第二章:小さな波紋、名刺の温もり
その時、ふと視界の端に、一人の男性が映った。
取引先側の末席に座る男。年は麻衣と同じくらいだろうか。
彼は、賑やかな喧騒の中にいながら、まるですりガラスの向こう側にいるように静かだった。自分から話の輪に入るわけでもなく、薄笑いを浮かべてグラスを眺めている。
(暗そうな人……)
それが、麻衣が抱いた彼への第一印象だった。社交的なことが美徳とされるこの手の場において、彼の沈黙はどこか異質で、場を白けさせているようにも見えた。
中盤、麻衣が化粧直しのために席を立ち、数分後に戻ってくると、自分の座っていた場所には別の同僚が座り込み、相手方の担当者と熱心に議論を交わしていた。
空いているのは、あの「暗そうな男」の隣だけだった。
麻衣は心の中で小さくため息をつき、極めて事務的な笑みを浮かべて彼の隣に腰を下ろした。
「すみません、お隣、失礼しますね」
「あ、はい。どうぞ」
彼は小さく会釈をしただけで、やはり何も話してこない。
(なんなの、この人。接待の場だって分かってるのかしら)
沈黙に耐えかねた麻衣は、少し挑戦的な気持ちで声をかけた。
「……お酒、進んでいないようですが、お口に合いませんか?」
すると彼は、困ったように眉を下げて、手元の烏龍茶を見つめた。
「すみません。僕、お酒が全く飲めない体質で。こういう賑やかな場所、実はあまり得意じゃないんです。雰囲気を壊していたら申し訳ない」
その声は、意外なほど低く、穏やかだった。
「そうだったんですか。それなら、無理に出席しなくても良かったのでは?」
「転勤してきてまだ半年でして。顔を売っておけと上司に言われて……。あ、申し訳ありません。高瀬と言います」
高瀬と名乗った男は、照れくさそうに名刺を差し出した。名刺には「ITコンサルティング会社」の肩書きと共に、聞き慣れないプロジェクト名が印字されていた。
「大阪から、こちらに?」
「いえ、もっと遠くです。福岡の支社に五年ほどいて、今回東京本社のプロジェクトに呼ばれました。正直、住み慣れた土地を離れるのは寂しかったんですが……まあ、慣れない土地で一からやり直すのも、悪くないかなと」
その言葉に、麻衣はどこか自分と重なるものを感じた。彼もまた、慣れ親しんだ場所を離れ、新しい環境で自分を再構築しようとしている。境遇こそ違えど、その心細さには覚えがあった。
麻衣も慌てて自分の名刺を取り出し、両手で交換する。指先が触れそうになり、麻衣はほんの少しだけ手を引いた。
話を聞けば、彼は麻衣と同い年の四十三歳。そして、彼もまた「バツイチ、子なし」だという。
「どうして離婚されたんですか?」
初対面で聞くには無作法な質問だったが、お酒の勢いと、彼の飾らない雰囲気が麻衣の口を滑らせた。
高瀬は少し考える仕草をしてから、苦笑した。
「僕が、わがままだったんだと思います。自分の世界を大事にしすぎて、相手を置いてきぼりにしてしまった。気づいた時には、もう修復できない距離になっていました」
その言葉に、麻衣の胸が小さく震えた。理由こそ違えど、行き着いた先は自分と同じだ。
「私も似たようなものです。夫と……何て言うか、喧嘩をする元気すら、いつの間にかなくなっていたんです」
そう口にしてから、麻衣は自分でも驚いた。こんな個人的なことを、初対面の相手にすらすらと話せるとは思わなかった。
そこからの会話は、驚くほど弾んだ。
暗い人だという先入観は、数分で霧散した。
高瀬は、多趣味だった。長期休暇には一人で海外の秘境を旅し、週末はボルダリングで汗を流し、雨の日は一日中、古いミステリー小説を読みふけるという。
「この前行ったアイスランドは、空気が青いんですよ。本当に、ただの青じゃなくて、染みるような……。氷河の割れ目から差し込む光が、透明なはずの空気そのものに色をつけているみたいで。写真じゃ、全然伝わらないんです」
彼が語る旅の情景は、まるで目の前に景色が広がるように鮮やかで、麻衣はいつの間にか、身を乗り出して聞き入っていた。
