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さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


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3/12

第三章:キッチンに灯る、微熱のレシピ

スマートフォンの画面が、暗い部屋の中で青白く光っている。

 深夜零時過ぎ。高瀬から届いた一通のLINE。

『今日は楽しい話をありがとうございました。無事に帰れましたか?

例のリスト、今度整理して送りますね。おやすみなさい。高瀬』

 麻衣はベッドの上で、その短い文面を何度も読み返していた。既読をつけるべきか、それとも明日の朝まで待つべきか。指先が画面の上で、迷子のように泳ぐ。

(今返したら、待っていたみたいで恥ずかしいかしら。でも、無視するのも失礼よね……)

 時計の針は、既に日付をまたいでいる。こんな時間に返信をすれば、寝ずに待っていたのかと勘繰られはしないだろうか。かといって、朝まで放置すれば、素っ気ない印象を与えてしまうかもしれない。

 いい大人になって、何を学生のようなことで悩んでいるのかと、自分がおかしくなる。離婚してからの五年間、こうした「駆け引き」のような感情からは遠く離れていた。元夫との関係が冷え切ってからは、連絡事項は事務的なものばかりだったし、その後に知り合った男性たちとも、心が動く前に「効率」を優先して距離を置いてきた。

 思えば、離婚後に何度か食事を共にした男性もいた。けれど、そのどれもが「良い条件の相手を探す」という打算の延長線上にあるように感じられ、心を動かされることはなかった。相手の年収や役職を無意識に値踏みしている自分に気づくたび、麻衣はひどく虚しくなったものだ。

 紹介された相手と向き合いながら、麻衣はいつも心のどこかで「効率よく答え合わせをしている」だけのような感覚を抱いていた。この人と結婚したら、この人と老後を過ごしたら――そんな計算ばかりが先に立ち、目の前の相手そのものを見つめる余裕がなかった。だからこそ、高瀬に対して抱いているこの落ち着かなさは、麻衣にとって久しく忘れていた種類の感情だった。

 けれど、高瀬という男は、麻衣の心の、一番奥にある「触れられたくないとはいえ、誰かに見つけてほしい場所」に、土足ではなく、静かに、そして正確に指先を触れてきたような気がする。

「私、こんな性格だったかな……」

 結局、その夜は「無事に帰宅しました。おやすみなさい」という素っ気ない、けれど精一杯の返信を送るだけで精一杯だった。スマートフォンの電源を切り、枕元に伏せる。心臓の音が、いつもより少しだけ速い。

 翌朝、目覚めると外は快晴だった。

 通勤電車の窓から見える景色が、昨日よりも少しだけ鮮やかに見える。いつも見慣れているはずの高架下の商店街も、通勤客の顔ぶれも、今朝はどこか違って見えた。ホームで電車を待つ間、麻衣は無意識に空を見上げていた。雲一つない青空。アイスランドの空気は、こんな青さだったのだろうか、とふと考える。

