第九章:ブルー・モーメントの、深呼吸
その日は、目覚まし時計が鳴る一時間前に目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋の中は青みがかった薄闇に包まれている。枕元のスマートフォンに目をやると、午前五時三十分。昨夜はあんなに寝付けなかったのに、意識は驚くほど冴えわたっていた。
布団の中で、麻衣はしばらく天井を見つめたまま動けずにいた。まだ夜明け前の静けさの中、遠くで一番電車の走る音がかすかに聞こえる。今日という日が、これほどまでに輪郭のはっきりした「特別な一日」として感じられるのは、いつ以来だろうか。
今日、麻衣は高瀬に会う。
その事実が意識の表層に浮かび上がった瞬間、麻衣の心臓がトクン、と大きく跳ねた。
這い出すようにベッドを抜け出し、まずは白湯を飲む。胃の腑が温まるのを待ちながら、洗面台の鏡の前に立った。
台所で湯を沸かす間、麻衣は窓の外に広がる薄明の空を眺めていた。まだ人の気配のない街並みは、いつもより静かで、どこか神聖な雰囲気を纏っている。マグカップを両手で包み込み、一口ずつゆっくりと白湯を飲み干す。その儀式のような時間が、これから始まる一日への心構えを整えてくれるようだった。
簡単なトーストと目玉焼きで朝食を済ませながら、麻衣はこれから会う高瀬のことを考えていた。緊張で喉を通るか不安だったが、意外にも食欲はあった。その事実に、麻衣は少しほっとした。緊張しすぎて何も喉を通らないほど、初々しい自分でもないらしい。
朝一番の、飾り気のない、素のままの顔。
この数日間、いつもより念入りに保湿を重ね、マッサージをしてきた成果だろうか、肌の調子は悪くない。けれど、これから始まる「儀式」を思えば、今の自分はまだ未完成のキャンバスに過ぎなかった。
洗面台に並んだ数々の基礎化粧品を、麻衣は一つひとつ手に取っては、その効能を思い出すように見つめた。どれも、これまで「もったいない」と後回しにしてきた特別な品ばかりだった。今日という日のために、それらを惜しみなく使う自分に、麻衣はどこか誇らしさすら感じていた。
基礎化粧品を、指先の熱で押し込むように馴染ませていく。今日という日のために、麻衣は普段よりも一段階多く、美容液を重ね塗りした。
いつもなら五分で終わるメイクに、今日はその三倍の時間をかけた。
ファンデーションは厚塗りにならないよう、けれど隠したい影は光で飛ばすように。アイラインの一ミリの角度、マスカラの塗り残しがないか、何度も何度も鏡を近づけて確認する。
仕上げに選んだのは、いつもより少しだけ明るい珊瑚色の口紅だった。試し塗りをしては拭き取り、また塗り直す。派手すぎないか、それでいて印象に残る色かどうか、麻衣は鏡の前で何度も自問した。
(やりすぎかな……。でも、薄すぎて「手抜き」だと思われるのはもっと怖い)
そんな葛藤と戦いながら、先日新調したラベンダー色のワンピースに袖を通す。
実は、赤いカーディガンを羽織る案も最後まで迷っていた。もう少しカジュアルに見せた方が、水族館という場所には合うのではないか。とはいえ、鏡の前で何度も重ねた末に、麻衣はやはり最初に決めたワンピース一枚のシンプルな装いを選んだ。飾りすぎず、けれど気を抜いていないと分かる絶妙なラインを、麻衣はこの数日間、何度も頭の中でシミュレーションしてきたのだ。
シルクの滑らかな感触が肌を滑り、背筋が自然と伸びる。アクセサリーは、主張しすぎないパールのピアスと、細いゴールドのブレスレットを選んだ。
鏡の前で右へ左へと体を捻り、ウエストのライン、裾の揺れ方を確認する。
「……よし」
小さく呟いてみるが、不安は消えない。
部屋を出る前、麻衣は玄関の姿見でもう一度全身を確認した。念のため折りたたみ日傘を鞄に入れ、鍵を締める。エレベーターを待つ間も、電車に揺られている間も、麻衣の心臓は落ち着くことなく脈打ち続けていた。
マンションのエントランスを出たところで、麻衣は一度だけ深呼吸をした。今日という日を、後悔のないものにしたい。そんな漠然とした、けれど強い願いが、胸の奥から込み上げてくる。
電車の窓から見える景色は、五月の柔らかな緑に包まれていた。街路樹の若葉が風に揺れ、休日の朝特有の、ゆったりとした空気が車内にも漂っている。それなのに、麻衣の内側だけは、まるで台風の前触れのような落ち着かなさに満ちていた。
この年齢の女性が、ここまで着飾ることは「恥ずかしい」ことではないだろうか。
