの映画日記。

 ノートのページが増えていくたび、麻衣は自分の中に、これまで気づかなかった感性の引き出しが増えていくような感覚を覚えた。悲しい場面で涙する自分、些細な光の演出に感嘆する自分、台詞の間の沈黙に息を呑む自分。それらはすべて、これまでの「効率的な麻衣」が押し殺してきた部分だった。

 ある夜のノートには、こう書き殴られていた。「感じることを、もう恐れなくていいのかもしれない」。自分の字なのに、まるで別人が書いたもののように、その一文はやけに新鮮に見えた。

 平日は仕事の合間に、休憩室の隅で前夜観た映画の余韻を反芻することも増えた。同僚たちが週末のドラマの話で盛り上がる輪から、麻衣は少しだけ距離を置くようになっていた。それは孤立というよりも、自分だけの豊かな時間を守るための、心地よい距離だった。

 ある日の昼休み、麻衣は取引先への提案書を作成しながら、ふと前夜観た台湾映画のワンシーンを思い出していた。老夫婦が、何十年も同じ食卓で交わしてきたであろう、他愛のない会話。その積み重ねの美しさを思うと、目の前の無機質な数字の羅列さえも、どこか違って見えてくるから不思議だった。

 週の半ば、取引先との定例会議を終えた帰り道、麻衣は駅前の書店にふらりと立ち寄った。これまでなら素通りしていた映画関連のコーナーに、自然と足が向く。棚に並ぶ映画評論のムック本を手に取り、パラパラとページをめくる自分に、麻衣は少し驚いていた。結局その本は買わなかったが、いつか読んでみたいという気持ちが、心の片隅にそっと灯った。

 観終えた直後の熱が冷めないうちに、彼女はスマートフォンを手に取る。

『三本目の「青い部屋」、観終えました。高瀬さんが書いていた「沈黙の音」という意味が、最後の一分でようやく分かった気がします。主人公が何も言わずにコートを羽織るシーン。あの時の、布が擦れる音。あんなに悲しい音があるなんて知りませんでした。私ならきっと、あそこで何か言葉を吐き出して、台無しにしてしまっていたと思います。』

 送信ボタンを押してから、少しだけ呼吸を整える。

 かつての結婚生活では、夫と一緒に映画を観ることもあった。けれど、夫はいつも途中で飽きてスマートフォンをいじり始めたり、「意味が分からない」と笑い飛ばしたりしていた。麻衣もそれに合わせ、「そうだね、ちょっと難解すぎたね」と、自分の心に芽生えた小さな感動を無理やり握りつぶしていた。あの頃の自分は、感動する権利すら、どこかで放棄していたのかもしれない。

 けれど、高瀬は違った。

『麻衣さんの「布が擦れる音」という着眼点、凄く素敵ですね。僕は視覚的なことばかりに気を取られていましたが、確かにあのシーンの音響は、言葉以上の絶望を物語っていました。麻衣さんの感想を読んで、僕ももう一度観返したくなりました。視点が新鮮で、僕の方が勉強になります。』

 高瀬からの返信は、いつも麻衣の言葉を肯定し、さらに広げてくれるものだった。

 自分とは違う、けれどどこか響き合う視点。

 誰かの言葉に自分の考えを重ね、そこからまた新しい発見が生まれていく。そんなやり取りの往復運動そのものが、麻衣にとっては何よりの贅沢だった。仕事のメールのように結論だけを求められることのない、ゆったりとした対話。

 文字のやり取りを重ねる中で、麻衣は高瀬という人間の輪郭を、映画のキャラクターを解析するように少しずつ、丁寧に理解していった。彼は感情を大きく表に出すタイプではないが、細部への観察眼が鋭く、一度心を動かされたものには驚くほど深く潜っていく。そういう不器用な誠実さが、言葉の端々から滲み出ていた。

 彼はわがままで離婚したと言っていた。それでも、それはきっと、自分の感性に嘘をつけない誠実さの裏返しだったのではないか。そんな想像を巡らせる時間は、どんな贅沢なエステよりも、麻衣の心を潤していった。

 四本目、五本目と、夜ごとの儀式は続いた。

 四本目は、老夫婦の晩年を描いた台湾映画だった。派手な事件は何も起こらない。ただ、朝食の支度や、縁側での他愛のない会話が、丁寧に積み重ねられていくだけの物語。それなのに、エンドロールが流れる頃には、麻衣の胸には温かい満足感が残っていた。

 観終えた後、麻衣はしばらくソファに座ったまま、部屋の静けさに耳を澄ませていた。老夫婦の暮らしぶりを見た後だと、この一人暮らしの部屋の静寂も、以前とは違う響きを持って感じられる。孤独の形は一つではないのだと、映画はそっと教えてくれた。

 ある晩は、家族の再生を描いた韓国映画に涙し、ある晩は、モノクロの実験的な短編に頭を抱えながらも、その難解さすら愛おしく感じられた。

『五本目、正直に言うと半分くらい理解できませんでした……。でも、分からないからこそ、また観返したくなる不思議な映画でした』

 そう送ると、高瀬からはすぐに笑顔の絵文字とともに返信が届いた。

『分からないまま愛せる作品があるって、素敵なことだと思います。僕もその映画、五回くらい観てますけど、未だに全部は理解できていません(笑)』

 その週末の夜、六本目の映画を観終えた後、麻衣はキッチンに立った。映画の舞台になっていた南フランスの田舎町を思い出しながら、普段は作らないラタトゥイユに挑戦してみることにした。トマトとナス、ズッキーニを大きめに切り、じっくりとオリーブオイルで煮込んでいく。台所いっぱいに広がる香りが、まるで映画の中の食卓にでも迷い込んだような気分にさせてくれた。

 レシピ本を片手に、慣れない手つきで火加減を調整する。焦がしてしまわないかと何度も鍋を覗き込みながら、麻衣は久しぶりに「失敗してもいい」という気楽さで料理を楽しんでいる自分に気づいた。誰かに評価されるための料理ではなく、ただ自分の好奇心を満たすための料理。それは、これまでの「効率的な作り置き」とは、まったく違う種類の喜びだった。

 出来上がった一皿を写真に撮り、高瀬に送る。

『六本目の映画に影響されて、ラタトゥイユを作ってみました。……味の想像だけで作ったので、本場の味とは違うかもしれませんが』

『すごい、行動力ですね。……羨ましいです。僕なんて観るだけで満足してしまうタイプなので』

 その返信に、麻衣は思わず声を上げて笑った。誰かと同じ物語を共有し、そこから自分なりの何かを生み出す。そんな豊かな連鎖を、麻衣は久しぶりに味わっていた。

 七本の映画を観終えた麻衣は、ふと高瀬に尋ねてみた。

『七本の中で、高瀬さんが一番好きなのはどれですか?』

『難しい質問ですね……。強いて言うなら、一本目のフランス映画かもしれません。台詞が少ない分、観るたびに新しい発見があって。麻衣さんは?』

『私は、断然「青い部屋」です。何度思い出しても、あの布の音が耳から離れません』

『分かります。……こうして好きな作品について語り合える人がいるって、本当に幸せなことですね』

 その一文を、麻衣は画面越しに何度も読み返した。「幸せ」という言葉を、こんなにも自然に、こんなにも軽やかに口にできる関係が、自分にもまだ築けるのだと、麻衣は静かに確信し始めていた。

 一週間、毎日一本。

 映画を観ることは、高瀬の心の深淵を覗くことと同義だった。


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