 いつも座る車両の同じ位置に立ち、麻衣はイヤホンから流れる音楽に耳を傾けた。普段は聴き流しているだけの曲が、今朝はやけに歌詞が耳に残る。

 オフィスに着くと、後輩の一人がいつになく明るい麻衣の表情に気づいたのか、怪訝そうに声をかけてきた。

「佐伯さん、今日なんだか機嫌良さそうですね。何かいいことあったんですか」

「そうかな。別に、いつも通りだけど」

 平静を装って答えたが、内心では見抜かれたようで焦りを覚えた。

「またまた。いつもより口紅の色、明るくないですか?」

「気のせいだと思うけど」

 麻衣は苦笑しながら自分のデスクへ向かった。後輩の勘の良さに内心舌を巻きつつ、頬が緩むのを堪えるのに苦労した。

 昼休み、スマートフォンをチェックすると、高瀬から返信が来ていた。

『おはようございます。今日も暑くなりそうですね。お仕事、無理せず頑張ってください』

 何てことのない挨拶。けれど、その「今日も」という言葉が、彼と自分の時間が繋がっていることを証明しているようで、麻衣の唇に小さな笑みがこぼれた。

 昼休み、給湯室で一人になったところで、麻衣は大学時代からの友人に電話をかけた。先週の電話で結婚生活の愚痴をこぼしていた友人だ。

「ねえ、聞いてよ。実はね、ちょっと気になる人ができたかもしれないの」

 電話越しに、友人が素っ頓狂な声を上げた。

「え、噓、麻衣が? どんな人?」

「取引先で会った人。同い年で、バツイチで……。まだ何も始まってないんだけど」

「いいじゃない、いいじゃない! 久しぶりに麻衣の声、弾んでる」

 友人のはしゃぐような声に、麻衣は照れくさくなって早口で話を切り上げた。それでも、電話を切った後、口元には自然と笑みが浮かんでいた。誰かにこの気持ちを話せたことが、思いのほか嬉しかった。

 同時に、少しだけ怖くもあった。まだ何も始まっていない、ただの淡い予感に過ぎないものを言葉にしてしまうことで、その繊細な気配が壊れてしまうのではないか。そんな根拠のない不安が、喜びのすぐ隣に寄り添っていた。

 電話を切る直前、友人が少し声のトーンを落として付け加えた。

「麻衣、前みたいに『いい人だから』って理由だけで我慢しちゃダメだよ。今度は、ちゃんと自分の気持ちを大事にしてね」

 その一言が、思いのほか胸に響いた。元夫との結婚生活で、麻衣がどれだけ自分の感情を後回しにしてきたかを、一番近くで見ていたのはこの友人だった。

 午後からの仕事は、驚くほど捗った。

 これまでは、ただ「こなす」だけだったルーチンワーク。取引先への見積書の作成も、社内稟議の準備も、いつもなら億劫に感じる作業だったはずなのに、今日はどこか軽やかにこなせている。心のどこかで高瀬とのやり取りを報酬のように感じている自分に気づく。

 三時過ぎ、会議室から戻る途中、麻衣はもう一度スマートフォンを確認した。高瀬からの新しいメッセージが届いていた。

『午後の会議、思ったより長引いてしまいました。麻衣さんの会社は、今の時期忙しいですか?』

 麻衣は廊下の隅で、周囲に人がいないことを確かめてから返信を打った。

『そうですね、四半期の締め時期なので少し慌ただしいです。高瀬さんも大変そうですね』

『お互い、無理しすぎないようにしましょうね』

 そのやり取りだけで、午後の残り時間が少しだけ軽くなった気がした。

 夕方近く、海外の取引先から急なクレームの電話が入った。納期の遅延をめぐって、相手の担当者はいつになく強い口調で麻衣を責め立てた。以前の麻衣なら、電話を切った後にどっと疲労を感じ、しばらく机に突っ伏していたはずだった。けれど今日は、相手の主張を丁寧に聞き取り、代替案を三つ提示し、冷静に交渉をまとめることができた。

「佐伯さん、今のクレーム対応、お見事でしたね」

 隣の席の後輩がそう声をかけてきたとき、麻衣は自分でも驚くほど、素直にその賛辞を受け止められた。

 その後も、麻衣は溜まっていた稟議書の決裁を次々と片付け、翌週のプレゼン資料の骨子まで仕上げてしまった。いつもなら定時ぎりぎりまでかかる作業が、今日は驚くほどの集中力で進んでいく。パソコンの画面に向かいながら、麻衣は自分の指先が軽やかにキーボードを叩く音を、どこか他人事のように聞いていた。

(こんなに仕事が捗るなんて、いつ以来だろう)

 窓の外、西日が徐々にオレンジ色を濃くしていく。定時のチャイムが鳴る頃には、麻衣のデスクの上には、珍しく未処理の書類が一枚も残っていなかった。

(このまま、何も変化のない生活を続けていちゃいけない気がする)

 ふと、自分の生活を振り返る。

 一人の自由を謳歌しているつもりだったが、実態はどうだったか。

 夕食はコンビニのサラダと、賞味期限ギリギリの納豆。あるいは、適当なパスタで済ませる。掃除も週末にまとめてやるだけ。お洒落も、会社で浮かない程度の「無難」を制服のように着回している。

