Case 9A-2 蟒蛇の憂鬱
「えっと、お姉さん?店員さん?は——」
「志築 心晴です。心晴とお呼びください」
「はい……えっと、じゃあ……」
『お客様』は氷の溶けたカシスオレンジを一口飲み、意を決したように口を開いた。
「心晴さんは……『普通』って、何だと思いますか?」
『『普通』に生きるって、どんな感じですか?』
『お客様』の呟きが、私の頭の中の言葉と重なる。
微かに抱いた『既視感』の答えを探るべく私は口を開いた。
「差し支えなければ……お名前、お伺いしてもよろしいですか?」
「あっ、はい……鷺沢 寧です」
——そっか、そういう事か……
「では、鷺沢様とお呼びしますね」
「……?はい、大丈夫です……?」
不思議そうに首を傾げる鷺沢様。
「『普通』とは何か、ですよね?私の意見になりますがよろしいですか?」
「え?あ、はい……お願いします」
私が浮かべた表情が原因だろう。
もしかしたら、笑ったように見られたかもしれない。
もちろん、名前に笑ったなんて事は絶対に無い。
むしろ、逆。
「正直、分かりません。自分の事を『普通』の人間かどうか考えた事がないので」
「そう、ですよね……」
「ですが——」
一度聞いたら忘れないような、透き通るような綺麗な名前。
「裏を返せば、『特に意識しない日常』が『普通』なのではないかと——私は思います」
私はこの人を——鷺沢 寧様を求めていた。
だから思わず、笑みが溢れてしまったのかもしれない。
「裏を返せば、ですか……」
私の言葉に鷺沢様の表情が少し曇る。
俯いて何かを考えた後、おもむろに顔を上げた。
「……あの」
「はい、何でしょうか?」
「ここって『願い』を聞いてくれるバー……なんですよね?だったら私……『普通』になりたいです」
このような願いをするお客様は、たまにいる。
自分を誰かより下に見て、自分より上の誰かになりたくて。
自分は普通じゃない、このままじゃダメなんだ。
だから僕は、私は、普通の人生をやり直したい。
お客様はそう言ってくる。
でも私たちは、その願いを叶えた事は——今のところ一度もない。
「鷺沢様は特段、問題があるようには見えませんが……」
「……分かってます、問題は無いと思います。私は——いたって『普通』の人間です」
大抵の場合、その人たちは『憧れ』や『妬み』を普通の内に含ませている。
『あいつは俺より仕事が出来て羨ましい』
『あの子が何もしなくてもモテるのはおかしい』
そこから生まれる願いを『くるり』で叶えてしまったら、『お客様』は必ず道中で潰れてしまう。
出来る限りの努力を怠り安易に願いを叶えようとするその行為に、私たちは責任を持つ事は出来ない。
だから、私たちは願いを叶えないように努めている。
「……すいません、少し言葉を間違えました」
でも何の因果か。
目の前の女性がこれまで、どれだけ『普通』という言葉を考えて生きてきたか——私は恐らく『知っている』。
「私は、私が『普通』であると——自覚したいんです」
願いを受け止める必要がある。
鷺沢様の為にも。
彼女の『普通』を、見つける為にも。
「……私には三つ離れた姉がいます。子どもの頃から勉強も運動も得意で、常に何かの成績を表彰をされているような人です」
新しいお酒を用意してコースターのグラスと交換すると、ありがとうございます、と俯き加減でお酒に口を付けた。
「私は何もかも人並みくらいだから、流石だなあ、すごいなあっていつも思っていました」
グラスを置いた鷺沢様は、俯いたまま言葉を続ける。
店内を照らす照明によって陰を落としたその表情は、まるで懺悔をする姿にも見えた。
「姉はそれから大学を出て就職して、在学中に交際していた方と結婚しました。今は子どもを育てながら専業主婦をしています」
いや、違う。
彼女が行っているのは現に懺悔なのかもしれない。
「それに比べて私は——特に目指す目標もなく大学に行って、何となく内定を受けた会社で働いていて。仕事の出来も可もなく不可もなくといった感じです」
『普通』であると気付きながら、尚『普通』と自称出来ない自身を責めているように、私には見えた。
気付いてはいないのだろう。
「……私って何なんだろうなって、いつも思ってしまうんです」
気付いていないからこそ。
鷺沢様は知らないうちに苦しみの中を歩く事になったのだと、そう感じた。
「……二、三程、失礼な事をお伺いします」
「大丈夫です。何でも聞いてください」
「ありがとうございます。では、鷺沢様のご両親は……鷺沢様から見てどんな方ですか?」
答えづらい質問だろうと思っていた私に、鷺沢様は逡巡せず言葉を返す。
「『理想』です。子どもの頃から今まで、多分これからも——二人は私の『理想』です」
「『理想』……ですか」
