第6話:輝ける僕の使命
第6話:輝ける僕の使命
【ログ:Subject 12 / Purity 100% / Sync 0.1%】
パキリ、と小気味よい金属音が、無人の屋上に響いた。
天道誠は、手にした『Acel Charge』の銀色のアルミ缶を傾けた。冷えた炭酸液体が喉を刺激し、人工的なシトラスの香りが鼻腔を抜けていく。缶の表面に生じた細かな結露が、彼の指先を濡らし、そのままコンクリートの床へと数滴、静かに落ちた。
第一統制都市の夕暮れは、どこまでも均一だった。
頭上を覆う巨大な環境シールドが、太陽の光を正確に減衰させ、街全体を完璧なディープオレンジの色調で染め上げている。風速は常に秒速二メートルに制御され、髪をなびかせる空気には、どこか乾燥した機械の匂いが混ざっていた。
誠はフェンスに背を預け、眼下に広がる白い街並みを見下ろした。
昼間のパレードの喧騒は、今はもう遠い。カエデという少女から手渡された白百合の、あのツンとした青臭い匂いだけが、なぜか鼻の奥に残っている。
(みんな、笑っていたな)
不思議なほど、頭の中は静かだった。
数時間前に脳を締め付けたあの割れるような激痛も、網膜の裏で明滅した赤い警告灯も、今は綺麗さっぱり消え去っている。ハルキの施したパッチは完璧だった。カエデの兄がどうなったかという話も、あの不揃いな赤い鳥の刺繍の記憶も、今の誠の脳内では「都市の安全維持に伴う不可避の事象」として美しく整理され、引き出すことのできない深い引き出しの奥へと格納されていた。
残っているのは、民衆を守り抜いたという純粋な高揚感と、彼らの笑顔に対する愛おしさだけだ。
「ここにいたのね、誠」
背後で、吸音ゴムの床を正確に踏みしめる靴音がした。
振り返ると、リナが白いハンドラー用のコートの裾を揺らしながら歩み寄ってくるところだった。合成繊維の生地が擦れ、ササ、と乾いた衣擦れの音が響く。彼女の手には、支給用の高栄養ゼリーパックが二つ握られていた。
「リナ。うん、ちょっと風に当たりたくて」
「ハルキが探していたわよ。次回の『天導の眼』の適合実験に向けて、神経の電位データをもう一度取り直したいって。あなたの脳波、パレードの後に少しだけ不規則な振れ幅を見せたから」
「あはは、心配性だなあ、ハルキさんは。僕は見ての通り、ピンピンしてるよ。頭痛だって完全に治ったんだ」
誠はアルミ缶を掲げてみせ、白い歯を覗かせて笑った。その無邪気な笑顔を、リナは一瞬だけ、動きを止めて見つめた。
「そう。ならいいのだけれど」
リナは誠の隣に並び、同じようにフェンスへ手を掛けた。
彼女の細い指先が、夕日を浴びて白く透き通っている。その手首に巻かれた細身のインテリジェント・ウォッチの液晶画面が、誠のバイタルを検知して静かに青い光を放った。精神安定度、適応率、脳細胞の摩耗係数。一列の文字列が、彼女の網膜に直接投影される。
【Subject 12: Memory Block - Stable】
【Sync Rate: 0.1%】
誠には、その光は見えない。彼はただ、リナの横顔に差し込むオレンジ色の光の美しさに、静かに見惚れていた。
「ねえ、リナ」
「何?」
「今日のパレードで、カエデちゃんっていう女の子に会ったんだ。花束をくれた子」
「ええ、見ていたわ。モニター越しに」
「あの子ね、僕のことを『世界で一番かっこいい』って言ってくれたんだ。僕の戦いが、あの子の涙を止めたんだって。……嬉しかったな。僕みたいな普通の人間でも、誰かの救いになれるんだって、本気で思えた」
誠の言葉は、瑞々しい熱を帯びていた。
リナはゼリーパックのプラスチックの口をパチンと開け、それを静かに口に含んだ。機械的な駆動音を響かせる遠くの換気塔を見つめたまま、彼女の表情は動かない。
「誠。あなたは選ばれたのよ。世界でただ一人の、みんなを照らす光として」
「うん。だから僕、もっと頑張るよ。次の訓練がどんなにキツくても、ハルキさんの実験がどれだけ高負荷でも、絶対に音を上げない。もっと速く、もっと正確に、あの怪物たちを駆除できるようにならなきゃ」
