第4話:最初の駆除
第4話:最初の駆除
【ログ:Subject 12 / Purity 99% / Sync 0.05%】
細いアルミ缶の表面を、冷たい結露が滑り落ちていく。
天道誠は、支給された戦闘服の袖でそれを拭い、プルトップを引き起こした。パキリ、と硬い金属音が、静厚な出撃待機室に響く。
「炭酸、きつくない?」
隣に立つリナが、液晶タブレットから目を離さずに尋ねた。彼女の纏う白いジャケットは、一分の隙もなくプレスされている。
「ううん、ちょうどいい。頭がすっきりするよ」
誠は『Acel Charge』と印字された青い缶を傾けた。人工的なクエン酸の味が、先ほど噛み砕いたサプリメントの残滓を喉の奥へと洗い流していく。
彼が身に付けているのは、プロヴィデンスの最新鋭の合成繊維で編まれた漆黒のインナースーツだった。関節部に配された補強プレートが、身体を動かすたびにキュ、キュと小さな摩擦音を立てる。驚くほど軽く、そして皮膚の一部のように馴染んでいた。
「バイタル、完全に安定しているわ」
リナの指先が画面を滑る。液晶の淡い光が、彼女の整った睫毛を青く縁取っていた。
その直後、室内の照明が赤く反転した。
電子的なアラート音が、短い周期で鼓膜を叩き始める。
『――警告。第四境界壁、セクターCにて、外敵の侵入を確認。迎撃プロトコルを開始します――』
スピーカーから流れる合成音声は、ひどく事務的だった。
誠は缶をゴミ箱に捨て、傍らに置かれていた長剣の柄に手を伸ばした。ずっしりとした金属の質量が、手のひらを通じて実感を伴って伝わってくる。
「リナ。僕、行ってくるよ」
「ええ。無理はしないで、誠。あなたの後ろには、常に私がいるわ」
リナが顔を上げ、穏やかに微笑んだ。その瞳の奥にある、冷徹な観測データの文字列に、誠が気づくことはない。
自動ドアが左右に開き、重厚な気圧の差が、誠の背中を押し出すように吹き抜けた。
境界壁のふもとは、統制都市の清潔な白とは完全に隔絶された世界だった。
巨大なコンクリートの壁が、鉛色の空に向かってそびえ立っている。亀裂の隙間からは、防護壁の外側にある「浄土」の湿った風が吹き込み、ブーツの底に重い土の湿度が吸い付いた。
先の戦闘で破壊された装甲車の残骸が、黒い煙を上げている。焦げたゴムの匂いが鼻腔を突いた。
『――Target Area: Approaching. 天導の眼、起動します――』
脳内に直接、冷たい警告音が響いた。
瞬間、誠の視界が爆発的な金色に染まる。
不快な頭痛はなかった。前回の検査でハルキたちが調整したパッチが、彼の神経を完全に保護している。
視界の端に、ゲームのインターフェースのような複雑なグラフィックが出現した。自身の残り体力を示す緑色のゲージと、網膜のあちこちで点滅する位置座標のデジタルの記号。
そして、前方の瓦礫の影から、それは現れた。
「――グ、ア、ア――」
誠の『天導の眼』が、その姿を捉える。
頭上には、赤い文字で【Target: Ogre-Class / HP: 100%】と表示されていた。
それは、人間の倍近い体躯を持った、泥のような漆黒の皮膚に覆われた怪物だった。複数の関節が不自然にねじれ、獲物を探すように長い腕を地面に這わせている。
(あれが、街を脅かす化け物……)
誠は剣を順手に握り直し、一歩を踏み出した。
恐怖はなかった。むしろ、脳内に分泌される物質のせいで、身体が羽毛のように軽く感じられる。
怪物が、誠の存在に気づいた。
地鳴りのような咆哮を上げ、瓦礫を蹴立てて突進してくる。
だが、誠の金色に染まった視界の中では、その動きは驚くほど緩慢だった。
怪物の胸元から、首筋にかけて、鮮やかな金色の「光の線」が一本、まっすぐに走る。システムが提示した、最も効率的な殺害ルート。
「大丈夫。僕が、みんなを守るから」
誠は誰に言うでもなく呟き、地面を蹴った。
金色の戦闘軌道に沿って、剣を振り抜く。
ガキィン、と硬い手応えが腕に響いた。
怪物の肉を切り裂いたはずだった。しかし、その瞬間、誠の網膜のデータログが激しく明滅し、一瞬の「ラグ」が生じた。
(……え?)