「行ってみたいです、そこ」
「ぜひ。麻衣さんなら、きっとあの青さに感動すると思います」
彼は決して自分の知識をひけらかすわけではない。ただ、自分が愛しているものを、愛おしそうに言葉にしているだけだった。その語り口には、押し付けがましさが一切なく、聞いているだけで心が広がっていくような感覚があった。
「旅先では、映画も観るんですか?」
麻衣が尋ねると、高瀬の目が一段と輝いた。
「観ます観ます。ホテルの部屋で、その土地を舞台にした映画を探して観るのが密かな楽しみで。北欧を旅した時なんかは、現地の古いミステリー映画を字幕なしで観て、半分も分からないまま感動していました」
「字幕なしで、ですか」
「ええ。台詞は分からなくても、光の色や、俳優の間の取り方だけで、伝わってくるものがあるんです。……すみません、こんな話、面白くないですよね」
「いいえ、全然。むしろ、そんなふうに映画を楽しんだことがなかったので、新鮮です」
麻衣は普段、話題性のある作品を効率よく消費するように映画を観ていた。感想を誰かと共有することもなく、ただ「観た」という事実だけが積み重なっていく。高瀬の語る映画の楽しみ方は、それとはまったく違う、豊かな体験だった。
「麻衣さんは、何をしている時が一番楽しいですか?」
高瀬にそう問われ、麻衣は絶句した。
自分の楽しみ。そんなもの、この五年間の「自由」の中で、見つけられていただろうか。ただ、空いた時間を埋めていただけではなかったか。
考えれば考えるほど、答えが見つからなかった。休日は掃除と洗濯を済ませ、あとは配信映画をだらだらと眺めて過ごす。それは「楽しみ」と呼べるものだったのか、それとも単なる「消費」だったのか。
「……すみません、うまく答えられなくて」
答えられない自分に、麻衣は密かに動揺していた。仕事はきちんとこなせる。家事も、身の回りのことも、誰の手も借りずに完璧にこなせる。けれど、「楽しい」という感情の在処だけが、どこにも見つからない。
それはまるで、自分という人間の中心に、ぽっかりと空洞があるかのようだった。離婚してからの五年間、その空洞に気づかないふりをして、ただ日々をやり過ごしてきたのかもしれない。
「いいんです。焦らなくても」
高瀬は柔らかく微笑んだ。
「僕も、旅先の食堂で偶然出会った知らない人に、同じことを聞かれて言葉に詰まったことがあります。楽しいことって、意外と自分では気づきにくいものなのかもしれませんね」
その言葉に、麻衣は肩の力が抜けるのを感じた。
会が終わりに近づき、店の外で三々五々に人が散っていく。麻衣が駅への道を歩き出そうとしたとき、高瀬が小走りで追いついてきた。
「あの、佐伯さん」
「はい?」
「もしよかったら、また今度……いや、すみません、初対面でこんなことを言うのは失礼ですよね」
彼は言葉を濁し、ばつが悪そうに視線を逸らした。
麻衣は少し驚きながらも、自分の胸の奥で何かが小さく灯るのを感じた。
「失礼だなんて思いません。よろしければ、連絡先を交換しませんか」
その一言が、自分の口からごく自然に出てきたことに、麻衣自身が一番驚いていた。
スマートフォンを取り出し、お互いのIDを登録する。画面越しに見える高瀬の指先は、意外なほど骨ばっていて、繊細な動きをしていた。
「では、失礼します。今日はありがとうございました」
高瀬は深く頭を下げ、駅とは反対の方向へ歩いていった。
その背中は、居酒屋で見た時よりも、心なしか軽やかに見えた。
麻衣はしばらくその場に立ち尽くし、彼の背中が人混みに消えるのを見送った。
夜風が、火照った頬を心地よく撫でていく。桜はもう散り、街路樹には初夏を予感させる若葉が芽吹き始めていた。
通りを行き交う人々の中に、恋人らしき若いカップルの姿があった。腕を組み、楽しそうに笑い合っている。以前の麻衣なら、その光景に軽い羨望と、それ以上の諦めを感じていたはずだった。けれど今夜は、少しだけ違う感情が胸をよぎった。
