Case 5-5 『芽吹』
「……なんだよ、お前」
「竹下様、お迎えに上がりました」
——あれ、この声……
口をついて出そうになった名前を止めるように、私の前に立つお姉ちゃんがしーっ、と口元に指を置いた。
「迎えって、俺は何も聞いて——」
「——エースフォード株式会社営業二課、高尾 浩三様の部下の竹下 遥輝様ですね?」
男の人——まあ、正体は航くんなんだけど。
航くんはそう言って、お客さんに一礼した。
「なっ、何で知ってるんだよ……!」
急に会社名や役職を告げられたお客さんは驚いている。
「竹下様が少々物騒な願いをされた為——『ママ』が竹下様をお連れしろと」
「『ママ』って……何のことだよ!」
「おや、高尾様から聞いた事はありませんか?高尾様は『ママ』のお得意様ですが」
突然告げられた『ママ』という謎の人物。
その人物と課長が懇意にしているという、怖い顔の黒服の男。
段々とお客さんは狼狽え始めた。
「おっ俺は、別に何も……」
「ええ、竹下様は今の所何も叶えておりません」
「だったら——」
「ですが、その対価として当店の従業員をご所望されましたね?」
「……そ、それは……」
「高尾様の件、そして対価の件——『ママ』が直接、竹下様にお伺いしたいと言っております」
冷や汗の止まらないお客さんに航くんは更に怖い顔をして、トドメの言葉を放った。
「さあ、参りましょうか。『ママ』と一緒に——高尾様もお待ちですので」
「……ひっ——うわああ!!!」
その言葉で弾かれるように、お客さんは航くんの横を通り抜けて外に飛び出していった。
「お待ちください、竹下サマー!」
追い打ちと言わんばかりに、逃げた方に向かって航くんが大声を上げる。
——待てと言っている航くんは、その場から一歩も動いていないけど。
「……これでええか、心晴」
「うん、バッチリ。ありがとうね、航」
航くんがバーの中に入りカラン、と音を鳴らす。
終了の合図のようになった鐘の音と共に、『泡沫』に再び静かな時間が戻ってきた。
ホッと胸を撫で下ろしたお姉ちゃんは、そのままホールの方に向かう。
「……どうも、お騒がせしました」
そして、お客さんたちの真ん中あたりに立って深くお辞儀をした。
「何も言わずにお待ちいただき、ありがとうございます。お礼として、当店から一杯サービスさせていただきます」
その言葉でこれまで沈黙を貫いていたお客さんがワッと湧いた。
「黙ってろって言われた時はどうすんのかと思ったけど、やるじゃねえか!」
「ありがとうございます、本当に助かりました」
「あの黒服とか『ママ』とかって……本当の話?」
「まさか、黒服はうちの従業員ですよ。『ママ』は本当ですが、ただのオーナーですよ」
お姉ちゃんがお客さんの質問に答えながら注文を取っている時、航くんが私の隣に来た。
「……なんか、大変だったらしいな」
「その服は?うちの制服じゃないけど……」
「ああ、これな……前に『ママ』の店を手伝った時のやつ。せんないけえ返さんかったけど、まさか出番があるとは思わんかったわ」
「じゃあ、さっきの話は?まるで全部聞いてるみたいに話してたけど」
「ああ、それは——」
「芽吹ー」
航くんが話し始めた所で、カウンターに戻ったお姉ちゃんがチョイチョイと手招きをして私を呼んだ。
「注文だよね、どこに運んだらいい?」
「それは大丈夫よ。それより、せっかくだから買い出しお願いしていい?」
「いいけど、せっかくって——あぁ……そういう事ね」
お姉ちゃんの視線の先には、航くん。
どうせならしっかりこき使ってやろうという魂胆なんだろう。
「何買ってくればいい?」
私がそう言うとお姉ちゃんはスマホを取り出して、リストを読み上げ始めた。
「炭酸水とお菓子。文房具を何種類か。あとティッシュとトイレの洗剤とトイレットペーパー。それから……」
「ちょ、ちょっと待って!」
「うそうそ。リスト送っておくから、それを見て買ってきて」
「最初っからそうしてよ!もう!」
私がそう言うとお姉ちゃんはふふっ、と笑ってスマホを操作する。
少しした頃に私のスマホがブルッと震えた。
「おー……結構あるねえ」
「買ってきたら今日は上がっていいから、着替えて行ってらっしゃい」
「はーい!」
休憩室に着替えに行く私の耳に、お姉ちゃんと航くんの会話が少しだけ聞こえた。
「……俺も着替えていいか?」
「ダメよ」
「何でだよ。目立つから嫌なんじゃけど」
「そんなの決まってるでしょ。あの男が近くにいないとも限らないんだから」
それ以降の会話は聞こえなかった。
私は急いで着替えを終えて、航くんと一緒に買い出しに向かった。
「——えっ、お姉ちゃんから連絡来てたの?」
「ああ」
買い出しの途中。
航くんはスマホの画面を見せてきた。
「『この社章の会社を探せ』って。突然言われたけえ何かと思ったわ」
画面にはスーツの襟に付けられた社章が映っている。
送られた時間は十時半前。
おそらく最初にスーツを預かった時に撮影して航くんに送ったのだろう。
「特定したらしたで今度は『今から言う名前を暗記して黒服を着て待機しとけ』って。まあ心晴がそう言うのはなんかある時だけじゃけ、特に疑問もなかったけどな」
「そうだったんだ……」
私が何も出来ずうろたえているだけだった時。
お姉ちゃんはその先を予想して色々手を打っていたんだ。
「ま、心晴はああいうの慣れとるけえな」
航くんは何でもないように言うけど。
私にはまだ上手く出来ないから、やっぱりお姉ちゃんはすごいなって思う。
「それより、何買ってくるように言われたんだ?」
「えっとね——あっ」
こういう所とか、特に。
きっとすごく先の事まで考えながらあの場にいたんだなって、リストの最後を見て改めて思った。
『二人で好きな物、ゆっくり選んで来なさい。奢ったげるから』
「……直接言えってな」
「まあ、それもお姉ちゃんっぽいよね」
私たちはその言葉を見て、二人でプッと吹き出して笑う。
そして、航くんは一歩前に出て私の方に振り返った。
「じゃあ行こうか——『芽吹』」
——あっ……
今日散々聞いた私の名前。
聞くたびにゾワっとした嫌悪感を抱いていた、私の名前。
同じ呼ばれるのでも、こんなに違うんだ。
「うん、たくさん買おーね!」
「せっかくなら高いやつ買おうぜ、心晴の金だし」
「賛成ー!」
ちょっと嫌な事が多かったけど。
それ以上に、この二人と一緒に働けて良かった——そう思える一日になった事が嬉しい。
航くんの隣、そんな事を考えながら私は夜の街を進んでいった。