金色のフィルターの奥で、怪物の漆黒の皮膚が、一瞬だけ別の質感に変貌する。
「ア……ガ……ッ」
怪物の口から漏れた叫び声。
誠の耳には咆哮として処理されるはずのその音が、鼓膜の震えと共に、一瞬だけ意味を持った言葉として脳裏に擦り傷をつけた。
『逃げ、ろ……子ども、を……』
心臓が、冷たい楔を打ち込まれたように跳ねた。
剣を握る両手が、僅かに震える。
『――警告。微小なノイズを検出。Tranquility-3を強制適用します――』
脳の奥で、何かがパチリと弾ける音がした。
直後、押し寄せていたはずの疑問も、指先の震えも、急速に薄れていく。真っ白な霧が脳内を埋め尽くし、ただ「目の前の記号を処理しなければならない」という、純粋な義務感だけが上書きされた。
視界のノイズは消え去り、そこには再び、単なる黒い怪物のグラフィックだけが残されていた。
「はぁ、ぁっ!」
誠は息を吐き出し、踏み込んだ。
必殺の最適解――『神速天撃』。
金色の閃光が、怪物の巨体を十字に両断した。
肉が裂け、大量の液体が飛び散る。それは誠の視界では、光るエフェクトの粒子として処理され、地面に吸い込まれて消えた。
頭上の【HP: 0%】という文字が、静かに消滅する。
剣を引き抜き、誠は荒い呼吸を整えた。
足元には、黒い泥のような塊だけが転がっている。彼には見えていなかった。その泥の塊の隙間から、引き裂かれた手作りの布切れと、小さな、不揃いな木笛が転がり落ち、重い土のなかに埋もれていくのを。
「……終わった、んだよね」
誠は剣を鞘に収め、自分の手を見つめた。手のひらには、確かな肉の抵抗の感触だけが、鈍い熱として残っていた。
「見事な初陣だったわ、誠」
背後から、パチパチと静かな拍手の音が聞こえた。
振り返ると、リナが防護エプロンを外した姿で、瓦礫の斜面を降りてくるところだった。彼女の視線は、手元のタブレットの数値を素早くスクロールし、最後のログを確定させている。
「怪物の脅威は完全に排除された。これで、都市の住民たちはまた、何事もない明日を迎えられるわ。あなたの正義が、みんなを救ったのよ」
リナは誠の目の前で立ち止まり、その細い指先で、誠の戦闘服に付着した見えない汚れを払うようにそっと触れた。
彼女の指先は、いつも通り冷たかった。だが、その冷たさが、今の誠にはひどく心地よかった。
「うん。僕、やれたよ、リナ」
誠は、少しはにかむように笑った。
目の奥の微かな痛みを隠すように、いつもの、無垢な救世主の笑顔で。
「次の任務も、僕に任せて。どんな化け物が来ても、僕が全部片付けるから」
リナは、何も言わずに微笑み返した。
彼女の白衣のポケットの中で、指先が小さな不格好な小石――あの路上で誠が手渡した、何の意味もないただの石ころに、ほんの僅かだけ触れた。
だが、彼女はすぐに手を引き抜き、液晶画面の次のページを開いた。
[Subject 12: Battle Test - Success]
[Purity Core Index: 99%]
[Sync Rate: 0.05% (Stabilized)]
統制都市のスピーカーから、遠くで夕方の定時放送の均質なBGMが流れ始める。
世界の構造に何一つ疑問を持たない英雄は、ハンドラーの差し出した白いタオルを受け取り、泥のついたブーツを鳴らして、清潔な街へと歩き出した。
【進捗率:5.5%】
【次回:統制都市のひだまり】




