第2話:プロヴィデンスの光
第2話:プロヴィデンスの光
【ログ:Subject 12 / Purity 100% / Sync 0.02%】
耳の奥に残っていた重苦しい地鳴りは、いつの間にか消え去っていた。
代わりに鼓膜を震わせていたのは、低く一定の周期を刻む空調の電子的な駆動音だった。
天道誠は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、不自然なほどに均質な白だった。天井も、壁も、四隅の継ぎ目さえもが同一の白で塗り潰されている。蛍光灯の微かなハミングが、静かな室内に溶け込んでいた。あの夕暮れの赤黒い怪物も、網膜を焼き尽くすようだった金色の光の粒子も、ここにはひとかけらも存在しない。
「……ここは」
上体を起こそうとすると、胸の皮膚がわずかに突っ張った。
見下ろすと、衣服は柔らかな合成繊維の白いガウンに着替えさせられており、鎖骨のあたりにはいくつかの薄い生体センサーが貼り付けられている。それらを細いコードが這い、ベッドの脇に置かれた背の高い医療用モニターへと繋がっていた。液晶の画面には、規則的な緑色の波形が滑らかに描かれている。
自分の両手を握り、開く。
手のひらに残っていた鉄筋の錆びた感触や、あの激しい頭痛の残滓は綺麗に消え去っていた。ただ、指先には奇妙な軽さだけが残っている。
不意に、電子錠が解除される短いビープ音が響いた。
壁の一部としか思えなかった白い扉が、左右へと滑らかにスライドする。
「あ――」
誠の口から、小さな声が漏れた。
入ってきたのは、一人の少女だった。
あの夕暮れ、崩れかけた防護壁の足元で、激しく肩を揺らして泣いていた少女。
しかし、今の彼女が纏っているのは、埃に汚れた学生服ではなかった。折り目の正しい、純白のジャケット。細い首元には、銀色の小さなバッジがピンで留められている。ほどけていた髪は後ろできれいにまとめられ、その隙間から覗く耳元には、小さな通信用と思われるレシーバーが装着されていた。
少女の手には、薄型の液晶タブレットが握られている。彼女の指先が画面をなぞるたび、淡い青い光がその白い頬を微かに照らした。
「目が覚めたのね、誠」
少女は歩み寄り、ベッドの脇で足を止めた。
その声は、あの路上で聞いた時と同じように、驚くほど澄んでいた。
「リナ……さん、でいいのかな。ここは一体、どこなんだろう。僕はあの後、どうなったの?」
誠はベッドの端に腰を掛け、センサーのコードが突っ張らないように注意しながら問いかけた。
「ここは巨大企業連合組織『プロヴィデンス』の中枢医療センター。統制都市の中心部に位置する施設よ。あなたは、あの境界壁での戦闘のあと、意識を失ったの。だから、私たちの回収部隊がここまで搬送したわ」
リナは液晶端末から視線を離し、誠の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳は澄濁のない深い黒色をしており、まるで鏡のように誠の姿を映し出している。
「プロヴィデンス……」
その名は、市民向けの広報放送や、街頭の巨大ネオンサインで日常的に目にするものだった。この都市の全てのインフラを支え、防護壁の外側から迫る驚異から人々を守っているとされる、巨大な組織。
「あなたが驚くのも無理はないわ。でも、安心して。あなたの身体に異常は認められない。それどころか――」
リナは一瞬だけ言葉を切り、液晶端末の画面を誠の方へと向けた。
そこには、誠の脳波のグラフィックと、いくつかの複雑な文字列が並んでいた。誠にはその意味が理解できなかったが、画面の最上部には【Subject 12】という文字が静かに明滅している。
「あなたの脳波は、私たちの開発した防衛システム『天導の眼』と、極めて高い適合率を示している。あの時、あなたが発揮した力は、偶然ではないわ。あなたがその内側に持っていた、特別な資質が引き出されたの」
「僕の、資質……」
誠は自分の手のひらを見つめ直した。
あの瞬間、視界が金色に染まり、怪物の動きが止まったかのように見えた。そして、どこを突けばあの巨体を崩壊させられるのか、明確な「光の線」が脳内に直接描かれていた。あの全能のような感覚。
「そうよ」
リナの言葉は静かだった。彼女の纏うジャケットの合成繊維が、わずかな身体の動きに合わせて衣擦れの音を立てる。
「あのシステムは、誰にでも扱えるものではないわ。選ばれた人にしか、あの金色の軌跡は見えない。誠、あなたはあの怪物の脅威から、私を、そしてこの都市の境界線を守ってくれたの」
リナの顔に、柔らかな笑みが浮かんだ。
それは、あの日流していた涙の痕跡を完全に拭い去った、非の打ち所のない、穏やかな微笑みだった。
誠の胸の奥に、じわりとした熱いものが広がっていく。
自分のしたことが、この目の前の少女を救い、誰かの役に立ったのだという確信。平凡で、ただ流されるように生きていた自分が、あの恐ろしい怪物から誰かを守ることができたという事実は、彼の背中を強く押し上げるのに十分だった。
「僕の力が、本当に役に立ったなら……よかった」
誠は、少しはにかむように笑った。
「もし、またあの化け物たちが壁を越えてやってくるなら、僕はまた戦えると思う。あの時、リナさんが泣いているのを見て、身体が勝手に動いたんだ。あんな風に、誰かが怯えて泣くのは、もう見たくないから」
無報酬の、純粋な決意。
その言葉を聞いた瞬間、リナの液晶端末を保持する指先が、ほんのわずかに白くなった。彼女の眉が微かに揺れ、瞳の奥に、説明のつかない深い影が過る。だが、それは一秒にも満たない、液晶の瞬きほどの短い時間だった。
彼女はすぐにまた、元の完璧な微笑みに戻った。
「ありがとう、誠。その言葉を聞けて、とても嬉しいわ」
リナは端末を小脇に抱え、誠に向かって丁寧に一礼した。
「私はリナ。これからは、あなたの専属観測者として、あなたの戦いを全面的にサポートすることになっているわ。体調管理から、システムの同期調整まで、全て私に任せて」
「ハンドラー……。うん、よろしく、リナさん」
「リナ、でいいわ。敬語もいらない。私たちはこれから、最も近い場所で時間を共有することになるのだから」
彼女の差し出してきた右手。
誠は、センサーのコードを引きずりながら、その手を握りしめた。
あの夕暮れのアスファルトの上で触れた時と同じ、驚くほどに冷たい指先だった。だが、誠はその冷たささえも、彼女がこれまでに背負ってきた過酷な環境の証拠のように思え、より一層、自分が彼女を支えなければならないという思いを強くした。
部屋の隅にある空調の吹き出し口から、冷たい風が静かに吹き下ろしてくる。
誠には見えなかった。
リナが小脇に抱えた液晶画面の片隅で、彼の発言と同時に、自動的に更新されていく事務的な数値。
[Purity Core Index: 100%]
[Sync Rate: 0.02% (Progressing)]
それは、新しい英雄が、システムへと確かに組み込まれたことを告げる、冷徹な刻印だった。
【進捗率:2.7%】
【次回:白衣の観測者】