高瀬さんは、この「努力」に気づいてくれるだろうか。
いや、そもそも男性という生き物は、女性の服の色やアクセサリーの微細な変化など、それほど興味がないのではないか。
かつての結婚生活では、髪を十センチ切っても、新しい服を買っても、元夫がそれに気づくことはほとんどなかった。
「あ、そういえば何か変わった?」
数日経ってから投げかけられる、そんな無頓着な言葉に、何度心を削られたことだろう。
一度など、丸一日かけて美容院でイメージチェンジをした日でさえ、元夫は夕食の席で一度も麻衣の顔を見なかった。翌々日になってようやく「あれ、髪切った?」と聞かれた時には、驚きよりも先に、深い疲労感だけが残った。誰かに見てもらうことをとうに諦めていた自分に、今更ながら気づかされる。
品川駅の待ち合わせ場所に到着したのは、約束の三十分も前だった。
改札付近は、休日を楽しむ家族連れや若いカップルで溢れかえっている。その喧騒の中に身を置いていると、自分がひどく場違いな場所に立っているような錯覚に陥った。
柱の陰に立ち、麻衣は何度もスマートフォンで時刻を確認した。約束の時間まで、まだ二十五分ある。この時間をどう過ごせばいいのか分からず、麻衣はただ人混みを眺めていた。
思えば、誰かとの待ち合わせに、これほど早く到着したのはいつ以来だろう。学生時代、初めてのデートに緊張しながら待ち合わせ場所に向かった記憶が、ふいに蘇る。あの頃の初々しさを、四十三歳になった今、こんな形でもう一度味わうことになるとは思ってもみなかった。
スマートフォンを何度も確認するが、彼からの連絡はまだない。
(早く着きすぎちゃった。……落ち着かない)
思考が混乱し、足元がふわふわと浮いているような感覚。
誰かを待つという時間が、これほどまでに長く、もどかしいものだということを、麻衣はいつの間にか忘れてしまっていた。約束の時間ぴったりに現れることの多かった元夫との待ち合わせは、いつも事務的で、心が浮き立つことなどなかった。
その時だった。
人混みの向こうから、一人の男性が歩いてくるのが見えた。
ネイビーの柔らかなアンコンジャケットに、センタープレスの効いた細身のグレーパンツ。足元は清潔感のあるレザースニーカー。
高瀬さんだ。
居酒屋で会った時の「大人しい男性」という印象は、良い意味で裏切られた。
立ち姿は洗練されていて、年齢よりもずっと若々しく見える。けれど、首元から覗くシャツの襟元や、時計の選び方には、大人の男性らしい細やかなこだわりが感じられた。
人混みの中を、彼はまっすぐに麻衣の方へ向かって歩いてくる。その足取りに迷いがないことが、麻衣にはなぜか嬉しかった。
「……麻衣さん」
麻衣の前に立った高瀬は、少しだけ目を見開いた。
その瞳が、麻衣の頭の先から足元までを、慈しむように、けれど確かに捉えたのを、麻衣は見逃さなかった。
数秒にも満たないその視線の中に、麻衣はこれまでのどんな褒め言葉よりも雄弁な何かを感じ取った。声にならない称賛が、確かにそこにあった。
「お待たせしました。……すみません、随分早くからいらしてたんじゃないですか?」
「いえ、私も今着いたばかりで」
ありきたりな嘘をつく麻衣の言葉を、彼は柔らかい笑みで受け流した。彼の視線が、麻衣の頭からつま先まで、慈しむように、けれど確かに一巡した。その一瞬の間に、麻衣はこの数日間の焦燥のすべてが報われるのを感じていた。
「……今日の麻衣さん、とても素敵ですね」
心臓が、耳元で鳴るような音がした。
「そのワンピースの色、麻衣さんの肌の色にとてもよく合っています。……僕、今日の格好、麻衣さんのオシャレに釣り合ってますか? 少し心配だったんです」
彼は少しだけ照れくさそうに、自分のジャケットの裾を直した。
嬉しさが、喉の奥までせり上がってくる。
見てくれていた。
自分が迷いながら選んだ色を、鏡の前で重ねた時間を、彼はその一言で肯定してくれた。
「……高瀬さんこそ、すごく爽やかで。いつもより、ずっと若く見えます」
「あはは、本当ですか? 気合を入れて選んだ甲斐がありました」
彼のはにかんだ笑顔を見て、麻衣は改めて思った。取り繕った言葉よりも、こうした素直なやり取りの方が、ずっと心を近づけてくれるのだと。
二人は、どちらからともなく歩き出した。
目指すのは、駅のすぐそばにある水族館。
歩道橋を渡りながら、高瀬は少し先を歩き、時折振り返っては麻衣の歩調を確認するように速度を緩めた。その何気ない気遣いの一つひとつに、麻衣は温かいものを感じていた。
