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Case 5 消してちょんまげ



「いらっしゃいましたよ、っと」

 

 

 午後十時過ぎ。

 カラン、というドアベルの音と共に、一人の男の人が『泡沫』に来店した。

 

 

「いらっしゃいませ!」


 会社帰りだろう。

 高そうなスーツに、緩めたネクタイをつけている。

 ネクタイピンに照明が当たって、キラッと光った。

 

 お客さんは私とテーブル席のお客さんの対応をするお姉ちゃんをチラッと見た後、


「よっこらせ、っと」


 空いていた私の前のカウンター席にドカッと座った。

 


「お荷物お預かりしま——」

「あー、いいよ。こっちに置くから」


 そう言って空いている隣の席にカバンをポイっと投げたお客さん。

 

 香水の匂いと、ツンとしたお酒のにおいがする。

 多分ここに来る前に、どこかで飲んで来たのだろう。

 

「スーツ、かけるとこないの?」

 


 酔っ払ってここにくるお客さんは、珍しくはない。

 今、奥のテーブル席に座っている二人組のお客さんも、ここが三軒目だとお姉ちゃんと話していた。


「お客様、私がお預かりします」

「おっ、あんがとさん」


 お客さんの隣にスッと現れたお姉ちゃんが、スーツを丁寧に受け取って上着掛けのあるレジ裏へと向かった。

 


「出来る女って感じだな、あの店員さん」

「はい、とっても頼りになるんです!」


「……ふーん」

 

 私の返事に少し声を鳴らした後、お客さんは私へと視線を向け直した。


「俺はお姉さんの元気いっぱい!って感じの方が好きかなー」

「あはは、ありがとうございます……」



 お姉ちゃんならうまく返すんだろうけど。

 褒められるのってなんかむず痒くて、私はまだ言葉を濁してしまう。


「えっと、とりあえず……何か飲まれますか?」

 

 話題を変えようと、私はお客さんにメニュー表とおしぼりを渡す。


「お姉さんのオススメとかあんの?」

「そうですね……私なら——」


 おしぼりをお客さんの前に置いてメニュー表を開こうとして——



「——どれ?お姉さんのオススメ」

「っ!ちょ……!」



 ——メニュー表に目を向けたままのお客さんに、おしぼりを持つ手を掴まれた。


 お客さんは気付いていないのか、おしぼりごと握った私の手をグイッと自分の方に引き寄せる。


「お客様……!」

「ん、何?」

「手が……」


 私の声でようやく手を握っている事に気付いたお客さんは、パッとその手を離して笑った。


「あー、ごめんごめん。痛くなかった?」

 

「大丈夫です……結構、酔われてますか?」

「んー、あんまり?俺酒強いから」


 お客さんはそう言って、メニュー表を見始める。



 ——大丈夫かな……ん?

 

 そのタイミングでレジ裏にいたお姉ちゃんが、チョイチョイと私に手招きをしてきた。


「ご注文決まりましたら、お声掛けください!」

「はいはいー」


 今のやり取りを見ていたんだろう。

 私はお客さんがメニューを見ている隙に、お姉ちゃんの元へ向かった。


 


「……大丈夫?あの人」

「うん、酔っ払ってるだけだよ」


「それならいいんだけど……何かある前に声かけなさいよ?」

「分かってるって」



 こういうお客さんが来る事も、珍しくはない。

 絡んでくる人や、必要以上にスキンシップを取ろうとしてくる人は一定数いる。


 航くんがいない日は、特に。

 

 

 お酒を飲む場所だから、そういう人がいるのは仕方がない。

 

 働き始めの頃はこの時点で代わってもらっていたけど、いつまでもそうしている訳にはいかないから今は出来る所までは自分で対応するようにしてる。



「芽吹はガードが緩く見えるから、気をつけ——」

「お姉さん、注文決まったよー!」


 

「あ、はい!かしこまりました!——じゃあ、何かあったら言うね」

「……はいはい」

 


 ——大丈夫、私だって『泡沫』の従業員なんだから

 

 そう自分に言い聞かせて、私はお客さんの元へ向かった。



 



 そして、三十分後。

 


「——ホントにさ、大っ変で最っ悪なのよ」

「そうなんですね……」



 お客さんは三杯目のウイスキーを片手に、私に愚痴を溢している。


「そういうの、経験した事はあんの?」

「いえ……ここのバイトが初めてなので……」


「お姉さん若いから、そうだよねえ」



 あれからお客さんは、特に何かをしてくる事はない。

 あるとすれば、後から来た他のお客さんの対応の最中も、事あるごとに私を呼びつけるくらい。


「だいぶ飲んでますが、大丈夫ですか?」

「俺酒強いんだって。ヘーキヘーキ」



 ——そして呼びつける度に少し長い会話で引き留めるくらい。


 お姉ちゃんだと軽く躱されると分かっているのか、私ばっかり呼ぶのはちょっと嫌だなって思うけど、まあ仕事だから仕方ない。



「——聞いてる?」

「あっ、はい!聞いてますよ!課長さんの話ですよね?」


「そうだよ!俺の話全然聞かん癖に、会議ではぜーんぶ俺に投げてくんだよ。ホント、何様かって話」


 課長様か、ハッハ!とお客さんは笑う。


「しかもさ、わざわざ人がいる前で説教すんだよ。大きい声で」

「……大きい声で何かを言われると、嫌ですよね」

 