 冷蔵庫の中を思い浮かべる。空っぽの野菜室、賞味期限の切れかけた調味料、飲みかけのペットボトル。それは、自分自身の心の内側を映す鏡のようにも思えた。

 そういえば、去年の春に勢いで契約したジムの会員証も、更新の案内が届くたびに「今度こそ」と思いながら、結局一度も財布から取り出していない。習い事のパンフレットも、興味半分で取り寄せた通信講座の教材も、部屋の隅で埃をかぶったままだ。何かを「始めよう」とする意欲だけは何度も湧くのに、それを続ける熱量が、いつも尻すぼみになってしまう。

「自由」とは、自分を甘やかすことではなく、自分を律して慈しむことではなかったか。

 退社後、麻衣はまっすぐ駅ビルの中にあるスーパーへと向かった。

 夕暮れの街には、初夏を思わせる柔らかな風が吹いていた。仕事帰りの人々が足早に行き交う中、麻衣は珍しくゆっくりとした足取りで歩いた。街路樹の若葉が、夕日を受けて淡い金色に透けている。

 いつもなら、総菜コーナーへ直行するところだが、今日は真っ先に野菜売り場へと足を運ぶ。

 瑞々しいナス、深い緑のピーマン、真っ赤に熟したトマト。かつて、結婚生活を送っていた頃、麻衣は料理が好きだった。誰かのために、栄養を考え、彩りを整える。その時間が好きだったはずだ。いつから、自分のためにその手間を惜しむようになってしまったのだろう。

 鮮魚コーナーの前を通りかかると、脂の乗った鰆の切り身が目に入った。旬の魚を見るだけで、かつての自分がどんな献立を組み立てていたかが、するすると蘇ってくる。春は鰆の西京焼き、筍の土佐煮、菜の花のお浸し。季節の恵みを取り入れることが、日々の暮らしを豊かにする一番の近道だったはずなのに、この五年間、そんな豊かさをすっかり忘れていた。

 精肉コーナーで悩んでいると、顔なじみの店員が声をかけてきた。

「佐伯さん、今日はずいぶんたくさん買われるんですね」

「ええ、久しぶりに作り置きでもしようかと思って」

 そう答えながら、麻衣は自分の声が思いのほか弾んでいることに気づいた。

 昆布と鰹節を選びながら、麻衣はふと、子供の頃の記憶を思い出した。実家の台所で、母が毎朝欠かさず出汁を引いていた光景。忙しない朝でも、母は昆布を水に浸し、沸騰する直前に取り出し、鰹節を落とす手順を一切省かなかった。

「出汁だけは、ちゃんと取りなさいね。手を抜くと、全部の料理がぼやけた味になるから」

 母のその言葉を、麻衣は結婚してからしばらく実践していた。けれど、いつからか顆粒だしで済ませるようになり、丁寧に出汁を引く習慣は忘れ去られていた。

 カゴの中に、新鮮な食材を次々と入れていく。

 鶏の胸肉、彩りのパプリカ、香りの良いミョウガ、出汁を引くための昆布と鰹節。普段なら見向きもしない乾物コーナーにも足を運び、丁寧に材料を吟味する。

 気づけば、カゴは両手で持つほど重くなっていた。

 レジに並びながら、麻衣はふと、自分のカゴの中身が、以前とはまるで違うことに気づいた。いつもなら電子レンジで温めるだけの惣菜と、缶チューハイが定位置を占めていたカゴが、今日は生鮮食品と乾物ばかりで埋まっている。

 会計を済ませ、エコバッグに食材を詰めていると、前に並んでいた若い母親が、ぐずる子供をあやしながら小声で謝っていた。麻衣は思わず微笑み、荷物を詰め終えるまでの数分間、その親子の姿を見守っていた。かつての自分にはなかった光景だが、今はなぜか温かい気持ちで眺めることができた。

 両手に食材の入ったエコバッグを提げ、マンションまでの道を歩く。荷物は重かったが、その重みがどこか心地よかった。誰かのためではなく、自分自身のために選んだ食材の重みを、麻衣は久しぶりに愛おしく感じていた。


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