Case 9A-1 廻る、寧日の環
「私、もう——『普通』に生きたいんです」
『お客様』の声がカウンターへと零れ落ちる。
「……私は『普通』に、なれませんか?」
発せられたその問いかけに、私は答えを出す事が出来たのだろうか。
私はその声を、掬い上げる事が出来たのだろうか。
答えはまだ、分からない。
午後七時。
金曜の夜ということもあり、『泡沫』には普段より多くのお客様が来店している。
「心晴。これ、テーブル席三名様の分」
「オッケー。次これとこれ、お願いね」
「了解」
今日は芽吹にオープンから入ってもらうつもりだったけれど、大学の課題の締切が近いらしくいつも通り出勤は八時から。
仕方なく航にフードとドリンクの固定砲台となってもらい、満席気味のホールを私が捌いているというわけだ。
「お待たせいたしました。お飲み物、間違いないですか?」
「大丈夫!ありがと、お姉さん!」
「いつでもお呼びくださいね」
本通裏という立地もあって、この時間帯のお客様は数人組の若い方が多め。
その為酒のペースも少し早く、席数以上に忙しい印象を受ける。
——だが、今日はまだ運が良かった。
「航くん!ゆっくりでいいけえね!」
「ありがとうございます。早めにお持ちしますので、もう少々お待ちください」
「心晴ちゃん!芽吹ちゃんはいつ頃来れそう?」
「今日は八時からです。『燻製』ですよね?」
「そうそう!待っとくけえ、よろしくね!」
テーブル席を常連の井出さん家族と、佐々木さんが埋めてくれているからだ。
常連だから待たせていいというわけではないが、それでも知らない人がいるよりはだいぶ心に余裕がある。
残ったテーブル席は、四人組席があと一つ。
——出来れば、少人数でゆっくり飲んでくれるような人が来てくれれば完璧なんだけどな……
そんな事を考えていると、カランとドアベルが鳴った。
「お姉さん!注文いい?」
「申し訳ありません、すぐ参りますので少々お待ちください」
そう言いながら航に目配せをすると、私の目線に気付いた航が手をひらひらと振って私が運ぶように準備していた飲み物をトレーに並べてテーブル席へと向かっていった。
その様子を見て、私は入り口の方へと向かう。
「いらっしゃいませ、一名様ですか?」
「あっ、はい……一人、です……」
スーツ姿で立つ女性。
慣れない様子で店内を見回している。
——ラッキー
こんな事思うのは悪いとは思うけれど。
私は目の前に立つお客様を見て、これ以上忙しくならずに済む事を半ば確信してテーブル席の方に手を向けた。
「奥のテーブル席でも、よろしいですか?」
「えっ、はい……いいんですか?」
『こんなに人が多いのにテーブル席?』
そう言いたげな表情を浮かべる女性に、私は念押しで一言添える。
「大丈夫ですよ。混み合っておりますので、私がお伺いするまで『ゆっくり』ご飲食しながら『お待ち』いただけますか?」
「えっ——あ、はい……」
私の言葉に女性は少し目を大きくした。
——多分、間違いないわね
そんな確信を持った私は、『お客様』を席へと案内した。
それから、約一時間。
「ごめんね、二人とも!」
「気にすんな」
「あら?死にそうな顔でウロチョロしてたのにデカい事言うわね?」
「……やめーや。芽吹、早速だけどこれ向こうの席に頼む」
「りょーかい!」
芽吹が出勤した事によって、未だ活気の絶えない『泡沫』にも余裕が出始めた。
私は注文や提供が切れたタイミングを見て、三杯目のカシスオレンジを申し訳なさそうに飲んでいる『お客様』の元へと近付いた。
「すいません、お待たせしてしまって」
「えっと、まだ飲み物は、大丈夫です……すいません」
「いえ、そちらではなく——『ご相談』の方です」
「えっ……?」
『お客様』は入店時と同じように目を大きくして、私を見る。
「よろしければ、カウンターの方でお伺いします。お飲み物はこちらで運びますので、荷物だけよろしくお願いします」
そう言って私は、『お客様』と一緒にカウンターの方へ向かった。
「……何で、分かったんですか?」
私が新しいおしぼりを手渡した時、『お客様』がボソッと尋ねてきた。
「私、何も言ってないのに……お酒だって、ちゃんと飲んでいましたし……」
正直、ここまで露骨だと分からないという方が無理がある。
席に誘導する際『飲んで待ってて』と言って、明らかに反応していたし。
そうじゃなくても、仕事終わりにバーで飲むタイプには見えない。
「——お姉ちゃん。あの人、『お客さん』?」
三人の中で一番鈍感な芽吹ですら、仕事が始まってすぐ『お客様』に気付いたくらいだ。
でも、まあ。
「——ここは、そういう場所なので」
「そういう場所、ですか……」
安易に理由をつけて『お客様』が不快に思うのも良くないので、ウインクして誤魔化すことにした。
「——それより、今日はご相談でよろしいですか?」
「えっと、はい……って言っても、全然大した事じゃないんですが」
「どんな事でも構いませんよ。ごゆっくりお話しください」
「いやでも……まだ、忙しそうですし……」
そう言って辺りを見回す『お客様』。
「——心配ですか?」
「えっ?」
「航ー」
私に呼ばれた航は、注文が入ったドリンクを作りながら私たちの方を向いた。
「何じゃ」
「私がここに付いて二人になるとパンクしちゃいそうって、『お客様』が」
「ちっ、違います!そういう意味じゃ——」
「こんなヤツ、いない方がスムーズに店が回るので助かります——芽吹も大丈夫だよな?」
「うん、大丈夫!『お客さん』も遠慮なく、お姉ちゃんに何でも話してください!」
二人はそれだけ言ってサッと仕事に戻る。
「二人とも、役に立つので問題ないんです」
「あはは……そうみたいですね」
私たちの様子を見て後顧の憂いが無くなったのだろう。
「——じゃあ、お願いします」
『お客様』は安心した様子を浮かべて、相談を始めた。




