第四章:画面に灯る、静かな共鳴
帰宅し、部屋着に着替えると、麻衣は髪をきゅっと一つに束ねた。
エプロンを締める。このエプロンを出すのも、数ヶ月ぶりかもしれない。生地には、まだかすかに柔軟剤の香りが残っていた。淡いオリーブグリーンのリネン生地は、結婚生活の終わりを機に、自分へのささやかなご褒美として買ったものだった。当時は「これから一人で頑張っていくお守り」のつもりで選んだのに、いつの間にかクローゼットの奥にしまい込んでいた。
キッチンのカウンターに食材を並べ、無心に包丁を動かし始める。
トントントン、と規則正しい音がリズミカルに響く。まな板の上でパプリカが鮮やかな断面を見せ、包丁の刃が野菜の繊維を確かめるように滑っていく。
鶏の胸肉には、フォークで数か所穴を開け、少量の酒と塩で下味をつける。しっとりと火を通すための、母から教わったひと手間だった。フライパンに油を引き、皮目からじっくりと焼き上げていくと、香ばしい匂いがキッチンに広がっていく。
ナスの揚げ浸し、鶏肉とパプリカのマリネ、ひじきの煮物、そして小松菜の胡麻和え。丁寧に昆布と鰹節から出汁を引き、その香りがキッチン全体に立ち込めていく。
週末を楽にするための「作り置き」だが、今はその作業自体が、自分の荒んだ心を整えていく儀式のようだった。食材を切り、火を通し、味を調える。その一つひとつの工程に集中している間だけは、離婚のこと、仕事のこと、これからの人生のことを、何も考えずに済んだ。無心になれるという感覚が、これほど貴重なものだったとは、忘れかけていた。
(もし高瀬さんと、いつか一緒に食事をすることがあったら)
そんな妄想が頭をよぎり、麻衣は慌てて首を振った。
(何考えてるの。まだ一度会っただけじゃない。バカみたい、私)
しかし、期待は止められない。誰かのために、あるいは誰かに見せるかもしれない未来のために料理を作る。そんな感覚を味わうのは、いったい何年ぶりだろうか。
コンロで鍋がコトコトと音を立てる間、麻衣は何度もキッチンの隅に置いたスマートフォンの画面をチラリと見た。
通知は来ない。
彼は今、何をしているだろうか。まだ仕事だろうか。それとも、彼もまた自分の部屋で、趣味の映画でも観ているのだろうか。
「期待しすぎは、毒よね」
独り言を呟きながら、ミョウガを細かく刻む。
ミョウガの爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
かつて元夫に「ミョウガなんて、あってもなくてもいいのに」と言われたことを思い出した。彼は、麻衣が料理にかける細やかなこだわりを、あまり理解してくれなかった。食卓に並ぶ手の込んだ副菜よりも、白米と味噌汁さえあれば満足する人だった。
高瀬さんなら、どう言うだろう。
あの時、アイスランドの空気を「青い」と表現した彼なら、この香りの繊細さを分かってくれるのではないだろうか。
一時間ほど集中して料理を作ると、キッチンには四つの保存容器が並んだ。
彩り豊かな料理。それは、麻衣が自分自身の人生を、もう一度肯定しようとした証のようにも見えた。
キッチンカウンターに並んだ四つの保存容器を、麻衣はしばらく眺めていた。赤、緑、茶色。彩り豊かな断面が、まるで小さな祝祭のように輝いて見える。誰かに見せるためではなく、ただ自分のためだけに作った料理が、これほど誇らしく感じられたのは初めてだった。
最後に余ったナスをつまみ食いしてみる。とろりと柔らかく揚がったナスに、出汁の旨みがじんわりと染み込んでいる。舌の上でとろけるような食感と、鰹の香りが鼻に抜ける瞬間。久しく忘れていた、丁寧に作った料理だけが持つ深い満足感だった。思わず声が漏れる。
「……美味しい」
誰に聞かせるでもない呟きが、静かなキッチンに溶けていった。
その時。
ピコン、と短い通知音が鳴った。
濡れた手をタオルで拭き、焦る気持ちを抑えて画面を開く。
『お疲れ様です。約束のリストを作ってみました。少しマニアックかもしれませんが、週末の夜にでも眺めてみてください』
続いて、PDFのファイルが送られてくる。
麻衣は、保存容器の並ぶキッチンに立ったまま、そのファイルを開いた。表紙には手描き風のフォントで「麻衣さんへ、僕の好きな映画たち」というタイトルが添えられており、几帳面な性格が滲む、整然としたレイアウトだった。作品ごとに小さなアイコンが振られ、ジャンルが一目で分かるように工夫されている。
そこには、映画のタイトル、製作年、そして高瀬らしい短いけれど愛のこもった解説が、丁寧に書き込まれていた。北欧のミステリー、南米の家族劇、日本の古い白黒映画まで、ジャンルも国も様々だった。一本一本のコメントには、彼がその作品のどこに心を動かされたのかが、控えめな言葉で記されている。
リストの中ほどにあった一本のタイトルに、麻衣の目が留まった。『冬の旅人』という、聞いたことのない邦画だった。高瀬のコメントには、「一人旅の孤独と、そこから生まれる小さな出会いを描いた作品。麻衣さんの雰囲気に、なんとなく重なる気がします」と書かれていた。
自分の雰囲気に重なる、という一文を、麻衣は何度も読み返した。彼が自分をどう見ているのか、その一端に触れたような気がして、頬が緩む。
最後の行には、こうあった。
