第一章:凪の静寂(しじま)と、小さな予兆
四月の終わり、夕暮れ時のオフィスは、窓から差し込む斜光が埃のダンスを黄金色に染め上げていた。
佐伯麻衣は、デスクの端に置かれたカレンダーをぼんやりと眺める。四十三歳、独身。いや、「バツイチ」という記号がついてから、五年の月日が流れた。
麻衣が勤めるのは、都心にある中堅の総合商社だ。海外の生産者と国内の小売業者を橋渡しする仕事で、繁忙期には深夜まで数字と格闘することも珍しくない。けれど今日のような春の夕方は、フロア全体がどこか気の抜けた、緩やかな空気に包まれている。
隣の島では、後輩がクライアントとの電話で声を張り上げ、向かいの席では課長がノートパソコンの画面に眉間の皺を寄せている。麻衣はその喧騒の中で、一人だけ違う時間の流れの中にいるような感覚を覚えた。
入社二十年目になる麻衣は、部内でも数少ない女性の主任として、若手の指導と海外仕入れ先との折衝を任されている。淡々と数字を積み上げる仕事ぶりは信頼されているが、周囲からは「隙のない人」と見られがちだった。実際のところ、隙がないのではなく、隙を見せる相手がいなくなっただけなのだと、麻衣自身は分かっていた。
同期の女性たちの多くは既に子育てに追われ、飲み会の誘いにも顔を出さなくなった。独身のまま管理職手前まで来た麻衣は、いつからか「頼れる先輩」という役割を、当たり前のように背負わされていた。
十年の結婚生活。それは、激しい争いや裏切りがあったわけではない。ただ、ゆっくりと、しかし確実に、二人の間に流れる空気が希薄になっていったのだ。
思い出すのは、離婚を決める半年ほど前のある日曜日の朝だ。麻衣は台所で味噌汁を作りながら、夫の背中に向かって話しかけた。
「今度の連休、どこか行く? 久しぶりに温泉とか」
返ってきたのは、生返事だった。
「ああ、考えとくよ」
夫はソファに座ったまま、スマートフォンの画面から目を離さなかった。麻衣はそれ以上何も言わず、味噌汁の火を弱めた。怒っていたわけではない。ただ、自分の中の何かが、静かに、けれど確実に冷えていくのを感じていた。
その晩、二人はいつものように同じソファに座ってテレビを観ていた。バラエティ番組の笑い声だけが部屋に響き、麻衣も夫も、笑うでも会話をするでもなく、ただ画面を眺めていた。
ふと視線を横に移すと、夫の横顔は、まるで見知らぬ他人のように遠く感じられた。十年前、恋人だった頃には、隣にいるだけで心臓が高鳴ったはずのその横顔が、今は何の感情も引き起こさない。
その事実に気づいた瞬間の、あの静かな絶望を、麻衣は今でも鮮明に覚えている。
「明日、何食べる?」
「何でもいいよ」
そんな会話が、いつしか「明日、何時に帰る?」という確認作業になり、最後にはそれすらも消えた。
互いに自分の足で立ち、自分の人生を歩める能力があったからこそ、「なぜ私たちは一緒にいるのだろう」という疑問が、一度芽生えると止まらなくなった。お互いが一人になれば、もっと自分らしく、もっと自由に、人生を謳歌できるのではないか。
一度だけ、二人でやり直そうとしたことがある。結婚八年目の夏、麻衣は思い切って夫を旅行に誘った。かつて新婚旅行で訪れた伊豆の温泉宿。同じ部屋、同じ露天風呂。しかし、そこにあったのは懐かしさよりも、埋めようのない沈黙だった。
夕食の席で、夫は黙々と箸を動かすだけで、麻衣が話しかけてもうわの空の返事しか返さなかった。露天風呂に浸かりながら見た星空も、十年前と同じはずなのに、隣に誰もいないかのような孤独を麻衣に突きつけた。
帰りの新幹線の中、麻衣は窓の外を流れる景色を見つめながら、静かに悟った。もう戻れないのだと。
話し合いは驚くほど円満だった。泣き叫ぶことも、食器を投げることもなく、まるで賞味期限の切れた調味料を整理するように、二人は離婚届に判を押した。
区役所の窓口で、係員が事務的に書類を確認する間、麻衣は隣に立つ夫の横顔を盗み見た。十年前、初めて出会った日と同じ、少し困ったような笑い方をする人だった。
「じゃあ、元気で」
区役所の前で別れた元夫の背中は、記憶の中で今も優しく、どこか寂しげだ。彼は決して悪い人ではなかった。ただ、二人の「時間」が、同じ場所で重なり続ける理由を見失っただけだった。
あの日、区役所を出た麻衣の足取りは、想像していたよりもずっと軽かった。重荷を下ろした解放感と、これから一人で人生を歩む不安とが、複雑に絡み合った感情。それでも、涙は一滴も出なかった。
実家の母に離婚を報告した時、母は驚くほどあっさりと「そう」とだけ言った。詮索も、説教もなかった。ただ、電話を切る間際に、ぽつりとこう付け加えた。
「無理して一人でいなくていいのよ。麻衣が幸せなら、それが一番だから」
その言葉を、麻衣はしばらく忘れていた。忘れていた、というより、忘れたふりをしていたのかもしれない。
離婚してからの五年間、麻衣は会社に通いやすい新しい街にマンションを借り、自分だけの帝国を築いた。