誠は拳を握りしめた。彼の視界の端で、金色の戦闘軌道がかすかにパチパチと火花を散らす。それは『天導の眼』が彼の利他心に反応し、次の戦闘への最適化を始めた証拠だった。
「リナを、もう不安にさせたくないんだ。リナはいつも、僕のために悲しそうな顔をするから。僕が完璧なヒーローになれば、リナも心の底から笑ってくれるでしょ?」
真っ直ぐな、濁りのない視線がリナに向けられる。
その純粋さが、その無報酬の善意が、どれほど残酷な構造の上に成り立っているかを、誠は何も知らない。
「……そうね。あなたの言う通りだわ、誠」
リナは微笑んだ。優しく、慈愛に満ちた、完璧なハンドラーの笑み。
だが、彼女の網膜の視界には、ハルキからの無機質なシステムメッセージがポップアップしていた。
『12号のパッチ適用後のドーパミン分泌量が想定を超えている。戦闘本能の肥大化を確認。次回のパッチ『Tranquility-4』の調合を急ぐ。リナ、観測を継続しろ。』
リナはメッセージを指先一つで虚空に払った。液晶の熱が、彼女の皮膚に微かな不快感を残す。
彼女は自分が冷静な管理者であり、任務を遂行しているのだと、自分に言い聞かせるように、小さく息を吐いた。
「あ、そうだ。忘れるところだった」
誠がふと、リナのコートの右ポケットに視線を落とした。
不自然に少しだけ膨らんだその場所に、彼は悪戯っぽく指を指す。
「リナ、そのポケット、いつも何か入れてるよね。ハンドラーの秘密の道具?」
「……何でもないわ。ただの、備品よ」
「嘘だ。だってそれ、形がゴツゴツしてるもん。……もしかして、僕が前にあげた、あの石?」
リナの身体が、一瞬だけ硬直した。
コートのポケットの中で、彼女の指先が、その表面に触れる。
それは数週間前、最初の演習の帰りに、誠が道端で見つけて「これ、形が面白いからリナにあげる!」と笑って手渡してきた、ただの不格好な小石だった。統制都市の精密な管理ラインからは決して生まれない、泥に汚れた、ザラついた自然の異物。
「捨ててないんでしょ? お守りにしてくれてるんだ」
誠は嬉しそうに、少年のような笑みを浮かべた。
リナはポケットの中で、その小石の尖った角を、指先の皮膚が白くなるほどの強さで握りしめた。冷たい石の感触が、彼女の体温を吸い上げていく。
捨てられるはずがなかった。それが彼女と、この12番目の少年との唯一の結び目だったからだ。しかし、彼女はその感触を誠に見せることなく、ただ冷たい微笑の裏に隠し通した。
「勘違いしないで、誠。ポケットの整理を忘れていただけよ。明日には、廃棄スロットに入れておくわ」
「えー、冷たいなあ。まあ、リナらしいけど」
誠は残りの『Acel Charge』を飲み干し、空になったアルミ缶をゴミ箱の投入口へと放り込んだ。カラン、と無機質な音が響き、フタが閉まる。
均質なオレンジ色だった世界が、定時のシステム更新によって、ゆっくりと夜の帳へと切り替わり始めた。シールドの透過率が下がり、街のいたるところで、青や白のLEDネオンが規則正しく瞬き始める。空調のハミングのボリュームが、夜間モードの静かな重低音へと移行していく。
「さあ、戻りましょう。ハルキが怒るわ」
「うん。行こう、リナ。僕、次の訓練、絶対に完璧にやってみせるから」
誠は前を歩くリナの背中を追いかけ、扉へと向かって歩き出した。
彼の歩調は軽く、その胸には「世界を救う」という濁りなき使命感だけが、満天の星のように輝いていた。自分がその足で、どこへ向かって歩いているのかを、確かめる術もないまま。
誠が去った後、静寂の中でリナのインテリジェント・ウォッチが、本部へ向けたログの送信を完了し、静かに消灯した。
[Subject 12: Synapse Optimization - Completed]
[Purity Core Index: 100% (No pollution detected)]
[Sync Rate: 0.1% (Next phase unlocked)]
【進捗率:8.3%】
【次回:加速する訓練】




