Case 9A-2 蟒蛇の憂鬱
「……私には三つ歳が離れた姉がいます。子どもの頃から勉強も運動も得意で、常に何かで一番になっているような……そんなすごい人です」
新しいお酒を用意してコースターのグラスと交換すると、鷺沢様はぺこりとお辞儀をし、そのまま俯き加減でお酒に口を付ける。
「私は何もかも人並みくらいだから……流石だなあ、すごいなあっていつも思っていました」
俯いたままグラスを置いた鷺沢様。
店内を照らす照明によって表情に陰を落とされ、まるで懺悔をしているように見える。
「姉はそれから大学を出て就職しましたが、すぐに在学中に交際していた方と結婚しました。今は子どもを育てながら専業主婦をしています」
だが、あながち間違いでもない。
鷺沢様は知らずのうちに自分を『懺悔しなければならない存在』として扱っているのだろう。
「それに比べて私は——特に目指す目標もなく大学に行って、何となく内定を受けた会社で働いていて……仕事の出来も可もなく不可もなく、といった感じで」
『普通』であると気付きながら、尚『普通』と自称出来ない自身を責めるように語っているように見えた。
「……私って何なんだろうなって、いつも思ってしまうんです」
それを気付いていないからこそ。
鷺沢様は自身が苦しみの中を歩いている事すら分からないのだろうと、そう感じた。
「……二、三程、失礼な事をお伺いします」
「大丈夫です。何でも聞いてください」
「ありがとうございます。では……鷺沢様にとって、ご両親とはどんな方ですか?」
「『理想』です。子どもの頃から今まで、多分これからも——二人は私の『理想』です」
答えづらい質問だろうと思っていた私に、鷺沢様は逡巡もせず言葉を返す。
「『理想』……ですか?」
「はい。父は医者なので、昔は家にいる事も多くなかったですが……家族の為にしっかりと働いてくれました。母は父との結婚を機に仕事を辞め、専業主婦になる事を決めたそうです」
迷いなく答えたのは、人生の全てを共に過ごし染みついた価値観によるものなのだろうか。
およそ今の時代にそぐわないような姿にも思うけれど、とやかく言うつもりはない。
「男が外で働いているなら、女が家を支える。両親はその言葉に最も忠実な人達だと、そう思って尊敬しています」
鷺沢様は両親を『普通』ではなく『理想』と答えたから。
日々『普通』について考えている鷺沢様の事だから、きっと敢えてそう言ったのだろう。
あくまで『理想』であって、それが自分にとっての『普通』にはなり得ない、と。
「ありがとうございます。では次に……ご両親は鷺沢様にこれまでどのように接して来られたか、お伺いしてもよろしいですか?」
私の問いに今度は少し考え、そして口を開く。
「……母はちゃんと私を見て育ててくれていました。『お姉ちゃんが出来るからって、寧もそうしなきゃいけない事はないのよ』とか、『寧の笑う顔がとっても好き』とか……こんな出来の悪い私でも、ちゃんと向き合って育ててくれたと思っています」
少し悲しそうな表情を浮かべた鷺沢様は、続けてポツリと呟いた。
「『比べたらかわいそう』——その裏返しかもしれませんけどね」
「鷺沢様……」
「いいんです、比べられても困りますから……とにかく、母が私に何かを求めてきた事はありません。昔も……今も」
手に持ったカシスオレンジの最後の一口を飲み切る鷺沢様。
「まあでも……特に期待されずに生きてきた私は、むしろ幸せなんだと思ってます」
その顔は『普通』を探しているというより、どこか『諦念』を感じているようにも思えた。
「それは、何故ですか?」
「私は姉のように『完璧』に生きる事は出来ないですし、両親のような『理想』の家庭を築く姿も……今は想像がつかないので」
「それで……鷺沢様は自分の『普通』を自覚したい、という願いを持ったというわけですね」
「はい。『完璧』でも『理想』でもないとは思いつつも……どうしても自分が『普通』だと思えなくて」
「なるほど……分かりました、ありがとうございます」
私は話の区切りを感じ、空になったグラスをコースターごと引き上げる。
「願いの方、少し検討させていただきます。お待ちの間、良ければお水かお茶でも飲みますか?」