「今日は天気も良くて、良かったですね」
「そうですね。……少し緊張していたので、天気くらいしか話題が浮かびませんでした」
その素直な告白に、麻衣は思わず声を出して笑ってしまった。取り繕うことを知らない彼の言葉が、かえって麻衣の緊張をほぐしてくれる。
高瀬が照れたように笑うと、麻衣もつられて笑った。緊張しているのは自分だけではないのだと分かり、肩の力が少し抜けた。
「この一週間、麻衣さんからのメッセージを読むのが、毎日の楽しみでした」
「私もです。……仕事の合間に何度もスマートフォンを確認してしまって、後輩に怪しまれてしまいました」
その打ち明け話に、高瀬は声を上げて笑った。屈託のないその笑顔を見て、麻衣の緊張もさらにほぐれていく。
チケットを買い、中へ入ると、そこは外の喧騒が嘘のような別世界だった。
照明が落とされ、深い青色の光が満ちている。天井から差し込む青いライトが、床のタイルにまで波紋のような模様を落としていた。まるで海の底に足を踏み入れたような、不思議な浮遊感が全身を包む。
一人なら、絶対に訪れることのなかった場所。
離婚してからの五年間、麻衣はこうした「非日常」を、どこか避けて生きてきたのかもしれない。一人で楽しむ術は身につけたけれど、誰かと感動を共有するというコストを、恐れていたのだ。
順路の最初は、色とりどりの熱帯魚が泳ぐ水槽だった。二人は歩調を合わせて進みながら、時折立ち止まっては、珍しい魚の名前を書いたプレートを覗き込んだ。水槽のガラスに反射する二人の姿が、青い光の中で重なって見える瞬間があり、麻衣はその光景をこっそり目に焼き付けた。
「これ、見てください。名前が『ニシキテグリ』って書いてあります」
「本当だ、すごい模様ですね。……こういう名前のセンス、いつも感心してしまいます」
他愛のない会話が、途切れることなく続いていく。緊張していたはずの麻衣の肩からも、少しずつ力が抜けていった。
次の区画では、ペンギンたちがガラス越しに愛嬌のある動きを見せていた。よちよちと歩く姿に、麻衣は思わず声を上げて笑った。
「かわいい……。こんなに近くで見たの、初めてかもしれません」
「僕もです。ペンギンって、陸の上だとこんなに不器用なのに、水の中に入った途端に別人みたいになるんですよ。後で見られるといいですね」
高瀬の言葉通り、しばらく待っていると一羽のペンギンが勢いよく水中へ飛び込み、驚くほど滑らかに泳ぎ始めた。その変化に、二人は同時に歓声を上げた。子供のようにはしゃぐ自分に気づき、麻衣は少し照れくさくなったが、それでも笑いを止められなかった。
「写真、撮ってもいいですか?」
麻衣がスマートフォンを取り出すと、高瀬は快く頷いた。何枚か水槽の写真を撮った後、麻衣はふと、二人で写った写真が一枚もないことに気づいた。しかし、それを提案する勇気までは、まだ持てなかった。次の機会があれば、その時に、と麻衣は密かに心に留めた。
さらに奥へ進むと、大きな水槽の中を悠然と泳ぐウミガメの姿があった。麻衣はしばらくその場に立ち止まり、緩やかなヒレの動きに見入っていた。
「ウミガメって、何十年も生きるんですよね」
「そうらしいですね。人間よりも長く生きる個体もいるとか。……こうしてゆっくり泳ぐ姿を見ていると、時間の流れ方が違うんだろうなと感じます」
水槽の中でゆったりと旋回するウミガメの姿を、麻衣はしばらく無言で見つめ続けた。急かされることのない、ただ生きているだけで満たされているようなその存在に、麻衣は不思議な羨望を覚えた。
高瀬の言葉に、麻衣は深く頷いた。効率と速度ばかりを求められる日常から離れ、ここではすべてがゆったりと流れている。その緩やかさが、麻衣の凝り固まった心をほぐしていくようだった。
「僕たちも、こんなふうにゆっくり歩けたらいいですね。急がずに、焦らずに」
高瀬のその一言に、麻衣は思わず彼の横顔を見つめた。それが単なる散歩のペースの話なのか、それとも二人の関係そのものについての言葉なのか、麻衣には判断がつかなかった。けれど、どちらであっても構わないと思えるほど、その言葉は麻衣の心に優しく響いた。
薄暗い通路を歩いていると、ふと二人の手の甲が触れそうになった。麻衣はとっさに手を引っ込めそうになったが、高瀬もまた、同じように一瞬体を強張らせたのが分かった。どちらからともなく、気まずさを誤魔化すように小さく笑い合う。
