第3話:白衣の観測者
第3話:白衣の観測者
【ログ:Subject 12 / Purity 99% / Sync 0.03%】
室温は、常に二十二度。
肌に触れる金属製の椅子の背もたれは、体温を容赦なく奪っていく。
天道誠は、上半身のガウンを肩まで肌脱ぎにした状態で、検査台に腰掛けていた。部屋の中央に置かれたその椅子を取り囲むように、幾つものアーム型モニターが不規則な角度で静止している。液晶の熱が、微かに剥き出しの肌を撫でた。
「少し冷たいわよ」
至近距離から、リナの声がした。
彼女の指先が、誠のこめかみに触れる。指頭に塗られた透明な伝導ジェルが、皮膚の上でぬるりと広がった。続いて、冷たい銀色の端子が、吸盤のような感触を伴って皮膚に固定される。
「……うん、大丈夫」
誠は身じろぎせず、正面の虚空を見つめた。
すぐ目の前には、リナの顔がある。彼女は白いジャケットの上に、さらに薄手の防護エプロンを重ねていた。前髪の隙間から覗く黒い瞳は、誠の皮膚に接着されていく端子の位置だけを正確に捉えている。
彼女が動くたび、衣服の合成繊維が擦れる乾いた音が、蛍光灯のハミングに混ざった。
「胸元にも貼るわね。呼吸を楽にして」
細い指先が、今度は誠の左胸、心臓の真上に触れた。
トントン、と規則的に刻まれる自分の鼓動が、彼女の指先を通じて医療用モニターへと送信されていく。画面の隅で、緑色のデジタル数字が【HR: 72】から【78】へと僅かに上昇した。
「緊張している?」
「いや、そういうわけじゃ……ただ、こういう精密な検査って、今まで受けたことがなかったから。少し不思議な感じがして」
誠は苦笑いを浮かべ、自分の胸に貼り付けられた合計六個の電極を見下ろした。
「あなたの脳と、『天導の眼』のシステムがどれだけ深く噛み合っているかを調べるための、大切なプロセスよ。これが終われば、あなた専用の戦闘パッチが生成されるわ」
リナは端子の固定を終えると、数歩後ろに下がり、手元の液晶タブレットを指先で叩いた。カチ、カチ、と、プラスチックの硬い音が室内に響く。
「第一段階、視覚同調テストを開始するわ。部屋の明かりを落とすから、正面のスクリーンを見ていて」
彼女の操作と同時に、天井の蛍光灯が完全に消灯した。
一瞬の暗転。
次の瞬間、誠の正面にある壁一面が、巨大なプロジェクターのように淡い発光を始めた。
『――System Sync Protocol: Phase 12――』
無機質な緑色の文字列が、暗闇の中に浮かび上がる。
「視界の端に、ゲームの画面のような幾何学模様が見えるはずよ。それを視線だけで追って。ターゲットが赤く点滅したら、瞬きを二回。それがロックオンの合図」
「わかった」
誠が頷いた瞬間、彼の目の奥に、あの日の夕暮れと同じ微かな熱が宿った。
金色の光が、じわじわと視界の輪郭を侵食していく。ただし、あの時のように世界を完全に塗り潰すほどの奔流ではない。リナのコントロールによって、出力が最小限に抑えられているのだ。
暗闇の中に、無数の立方体や円錐の3Dモデルが高速で出現し、不規則な軌道を描いて飛び交い始めた。
それぞれのオブジェクトの上には、細かなパーセンテージや【Target: E-09】といった軽い記号のフォントが張り付いている。
誠は息を整え、それらを凝視した。
視線を動かすたびに、金色の照準マークが自動的にオブジェクトの構造の中心へと吸い付いていく。
パチ、パチ。
二回、瞬きをする。
刹那、スクリーン上の立体が、ガラスが割れるような乾いたエフェクトと共に、音もなく四散した。
(軽い……)
誠は自分の脳が、驚くほどの速度で情報を処理しているのを感じていた。