「あっ、えっと……」
鷺沢様は顔を上げ私の後ろのバックバーを一通り見た後、一つのお酒を指差した。
「あれ、ミスティアですよね? 炭酸で割っていただけますか?」
「もちろん良いですが……大丈夫ですか?」
店内に招き入れた時から、鷺沢様の事はそれとなく見ている。
甘い系のお酒を試すように色々と頼んでいる様子から、あまりお酒に慣れていないんだと思った。
次にお酒を渡せば、これで八杯目。
普通の人でもかなり酔っていておかしくない量だ。
「え、何が……ですか?」
だが、鷺沢様は私の意に介さずキョトンとした顔で返事をした。
「結構飲んでいるので、酔われてないかと思ったのですが……」
「ああ、それなら大丈夫です。父に注意されて、控えめに飲むようにしているので……」
そう言うと鷺沢様は壁の棚を指さす。
「お恥ずかしい話ですが……」
その指の先には、琥珀色の液体が入った洋梨のような見た目の瓶。
最近常連のお客様の希望で入れたコニャック——『ヘネシーXO』が置かれていた。
「家にあった、あれと同じものを全部飲んじゃって……その時父に注意されたので、外で飲む時は控えてるんです」
「え……全部、ですか……?」
「はい……知らなかったとはいえ、勿体なかったなって」
「いや、問題はそこでは……」
恥ずかしそうに頬を掻く鷺沢様。
私はその姿を見て思わず吹き出す。
「えっ、何かおかしかったですか……?」
「申し訳ありません。鷺沢様の素敵な『普通』を見つけてしまったので、つい」
「『普通』……ですか?」
「ええ、一歩近づきましたね」
話を聞いて、私は一つ案を思いついた。
上手くいけば彼女が——鷺沢様が、『普通』を取り戻すきっかけになってくれるはず。
「——願い、承りました。このまま少々お待ちください」
「えっ?はい……分かりました」
鷺沢様に少し頭を下げ、私はお店を回しながら待機していた二人に声をかけた。
「芽吹、ちょっといい?」
「いいけど……大丈夫? 話は聞こえてたけど、あれって——」
「大丈夫、ちょっと提案があるの」
「提案?」
「ええ、今回は航に頑張ってもらおうかなって」
「……俺か?」
「ええ、航にしか出来ない事だから——」
私の手招きを見て耳を近付けてきた二人に、私は考えついた策をそっと耳打ちをした。
「——って、感じでお願い出来る?」
私の策を聞いて、二人は驚いた顔を見せている。
「お姉ちゃん……」
「心晴、お前……」
我ながらなかなか良い案だと思う。
これなら、今度こそ上手く出来るはず。
「そういうわけで、芽吹はこのまま様子見。航は私と——」
「お姉ちゃん……何言ってんの?」
「え?」
「心晴、冗談言っとる場合じゃないじゃろ……」
「……え?」
おかしい。
流れ的に分かってくれたと思ったのに。
冷ややかな目で私を見て、何故かため息をつく二人。
「ちょ、ちょっと待って。もう一回ちゃんと言うから……落ち着いて聞いて、ね?」
「落ち着いてないのはお前じゃろ」
「右に同意ー」
「きっと良い案だから!——ちゃんと聞いてくれたら、分かるからぁ!」
営業中なのに思わずオフの声を出してしまい、私は慌てて口を塞ぐ。
店内を見ると、ニヤニヤとしながら見る佐々木さんと目が合った。
サイアク。
「——お待たせいたしました」
それからすぐ。
私と航は道具を抱えて、鷺沢様の待つカウンターへと戻った。
「それは?」
「願いを承った『お客様』に、当店からサービスをさせてもらっているんです」
私がカウンターにボトルを置くと、鷺沢様の目が少し輝く。
「ご存知ですか?」
「あっ……はい。ちょっと前に調べて、飲みたいなって思っていたんです」
「それは丁度良かったです。今回のサービスはこちらを使いますので」
私は鷺沢様にその意匠が見えやすいよう、ボトルを両手で支え傾けた。
翡翠の全体を彩る、蜜蝋のような紋章の赤が印象的なボトル。
——タンカレー・ロンドン・ドライジン。
「二杯ほど——騙されたと思って飲んでみてください」
これが正解かは、分からない。
だけど。
あの時みたいな『放棄』は、もうしない。
私はこれで——この方法で、鷺沢様と『普通』を叶えることを決めた。
願わくば彼女の『普通』も見つけられる事を、祈って。




