第7話:加速する訓練
第7話:加速する訓練
【ログ:Subject 12 / Purity 98% / Sync 0.12%】
ジ、と低い、しかし一定の不快感を伴うハミングが、真っ白な室内に満ちていた。
天井に埋め込まれた無数の蛍光灯が放つ光は、影という影を完全に消し去るために計算された角度で照射されている。壁面を覆う強化ガラスの向こう側で、いくつかの精密サーバーが排熱ファンを回す、乾いた駆動音が重なっていた。
「はい、12号ちゃん。これ、今日の分のおやつね」
気だるげな声とともに、ハルキがプラスチック製の薄いケースを差し出してきた。
中には、均一な円形に成型された淡い黄色の錠剤が三粒、転がっている。
「ありがとうございます、ハルキさん。これ、ちょっと酸っぱくて目が覚めるから好きです」
天道誠はそれを受け取り、一粒を口に放り込んだ。
カリ、と小気味よい音が室内に響く。人工的なレモン香料の風味が広がった直後、舌の奥を刺すような、妙に冷たい金属的な後味が残った。合成繊維のトレーニングウェアが、彼が顎を動かすたびにササ、と微かな摩擦音を立てる。
「そりゃよかった。お前の脳が焦げ付かないように、僕が特別に配合してやってる『Tranquility-4』だ。感謝してほしいね」
ハルキは液晶タブレットの画面を指先で弾きながら、白衣のポケットに手を突っ込んだ。画面から漏れる青白い光が、彼の冷笑的な薄い唇を不気味に浮かび上がらせている。
「ハルキ、もう適合実験の準備は完了しているわ。あまり誠をからかわないで」
部屋の隅、コントロールコンソールの前に佇んでいたリナが、静かに口を開いた。
彼女の白いハンドラー用コートは、汚れ一つなく端正だった。だが、コンソールを握る彼女の左手の指先は、不自然なほど白くなり、かすかに強張っている。
「分かってるよ、リナ。お前は本当に心配性だな。12号のバイタルは、僕が綺麗に『お掃除』してやったばかりだ。今はこれ以上ないくらい、クリアな状態さ」
ハルキは肩をすくめると、誠の頭部に装着されたヘッドギアのコネクタを、コンソールへと接続した。カチリ、と硬質なロック音が、誠の鼓膜に直接響く。
「さあ、12号。今日も『天導の眼』の同期率を一段階上げる。民衆のヒーローになるための、楽しい楽しいお勉強の時間だ」
「はい。よろしくお願いします」
誠は真っ直ぐに頷いた。
彼の網膜の裏側で、瞬時に起動シーケンスが走り始める。視界の端に、細かなシステムログの文字列が明滅し、世界が徐々に変色していく。部屋の白い壁が、どこか現実味を失った無機質なグリッド線へと置き換わっていく。
(早く、強くならなきゃ)
誠は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
頭の奥で、じわじわと熱が広がっていくのが分かる。それは心地よい万能感の始まりであり、同時に、心臓の鼓動を異常な速さへと押し上げるトリガーでもあった。
リナのインテリジェント・ウォッチが、誠の心拍数の急上昇を検知して静かに青く点滅する。
彼女はそれを一瞬だけ見つめ、それから、自らの右ポケットへと手を滑り込ませた。指先が、あの不格好な小石の、ザラついた冷たい表面に触れる。
廃棄スロットに入れると誠に告げたそれは、今も彼女のポケットの奥深くに、確かに存在していた。
「実験開始。フェイズ・セブン――『神速の同化』」
ハルキがレバーを押し下げると同時に、世界が爆発した。
誠の視界が一瞬で黄金色の光に染まる。
『天導の眼』が提示する、完璧な戦闘軌道。目の前の空間に、突如として黒い瘴気を纏った「怪物」のホログラムが出現した。それはおぞましい触手と、無数の眼球を持つ、人類の敵。
「グ、ア、ア、ア――」
怪物の咆哮が、音響スピーカーを通じて室内を震わせる。
だが、誠の耳には、その咆哮の底に、奇妙なノイズが混ざって聞こえた。
(……たす……け……)
意味を成さないはずの音節が、一瞬だけ脳細胞を引っ掻く。誠の眉間が、激しい頭痛とともにぴくりと跳ねた。
【警告:Subject 12 認知フィルターに0.02秒のラグ】
【パッチ『Tranquility-4』強制増幅】
網膜の裏で赤いエラーログが弾けたが、それは一瞬で金色の光によって塗りつぶされた。
