二人の帝 後編
帰京後。
青龍帝は久方ぶりに第二公子浅葱の住まう宮に渡った。
浅葱の宮は、後宮の外れにある。かつて母である月子に与えた宮で、庭の風情も調度類もかつてのまま。いたるところに、彼女との思い出が詰まっている。
それが辛くて、遠ざかっていた場所でもあった。
けれど今日は、朱雀帝より打診された婿入りの話を告げる、という大事な用事がある。
その大義名分に後押しされるように、青龍帝が宮へ渡ると。
久しぶりに顔を合わせる息子の浅葱は、平伏してその訪れを待っていた。
「……息災であったか?」
宮の一室。上座に座した青龍帝はそう声を掛けた。
すると、平伏したままの浅葱は小さく「はい」と応える。
「……顔を、上げよ」
「はい…」
青龍帝の言葉に小さく返事をして、浅葱はゆっくりと顔を上げた。
さらりと揺れる、空色の髪。
母親譲りの美しい容貌、そして空色の瞳。
けれど、その瞳は…。
(…なんという…、瞳をしているのだ…)
まるで全てを諦めているかのように力無く。
やけに空虚に、感じられた。
「……そなたに、縁談が上がった」
「…さようですか…」
浅葱の表情は少しだけ、「まさか」と言いたげに動いたが、あとはずっと人形のように無表情で。
諦念に満ちた瞳は、「婿に行けというなら行く」と言っているようで。
どうせ自分にはそれ以外の道は用意されていないのだろうと。
そう、目の前の父を責めているようにも見えた。
(…この子は、ずっと…)
諦めて、流されるように生きて行くのだろうか。
青龍帝はぎゅっと、己の手を握り締める。
目の前に在る息子の姿は、自分の罪の証だ。
情熱のままに後ろ盾の無い遊女を後宮に入れ、思うまま愛した。
結果として彼女は女達に嫉妬され、疎まれ、憎まれて。
自分が庇えば庇うほど、その悪意は広がっていった。
やがて病を得て死んでしまった最愛の女の忘れ形見は、母親そっくりの美しい子で。
それが余計に、女達の憎しみを買った。
亡くした女の面影を見るのが辛くて、また自分が庇えば余計に浅葱が疎まれると言い訳して、逃げて。
浅葱を独りにしてしまった。味方は、自分しかいなかったのに。
唯一の庇護者である自分からも距離を置かれた浅葱は、悪意渦巻く後宮から己の心を守るかのように、何かを望むこともなく、ただただ流れを受け入れるだけの悲しい少年に育ってしまったのだろう。
(…私は…なんということを…)
「断る理由もありません。父上が行けと言うのなら、行きましょう」
「お前はそれでいいのか」
思わず口に出した言葉に、青龍帝ははっとする。
目の前の浅葱も、怪訝そうに首を傾げていた。
(…私は…何を言っているのだろう…)
自分から縁談を持ち出しておきながら、何を言っているのだろうと青龍帝は思う。
しかし、このままで。
このままただ流されるように朱雀帝の春宮の婿になって、浅葱は幸せになれるのだろうかと思ったのだ。
(…幸せ…?)
この時になって、初めて。
青龍帝は、「ああ自分は…」と。
目の前の息子には、幸せになって欲しいと思っているのだと、そんな。
そんな当たり前の親心が、自分にも残っていたことに気付く。
それは長い間目を背けられてきた浅葱にしてみれば、随分と虫の良い話、なのだろうけれど。
「? 何を仰います。私に、選択肢などないのでしょう? 今までずっと、そう生きてきました。そして、これからも…」
浅葱はふっと、自嘲するような微笑みを浮かべる。
青龍帝はそれが悲しくて、顔を歪ませて「違う…」と言った。
(…この子から選択肢を奪い続けてきたのは、私だ…)
けれど。
今更、と思われても、それでも。
せめて選択の機会を与えなければと、青龍帝は思った。
自分の未来を、自分で選ぶ機会を。
(お前が嫌なら行かなくて良い。そう言ったところで、この子は頷かないだろう)
婿入りしたいかしたくないか。
そう問われても浅葱は困惑するだけだろう。
ならばと、青龍帝は懐からいつも懐紙に包んで大切に持ち歩いているある物を取り出し、浅葱に手渡した。
「これはそなたの母の形見だ。昔、私が贈った」
浅葱がゆっくりと、懐紙を開く。
中に包まれているのは、青い蜻蛉玉の耳飾り。
「片方しか無いだろう? もう片方は、火の都からこちらに参る折りに紛失してしまったらしい」
それは嘘だった。
火の都を離れる際、自分の許しを受けて彼女が可愛がっていた禿の娘に与えたのだ。
あの娘は月子を実の姉のように慕っていたから、今もきっと大切に持っていてくれているだろう。
「その片方を、火の都で探して来い。もし見つけることができたら、その時は」
青龍帝は、目の前の息子を見据える。
今度は目を逸らさずに、真っすぐに。
「お前の望むように、好きに、生きていい…」
そう言って、青龍帝は浅葱を火の都に送り出した。
手掛かりとなる、かつて月子がいた遊郭の名を教えて。
このまま浅葱が逃げてしまっても構わないと、青龍帝は思っていた。
それで息子が自由になれるのなら、と。
もし見つからずに帰って来ることになったとしてもかまわない。
この国から出たことの無い浅葱に、他の国を、もっと広い世界を知ってもらいたかった。
四都一華やかな、火の都。自分と月子が出逢った、思い出の場所を見て、知ってもらいたい。その経験は、きっと浅葱の役に立つはずだと信じて。
そうしてもし、耳飾りを見つけて戻って来ることが来たなら。
その時にはなんとしても、息子の望みを叶えてやろうと思う。それが、
自分が父親としてできる、精一杯のことだと信じて。
この時、青龍帝は想像もしなかっただろう。
まさかこの最愛の息子が、火の都で縁談の相手である朱雀帝の春宮と出会い。
騒動に巻き込まれ、その果てに件の耳飾りを探し出して。
「青龍帝の第二公子として、紅蓮公主との縁談を受けたい」
と申し出てくることなど。
火の都から帰った息子は、まるで憑き物がとれたかのように晴れ晴れとしていて。
一回りも二回りも、成長したように見えた。
「…火の都で、母上の事を知りました。俺の知る母上はいつも悲しそうで、父上の前では幸せそうに微笑んでいたけれど、とても不幸な人だったとずっと思っていた。けれど…」
帰京した夜。
二人きりで向かい合う父と息子。
浅葱は、自分の心の内を初めて青龍帝に明かした。
「母上は、自分の意志で父上と添い遂げた。苦しかったかもしれない。辛かったかもしれない。それでも、自分で選びとった道だから、母上は父上の前で、あんな風に笑っていられたんだと思います。そして、私もそうありたい…」
そうして浅葱は、朱雀帝の春宮との縁談を「受け入れる」と言った。
以前のように、流されるまま受け入れるのではない。
自分の意志で選びとったのだと、その眼差しが語っている。
青龍帝はただ「わかった」と言った。
その胸に、言葉にできない万感の思いを抱えて。
「…望むように、好きに生きていいと父上は仰いましたね。あの時は、正直「何を今更」と思いました。けれど、今は感謝しています。私に機会を与えてくださって。私に、選択する自由を、与えてくださって…」
ありがとうございます、父上と。
浅葱は微笑み、そして旅立っていった。
自ら選びとった、未来へ。