『もし、この中で気になるものがあれば、今度感想を聞かせてもらえませんか?』
心の中に、温かな出汁がじわりと染み渡るような感覚があった。
麻衣は、さっき作ったばかりのナスの揚げ浸しの写真を撮り、彼に送ろうとして、一度指を止めた。
(……やっぱり、これはまだ早すぎるかな)
結局、写真は送らずに。
『ありがとうございます。素敵なリストで、週末が楽しみになりました。私も今、料理を作っていたところなんです。久しぶりに、無心になれました』
そう送った。
麻衣は、自分でも気づかないうちに、鼻歌を歌いながらキッチンを片付け始めていた。冷めた保存容器を一つずつ冷蔵庫にしまい、シンクを磨き上げる。その一連の動作が、今夜はまるで誰かへの手紙を書いているかのように、丁寧で温かいものに感じられた。
片付けを終えると、麻衣はゆっくりと湯船に浸かった。一日の疲れが、温かい湯の中でじんわりとほどけていく。肩や首の凝りが、湯気とともに溶けていくような感覚。目を閉じると、居酒屋での会話や、彼から届いた文面の一つひとつが、瞼の裏に次々と蘇ってきた。
湯船の中で、麻衣はもう一度スマートフォンを手に取った。高瀬から届いたリストの中の一本、『冬の旅人』のタイトルを、動画配信サービスの検索窓に打ち込んでみる。幸い、契約しているサービスで視聴できるようだった。
湯上がり、髪を乾かし終えると、麻衣はソファに深く腰掛け、その映画を再生した。物語は、雪深い北国を一人旅する女性の姿を淡々と追うものだった。派手な展開はなく、ただ静かな風景と、女性の内面の独白が交互に映し出される。
主人公の女性は、麻衣よりも少し年上に見えた。夫を亡くし、一人で見知らぬ土地を旅する彼女の姿には、過剰な悲壮感がなかった。ただ淡々と、目の前の景色を受け止め、時折立ち寄った食堂で見知らぬ人々と短い言葉を交わす。その静かな強さに、麻衣は次第に引き込まれていった。
冒頭の三十分だけを観るつもりだったのに、気づけば最後まで観てしまっていた。エンドロールが流れる頃、麻衣の目には、うっすらと涙が滲んでいた。
感動というよりも、共感に近い涙だった。誰にも縛られない一人旅の自由と、その裏に張り付く孤独。それは、離婚後の自分の五年間そのものだった。
スマートフォンを手に取り、高瀬に短いメッセージを送る。
『さっそく「冬の旅人」を観ました。……不思議と、自分のことを言われているみたいで、少し泣いてしまいました』
送信してすぐ、既読の表示がついた。
『観てくれたんですね。あの映画の主人公、最後にほんの少しだけ誰かと目が合う場面があって、僕はそこが一番好きなんです。孤独が、完全な孤独じゃなくなる瞬間というか』
その返信を読んだ瞬間、麻衣の胸に温かいものがこみ上げた。まさに自分が感じたことを、彼は的確な言葉で言い当てていた。
麻衣は続けて打った。
『高瀬さんは、いつもこういう静かな映画がお好きなんですか?』
『そうですね。派手なアクションも嫌いじゃないですが、心の機微を丁寧に描いた作品の方が、なぜか記憶に残るんです。麻衣さんは、どんな映画を観るときが一番好きですか?』
その問いに、麻衣はしばらく考えてから返信を打った。
『正直、最近は「観た」という記録を作るために観ていた気がします。高瀬さんのリストで、久しぶりに映画そのものを味わえた気がします』
『それは光栄です。良ければ、次のお休みにも一緒に何か観ましょう』
その一言に、麻衣の胸がまた小さく跳ねた。
「一緒に観る」という言葉が、画面越しの提案なのか、それとも隣同士で並んで観るという意味なのか、麻衣にはまだ判断がつかなかった。けれど、そのどちらであっても構わないと思えるほど、彼との時間はすでに麻衣の日常に静かに根を張り始めていた。
スマートフォンの画面を閉じ、麻衣は窓辺に立った。眼下に広がる都会の夜景は、五年前、離婚を決めた夜に見た景色と同じはずだった。それなのに、今の麻衣には、街の明かりの一つひとつに、誰かの「生活」と「体温」が宿っているように見えた。
寂しいと思っていた一人きりの夜。
けれど、画面の向こうに誰かがいると思うだけで、この静寂は「孤独」から「平穏」へと姿を変えていく。
ベッドに入る前、麻衣はもう一度リストのファイルを開いた。まだ観ていない映画のタイトルが、何十本も並んでいる。これを全部観終える頃、自分と高瀬の関係はどうなっているのだろう。想像するだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
クローゼットを開け、明日着ていく服を何となく選んでおく。特別な予定があるわけでもないのに、いつもより少しだけ丁寧に服を選んでいる自分に、麻衣は苦笑した。
四十三歳の恋愛。
それは、激しい雷雨ではなく、しとしとと降り続く、けれど大地を深く潤す雨のように始まるのかもしれない。
次に彼に会う時。
麻衣は、今よりも少しだけ、自分を好きな麻衣でいたい。
電気を消し、布団に潜り込む。目を閉じると、キッチンに満ちていた出汁の香りと、スマートフォンの画面越しに感じた高瀬の温度が、ゆっくりと重なり合っていく。
明日もまた、こんな些細な喜びに満ちた一日になるだろうか。
そんな淡い期待を抱きながら、麻衣は深い眠りに落ちていった。