頭痛の代わりに、強烈なドーパミンが脳内に溢れ出す。誠の身体は、自身の意志を超える速度で動き出していた。
「神速天撃――!」
誠の身体が、視覚的な残像を残して前方に跳ねた。
訓練用の木刀が、超高速の軌道を描いて怪物のホログラムを切り裂く。空気を切り裂く鋭い風切り音が響き、次の瞬間には、怪物の身体が光の粒子となって霧散していた。
速い。世界が、まるで止まっているかのように遅く見える。
ハルキの施した調整は、誠の神経をシステムと限界まで同調させていた。しかし、その代償は、彼の肉体の奥深くで確実に蓄積されていく。
二体目、三体目の怪物を瞬く間に駆除していく誠。
その動きは、もはや人間というよりは、美しく調整された精密機械のようだった。
「どうだ、リナ。素晴らしいだろう。12号の同期率は、これでコンマ12%に達した。先代の11号がこの領域に達するまでには、あと二週間はかかっていたんだがね」
ハルキが液晶画面を見つめたまま、淡々と数値を読み上げる。
リナは何も答えなかった。彼女の視線は、ガラスの向こうで激しく動き続ける誠の、その足元に注がれていた。
高負荷に耐えかねた誠の、特注のトレーニングシューズが、床の吸音ゴムを削り、摩擦で焦げた嫌な匂いが微かに空調の風に乗って漏れてきている。
「……ハルキ、もうやめて。今日の限界値を超えているわ。これ以上は、彼の脳が――」
「おいおい、ハンドラーが情に流されてどうするんだ?」
ハルキは冷ややかに笑い、画面の「適用」ボタンをさらにタップした。
誠の視界が、急激に反転した。
金色の光が、一瞬だけ途切れる。その刹那、彼が見たのは、切り裂いた怪物の顔が、見知らぬ少年の怯えた横顔へと変貌するビジョンだった。
(……え?)
激しい嘔吐感が、胃の底からせり上がってくる。目の奥が、熱した鉄の棒を突き刺されたかのように激しく痛んだ。誠の動きが、完全に停止する。
「誠!」
リナが叫び、コンソールの緊急停止ボタンを叩いた。
すべてのホログラムが消え去り、室内に再び蛍光灯の無機質なハミングだけが戻ってくる。
誠は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。床にポタポタと、赤い滴が落ちていく。彼の鼻から、鮮血が静かに流れ落ち、白いゴムの床を汚していた。
「はぁ、はぁ、……っ」
誠は荒い呼吸を繰り返しながら、震える手で鼻血を拭った。手の甲が、べっとりと赤く染まる。
しかし、彼はすぐに顔を上げ、ガラスの向こうにいるリナに向かって、無理に口角を上げてみせた。
「大丈夫……大丈夫だよ、リナ。ちょっと、立ち眩みがしただけだから」
その笑顔は、あまりにも無垢で、濁りがなかった。
自分が今、どれほどの負荷によって壊れかけているのかを、彼は全く理解していない。ただ、「みんなを守るために強くなる」という純粋な願いだけが、彼の瞳の中で健気に輝いていた。
「ほらね、12号ちゃんはガッツがある。お前が甘やかすから、『迷い』っていうノイズが混ざるんだ、リナ」
ハルキはため息をつき、誠のバイタルデータに『Sync: 0.12% - 安定』のフラグを事務的に書き込んだ。
リナはガラス越しに、誠の血に汚れた手を、ただじっと見つめていた。
ポケットの中の小石が、彼女の指先を冷たく刺し続けている。彼女は、誠のその純粋な笑顔を見るたびに、自分がいつか彼に引かなければならない、引き金の冷たさを思い出さずにはいられなかった。
「……今日の訓練は、ここまでにしましょう」
リナの声は、室内の空調の駆動音にかき消されそうなほど、静かで、冷徹だった。
誠はゆっくりと立ち上がり、自分の汚れを拭うために、支給された無菌のウェットティッシュを手に取った。機械がすべてを管理するこの白い部屋で、彼の流した血だけが、生々しい人間のノイズとして、しばらくの間、消えずに残っていた。
[Subject 12: Synapse Loading - 0.12%]
[Purity Core Index: 98% (Slight noise detected)]
[Sync Rate: 0.12% (Training Protocol: 02 Completed)]
【進捗率:9.7%】
【次回:限界の向こう側】