次から次へと現れる記号の群れ。その全てが、彼にとっては「右から左へ受け流すだけの、簡単な事務作業」のように感じられた。かつて学校の授業で解かされた、どんな数学の証明問題よりも明快で、迷いがない。
画面の端を、無数のシステムログが滝のように流れ落ちていく。
【Target Alpha: Eliminated】
【Target Beta: Eliminated】
【Sync Index: 0.025%... 0.028%...】
頭の芯が、冷たい水に浸されたようにじわじわと痺れていく。その感覚に伴って、全能に似た快感が背髄を駆け上がった。
スクリーンに映し出される、赤く点滅する記号。
誠はそれを、ただ無邪気に、正確に、潰し続けた。
彼には見えていなかった。
暗闇の中、液晶画面の青い光に照らされたリナの横顔を。
彼女の瞳は、スクリーンではなく、誠のバイタルデータが並ぶモニターの数値を凝視していた。そこには、誠の脳の特定部位――恐怖や共感を司る領域への血流量が、システムによって強制的に抑制され、平坦な一本の線へと近づいていくグラフが表示されていた。
「テスト終了よ。明かりを戻すわ」
パチ、というスイッチの音と共に、再び均質な白い光が部屋を満たした。
金色の残像が消え、誠は小さく息を吐き出した。目の奥に、鉛を詰め込まれたような、ずっしりとした重苦しい頭痛が残る。
「お疲れ様、誠。素晴らしい数値よ。適合率は、これまでのどの個体よりも――いえ、私たちの予想を遥かに超えているわ」
リナは歩み寄り、誠の体から手際よく銀色の端子を剥がしていった。ジェルを拭き取るペーパータオルのカサカサという音が、妙に大きく鼓膜に届く。
「少し、頭が重いかな。でも、問題ないよ」
誠は額を押さえながら、無理に笑ってみせた。
「これを」
リナが差し出してきたのは、小さなアルミの包装だった。彼女がそれを指先で裂くと、中から直径一センチほどの、真っ白な円盤型の錠剤が現れた。
「システムと同期した直後は、脳のブドウ糖が著しく消費されるの。それを補うための、専用のサプリメントよ」
「ありがとう」
誠は錠剤を受け取り、そのまま口に放り込んだ。
カリ、と、奥歯で硬い粒子を噛み砕く音が室内に響く。
舌の上に広がったのは、人工的な、薬品特有のきついシトラスの味だった。甘みはほとんどなく、ただ喉の奥を渇かせるような無機質な粉っぽさが残る。誠はそれを強引に飲み込んだ。
「これをつけると、次の実戦ではもっと楽に体が動くようになるわ。境界壁の向こうにいる化け物たちを、一匹残らず排除するために」
リナはそう言って、誠の肩に柔らかな布を掛けた。
彼女の笑顔は、やはり完璧だった。民衆を守るための組織の、最も信頼できるハンドラーの顔。
「リナさん……リナ」
誠はガウンの襟元を掴みながら、彼女を見上げた。
「僕は、この力でみんなを守りたい。リナがもう二度と、あの時のように泣かなくて済むように。そのためなら、どんな検査でも、どんな訓練でも受けるよ」
真っ直ぐな、一点の濁りもない視線。
リナは液晶タブレットを握ったまま、動きを止めた。
部屋の隅で、空調の電子的な駆動音が、ただ一定のハミングを維持している。
リナの指先が、白衣のポケットの裏側で、硬く握りしめられた。彼女の脳裏には、かつて全く同じ白い部屋で、全く同じ無垢な笑顔を自分に向けていた、別の「番号」たちの顔が過っていた。
けれど、彼女の唇から漏れたのは、訓練通りの、極めて穏やかな声だった。
「ええ。信じているわ、誠」
彼女は振り返り、部屋の出口へと歩き出す。その背中は、冷徹な管理者のそれとして、誠の視界に刻まれた。
誠は彼女の背中を見送りながら、サプリメントの残滓が残る舌を、静かに動かした。
【進捗率:4.1%】
【次回:最初の駆除】