その一瞬の触れ合いだけで、麻衣の心臓は跳ね上がった。まだ何も始まっていないはずなのに、この些細な接触一つが、これほどまでに大きな意味を持つとは思わなかった。いい大人になって、まるで初恋の中学生のような反応をしている自分が、少しおかしくもあった。
けれど今、隣を歩く高瀬の気配を感じながら、麻衣はかつてないほど心が満たされていくのを感じていた。
「見てください、あの魚の群れ。光を反射して、まるで銀色の帯みたいだ」
高瀬が水槽を指差す。
その指先が、一瞬だけ麻衣の腕に触れそうになり、また離れていく。
水槽の青い光に照らされた彼の横顔は、居酒屋で見た時よりもずっと深く、優しく見えた。彼の輪郭を縁取る青い光が、まるで絵画の一場面のように、麻衣の記憶にそっと刻み込まれていく。
(ああ……私、本当に嬉しいんだ)
四十三歳のバツイチ。会社員。
そんな記号を脱ぎ捨てて、ただ一人の女性としてこの青い闇の中に溶けていく。
高瀬と出会わなければ、麻衣は一生、キッチンで作り置きの料理を作りながら、静かに「自由」を消費して終わっていたかもしれない。
「麻衣さん?」
彼が覗き込むように声をかけてくる。
「……はい、本当に綺麗ですね」
我に返った麻衣は、慌てて笑顔を作った。物思いに沈んでいたことを悟られたくなくて、少し早口になってしまう。高瀬はそんな麻衣の様子を、咎めるでもなく、ただ優しい眼差しで見つめていた。
麻衣は微笑みながら、深く息を吸い込んだ。
水族館の少し冷えた、けれど潤んだ空気が、肺の奥まで満ちていく。
今日という日が、二人の物語の新しい章になることを、麻衣は確信していた。
順路の途中、休憩用のベンチが目に入った。高瀬が自然な仕草でそこへ腰を下ろすと、麻衣もつられて隣に座った。二人分の体重で、木製のベンチがわずかに軋む音がする。
「麻衣さん、今日は誘いに応えてくれて、本当にありがとうございます」
「こちらこそ、素敵な場所に連れてきてくださって」
二人の声は、水槽の静けさに溶け込むように、いつもより一段低く、柔らかかった。この場所が持つ不思議な魔力が、二人の間の余計な緊張を、少しずつ解いていくようだった。
どちらからともなく訪れた沈黙は、気まずいものではなく、むしろ心地よい静寂だった。二人は並んで座ったまま、しばらく言葉を交わさずに、目の前を泳ぐ魚たちを眺めていた。
(このまま、時間が止まってしまえばいいのに)
そんな子供じみた願いが、麻衣の胸をよぎった。この歳になって、こんな感傷的な気持ちを抱くとは思わなかったが、それを恥ずかしいとは、今の麻衣は少しも感じていなかった。
「この先、まだ他にも見どころがあるみたいです。……もう少し、付き合ってもらえますか?」
高瀬がそう言って立ち上がり、麻衣に手を差し伸べる仕草をしかけて、途中で照れくさそうに引っ込めた。麻衣はその不器用な優しさに、思わず笑みがこぼれた。完璧に振る舞おうとするよりも、こうした小さな迷いを見せてくれる方が、彼という人間の誠実さがよく伝わってくる気がした。
「はい、もちろんです」
二人は立ち上がり、再び薄暗い通路の奥へと歩き出した。順路の先には、まだ見ぬ光景が待っている。それは水族館の展示だけでなく、これから紡がれていく二人の時間そのものの比喩のようにも、麻衣には感じられた。
歩きながら、麻衣はふと自分の手のひらに目を落とした。数時間前まで、鏡の前で何度も自分の顔を検分し、老いや衰えばかりを気にしていた自分がいた。けれど今、隣を歩く高瀬の存在が、そうした自己否定的な視線を、少しずつ溶かしてくれている。
水槽の光の中で見る自分の手は、いつもよりも柔らかく、優しい色をしているように見えた。年齢を重ねた証である、指の関節の小さなしわさえも、今夜だけは愛おしいものに思えた。
完璧でなくてもいい。若さに敵わなくてもいい。ただ、今この瞬間を、隣にいる人と共に味わえることの豊かさを、麻衣は静かに噛みしめていた。
通路の途中、大きな回遊水槽の前に差し掛かった。無数の魚たちが銀色の帯となって、円を描くように泳いでいる。二人はしばらくその場に立ち止まり、言葉を交わさずにその光景を眺めた。沈黙が気まずくないという事実そのものが、麻衣にとっては新しい発見だった。
「ずっとこうしていたいですね」
高瀬がぽつりと呟いた。
「はい。……時間が、止まればいいのに」
麻衣もまた、素直な気持ちを言葉にした。この一瞬が永遠に続けばいいという、子供じみた願いを、今夜だけは隠さなくていい気がした。