自分にも、まだ何かが始まる余地があるのかもしれない。そんな根拠のない予感が、静かに胸の奥で膨らんでいく。
この歳になって、こんな些細なことでこんなにも胸が高鳴るなんて、思ってもみなかった。
帰りの電車の中で、麻衣はスマートフォンの画面を何度も確認した。
まだ何も届いていない。当たり前だ、別れたばかりなのだから。
それでも、指先は落ち着かなく画面をなぞり続けた。
窓の外を流れる夜景を眺めながら、麻衣はふと自分の顔が、いつになく緩んでいることに気づいた。
離婚してから五年、こんな顔で電車に揺られたことがあっただろうか。
自宅の最寄り駅で降り、夜道を歩く。マンションのエントランスに差し掛かったところで、スマートフォンが小さく震えた。
高瀬からのメッセージだった。
『今日は楽しい時間をありがとうございました。急に連絡先を聞いてしまって、失礼だったと反省しています。もしよろしければ、また改めてお話しできたら嬉しいです』
その丁寧な文面を、麻衣は何度も読み返した。
律儀で、控えめで、けれど確かに「また会いたい」という気持ちが滲んでいる文章。
部屋に戻り、灯りをつける。いつもなら疲れてすぐに服を着替え、化粧を落として眠る支度をするところだが、今夜はしばらくソファに座ったまま、届いたメッセージを見つめていた。
結局、返信の文面を何度も打っては消し、最終的に短い言葉に落ち着いた。
『こちらこそ、ありがとうございました。高瀬さんとのお話、とても新鮮で楽しかったです』
送信してから、麻衣は自分の頬に手を当てた。
温かい。
それは、暖房の熱ではなく、もっと違う種類の熱だった。
四十三歳。ふとした瞬間に鏡を見る。目尻の笑い皺、少しだけ下がった口角。それでも今夜だけは、鏡の中の自分が、少しだけ違う顔をしているような気がした。
窓の外には、都会の夜景が広がっている。
五年前、離婚を決めた夜に見た景色と同じはずなのに、今の麻衣には、街の明かりの一つひとつに、誰かの「生活」と「体温」が宿っているように見えた。
その夜、麻衣はなかなか寝付けなかった。
目を閉じると、居酒屋の喧騒の中、そっとグラスを傾けていた高瀬の横顔が浮かんでくる。
こんな気持ちを抱くのは、いったい何年ぶりだろう。
まだ何も始まっていない。ただ名刺を交換し、連絡先を交換しただけだ。
それでも、麻衣の胸の奥には、たしかな予兆のようなものが芽生えていた。
凪いでいたはずの心の水面に、小さな、けれどはっきりとした波紋が広がっていく。
その波紋が、これから麻衣の人生をどこへ運んでいくのか、この夜の麻衣はまだ知らない。
ただ、久しぶりに感じるこの落ち着かなさが、決して不快なものではないことだけは、確かだった。
布団に入り、天井を見上げる。エアコンの微かな運転音だけが響く部屋。いつもならその静けさに安堵していたはずなのに、今夜はほんの少しだけ、その静けさが名残惜しく感じられた。
明日、彼からまたメッセージが届くだろうか。
それとも、あの丁寧な文面は、社交辞令の域を出ないものだったのだろうか。
考えても仕方のないことを考えながら、麻衣はいつの間にか眠りに落ちていた。
夢の中で、麻衣は青く染まった見知らぬ土地を歩いていた。隣には誰かがいる。顔は見えない。それでも、その気配だけが、不思議なほど心地よかった。
どこまでも続く氷河の道。冷たいはずの空気が、なぜか温かく感じられる。隣を歩く誰かが、時折こちらを見て小さく笑う。その笑顔だけが、輪郭を持たないまま、はっきりと麻衣の胸に焼きついた。
目が覚めたとき、窓の外はまだ薄暗く、始発電車の走る音が遠くから聞こえてきた。麻衣はしばらく布団の中でその余韻に浸り、それからそっと笑みをこぼした。
たった一度の出会いで、こんなにも心が浮き立つなんて。
四十三歳の朝は、こうしていつもより少しだけ、優しい色をして始まった。