「はい。父は医者なので、昔は家にいる事も多くなかったですが……家族の為にしっかりと働いてくれました。母は父との結婚を機に仕事を辞め、専業主婦になる事を決めたそうです」
迷いなく答えたのはきっと、人生の全てを共に過ごし染みついた価値観によるものなのだろうか。
男は仕事、女は家事。
時代にそぐわないような言葉だと思うけれど、とやかく言うつもりはない。
「男が外で働いているなら、女が家を支える。両親はその言葉に最も忠実な人達だと、そう思って尊敬しています」
何故なら、鷺沢様は両親を『普通』ではなく『理想』と答えた。
それが自分にとっての『普通』にはなり得ないと、そう感じているのだろう。
なら、ここでそれを正しても仕方ない。
「ありがとうございます。では次に……鷺沢様はこれまでご両親とどのように接して来られたか、お伺いしてもよろしいですか?」
「親は、ちゃんと私を見てくれました。『凛が得意だからって、寧もそうある必要はないのよ』とか『寧の笑う顔、とっても好き』とか。こんな出来の悪い私でも、ちゃんと向き合って育ててくれたと思っています」
少し悲しそうな表情をして言葉を続ける。
「『比べたらかわいそう』——その『裏返し』かもしれませんけどね」
「鷺沢様……」
「いいんです、比べられてもどうしようもないですから……とにかく、母が私に何かを求めてきた事はありません。昔も、今も」
鷺沢様は手に持ったカシスオレンジの最後の一口を飲み切った。
「まあでも……特に期待されずに生きてきた私は、むしろ幸せなんだと思ってます。私は姉のように『完璧』に生きる事は出来ないですし、両親のような『理想』の家庭を築く姿も……今は想像がつかないので」
「それで……自分の『普通』を自覚したい、という願いですか」
「はい。『完璧』でも『理想』でもないとは思いつつも……どうしても自分が『普通』だと思えなくて」
私は話を聞きながら空になったグラスをコースターごと引き上げる。
それに反応した鷺沢様が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すいません、同じものいただけますか?」
「大丈夫ですが……無理に飲まなくてもいいんですよ?」
これでもう四杯。
カシスオレンジとはいえ、そこそこ酔っていてもおかしくない。
「私、詳しくはないけどお酒の味は好きなんです。酔わないので陽気にはなれないんですが……」
だが、鷺沢様はケロッとした顔で答える。
「酔わない、ですか……?」
「はい。といっても、そこまで飲まないようにはしてるんですが……あっ」
何かを見つけたような声を出し、壁の棚を指さす。
その指の先には、琥珀色の液体が入った洋梨のような見た目の瓶。
最近常連のお客様の希望で入れたコニャック——『ヘネシーXO』が置かれていた。
「それ、すごく美味しいですよね。家に半分程残っていた瓶を空にしてしまった時に『外ではそんな飲み方するな』って父に注意されました」
「瓶……半分……?」
「はい。それからは父の言いつけ通り、外ではあまり飲まないようにしてるんです。でも……カシスオレンジならほぼジュースだし、何杯飲んでも大丈夫かなって」
恥ずかしそうに頬を掻く鷺沢様を見て、思わず私は吹き出してしまう。
「えっ、何かおかしかったですか……?」
「……申し訳ありません、つい。おかしい事はありませんし、それは鷺沢様の素敵な『普通』の一つかと思います」
「そう……ですかね?」
「ええ、そうですよ」
話を聞いて、私は一つ案を思いついた。
上手くいけば彼女が——鷺沢様が、『普通』を取り戻すきっかけになってくれるはず。
「願い、承りました。少々お待ちください」
「えっ?はい……分かりました」
鷺沢様に少し頭を下げ、私はお店を回しながら待機していた二人に声をかけた。
「芽吹、ちょっといい?」
「うん、大体聞いてたよ。お姉ちゃんが大丈夫なら私はいいけど……」
「それなんだけど、提案があるの」
「提案?」
「航も少し頼めるかしら?」
「……俺か?何か出来る事でもあるんか?」
「ええ、航にしか出来ない事よ——」
鷺沢様に聞こえないように、二人にそっと耳打ちをする。
「お姉ちゃん……」
「心晴、お前……」
驚いた様子で私を見る二人。
私の作戦が良かったからだろう。
「そういうわけで芽吹はこのまま様子見。航は私と——」
「お姉ちゃん……何言ってんの?」
「え?」
「冗談言っとる場合じゃないじゃろ……」
「……え?」
違った。
変な事言ったと思われてた。
「えーっと……違うの。もう一回ちゃんと言うから、落ち着いて聞いて?」
「落ち着いてないのはお前じゃろ」
「右に同意ー」
——今回はそんなつもりじゃなかったんだけどな……
仕方なく私はもう一度、二人に作戦を伝え直した。