1LDKの部屋には、白とグレーを基調にした家具を揃えた。カーテンも、食器も、すべて自分の好みだけで選んだ。誰かに気を遣う必要のない、静かな空間。
結婚していた頃の家は、夫の趣味である無骨な木製家具で統一されていた。麻衣が好きだった淡い色合いの雑貨は、いつも「趣味じゃない」と言われ、収納の奥に追いやられていた。今の部屋には、そうした遠慮も妥協も存在しない。壁一面の本棚には、麻衣が選んだ本だけが並び、窓辺には気に入った観葉植物が並んでいる。
平日の夜は、駅前のスーパーで惣菜を買い、シャワーを浴びて、配信ドラマを一話だけ観てから眠る。金曜の夜だけは少し贅沢をして、少し値の張るワインを開け、ソファに深く沈み込んで映画を眺めた。
インテリアは全て自分の好みで統一し、金曜の夜には誰に気兼ねすることなく、少し高いワインを開け、配信映画に没頭した。自由だった。羽が生えたように身軽だった。
週末になると、大学時代からの友人と電話で近況を報告し合うのが習慣になっていた。先週の電話で、友人は結婚生活の愚痴を延々とこぼしたあと、最後にこう付け加えた。
「麻衣は自由でいいよね。誰にも縛られずに、好きなことできてさ」
その言葉に、麻衣は曖昧に笑って相槌を打つことしかできなかった。羨ましがられるたびに、心の奥の方で何かがすり減っていくような気がした。
電話を切ったあと、麻衣は誰もいない部屋を見渡した。整えられたインテリア、誰にも乱されない静けさ。それは確かに、自分が望んで手に入れたものだった。けれど、その静けさが、時々ひどく重く感じられることを、友人には言えなかった。
日曜の午後は、決まって近所を一人で散歩することにしていた。行きつけのカフェでコーヒーを一杯だけ飲み、公園のベンチで文庫本を数ページ読み、帰りに翌週分の食材をまとめ買いする。誰かに合わせる必要のない、完璧に自分だけの時間。けれど、公園でベビーカーを押す若い夫婦や、手を繋いで歩く老夫婦を見かけるたびに、麻衣は自分の隣にある空白を、否応なく意識させられた。
だが、自由という名の果実は、時が経つにつれて少しずつその瑞々しさを失っていく。
四十三歳。ふとした瞬間に鏡を見る。目尻の笑い皺、少しだけ下がった口角。自分一人で生き抜く覚悟はできている。けれど、深夜、ふいに目が覚めた時に感じる部屋の静寂が、以前よりも「冷たく」感じるようになっていた。
元夫は、いい人だったな。
そう思うことはあっても、よりを戻したいわけではない。あの場所に戻ったところで、また同じ「酸素の薄い部屋」に閉じ込められるだけだ。
麻衣が求めているのは、過去への回帰ではなく、見たことのない「何か」なのだと、自分でも気づき始めていた。
*
「佐伯さん、今日の飲み会、顔出せる?」
課長の声に、麻衣は現実に引き戻された。今日は取引先のITコンサルティング会社との親睦会だ。あまり乗り気ではなかったが、立場上、断るのも角が立つ。
「ええ、伺います。場所はいつものところですよね」
「そうそう。今回の案件、システム更改の話が絡んでるから、向こうの担当者ともきちんと顔繋ぎしとかないとね」
課長はそう言い残し、自分のデスクに戻っていった。麻衣はパソコンの画面を閉じ、化粧ポーチを取り出す。普段なら気にも留めない身支度が、今日はほんの少しだけ億劫に感じられた。
朝、家を出る前に一度は考えた服装だった。無難なオフィスカジュアル。取引先との親睦会だからといって、必要以上に着飾る理由もない。それでも鏡の前で、いつもより少しだけ丁寧にアイロンをかけたブラウスを選んだ自分に、麻衣は気づいていなかった。
鏡代わりに使っているコンパクトを開き、崩れた口紅を直す。映る自分の顔は、いつもと変わらない、疲れの見える、四十路の顔だった。
化粧室の鏡には、他にも数人の同僚が並んでいた。若い後輩が新しいリップの色を試し、鏡越しに麻衣に感想を求めてくる。
「佐伯さん、これどう思います?」
「いいと思うよ、可愛い」
そう答えながら、麻衣は自分がいつからこうした「若さの表現」に興味を示さなくなったのかを、ぼんやりと考えていた。
会場は、少し小洒落た個室居酒屋だった。
木目調の落ち着いた内装で、間接照明が柔らかく席を照らしている。ビールやハイボールが運ばれ、形式的な乾杯が交わされる。麻衣は適当に相槌を打ちながら、サラダを取り分け、円滑なコミュニケーションという名の「仕事」をこなしていた。
「佐伯さん、飲めるクチでしたっけ」
「ええ、まあ人並みには」
同僚の一人がグラスを掲げ、麻衣もそれに合わせてハイボールを一口飲んだ。喧騒の中、耳障りのいい笑い声と、皿がぶつかる乾いた音が入り混じる。
「今回のシステム更改、向こうの若手がなかなか優秀らしいですよ」
課長がそう言いながら、取引先のテーブルに視線をやった。麻衣も釣られてそちらを見るが、誰が「優秀な若手」なのか判別がつかない。全員が似たようなスーツを着て、似たような愛想笑いを浮かべている。