「——だろ?やっぱそう思うよな!」


 お客さんはバン!とカウンターを叩いて、私を指差した。

 急に鳴った音とお客さんの声に私がビクッとしたのも構わずお客さんは続ける。


「なーんでああいう奴ってさ、『自分が正しい』って思いながら喋れんのかね?」

「あはは……あ、呼ばれてるのでちょっと失礼しますね——」

 


 ——そろそろ帰ってもらわないと、ダメだよね……

 


 気持ち良く話をしているのに、悪いとは思うけど。

 

 さっきから入ってくるお客さんは、ほとんどお姉ちゃんが対応してくれている。


 ——これ以上は、お姉ちゃんにも迷惑だし……

 

 次に呼ばれたらそれとなく帰宅を促そうと心に決めて、私はテーブルのお客さんの注文を取りに行った。


 


「——ねえ、おねーさん!」

 

 私が他のお客さんの対応を終えたのを見計らって、カウンター席から声が飛んだ。

 近くにいたお姉ちゃんがお客さんの元に向かったけど、


「違う違う、あっちのおねーさんだよ!俺と話してた方!」


 お客さんが私の方を指さしたので、仕方なく私がお客さんの元へ向かった。



 

「すいません……お待たせしま——」


 私が前に立つのを待たずに、お客さんは私を指さした。



 

 

「——名前」



「……えっ?」

「おねーさんだと、どっち呼んだか分かんないじゃん。教えてよ、名前」


「名前、ですか……」

「いーじゃん!減るもんでもないしさ!」

 


「えっと……」


 

 正直、この人に名乗りたくはないなって思った。


 でも、この状況で何て言って断ればいいか分からないし、『志築です』って言ったらお姉ちゃんと区別がつかないから、仕方なく私は、

 


「えっと……芽吹、です……」

 

 そう、お客さんに伝えた。


 


「……ふーん」


 お客さんは少し目を見開いた後——ニヤッと笑った。

 


 ——やっぱり、ちょっとまずかったかな……


「あの……だいぶ飲まれましたよね?明日も平日ですし、そろそろお帰りになった方がいいんじゃないですか?」

 

 お客さんの笑みに若干の不快感を感じつつ、当初の予定通り私は店内にかけてある時計を見てお客さんに帰宅を促した。


「えー、今名前聞いた所じゃん」

「ですが、お時間が——」


 帰宅を促した理由はそれだけじゃない。

 さっきから、お姉ちゃんが私たちの方を見る頻度が増えてる。

 

 これで粘られるようだったら、流石に——


 


 

「——『芽吹ちゃん』」


 

 

 名前を呼ばれた瞬間——全身にゾワッとした悪寒が走った。

 

 気持ち悪いものに背中を撫でられたような、不快感。

 思わず出てしまった表情を見られないように、私はお客さんから顔を背けた。


「ねえ——『芽吹ちゃん』、聞いてる?」


 

 お客さんから名前を呼ばれる度に何とも言えない気持ち悪さが全身を襲う。

 それをこらえながら、私はお客さんの方を向いた。


「……はい、何でしょうか」


 向き直った私にお客さんはケラケラと笑いながら、言葉を続けた。


 



 

「課長——消してよ」




 


「……えっ……?」

 

「えっ?じゃないよ、『芽吹ちゃん』。聞いてなかったの?課長、消してって言ってんの——叶えてくれる気に、なったんでしょ?」


 

「えっと……何の話——」

「——だからあ!」


 お客さんはバン!とカウンターを叩くと、その音に驚いてしまった私に向かって、

 

 

「——『そういう店』で、『芽吹ちゃん』はその気になったんでしょ?」


 苛立ったような口調で、そう言ってきた。



「えっと……あの……」


 何を言われているのか分からない私が、急に態度を変えたお客さんに目を白黒させていると、


 


「——何かありましたか?」


 私の隣に来たお姉ちゃんが、お客さんに声をかけてくれた。


「少々大きな音が聞こえましたが……」

「ん?ああ、悪い悪い。つい、クセでな」

 


 割って入られたのが気に入らなかったのか、お客さんはお姉ちゃんに苦い顔を向ける。

 

「それより今、大事な話をしてんだから邪魔しないでくれる?」

「大事な話……ですか?」

 

「ああ、俺の願いを叶えてくれるって話——な?『芽吹ちゃん』?」




『願いを叶えてくれる』

 

 ゾワっとした悪寒と共に私の元へ届いたその言葉で、私はようやくお客さんが言っている事を理解した。

 


「今の……お願い、だったんですか……?」

「だからそう言ってんじゃん。ちゃちゃっとやってよ、早く」


「いや、それは……」



 私が言葉を選んでいると、お客さんは私の腕を急に掴んだ。


「ちょ……!やめてくだ——」

 



 

「何で?名前教えてくれたじゃん——ね?『芽吹ちゃん』」






「お客様、お辞めくだ——」

「さっきからさあ!」


 私が掴まれたのを見て、慌てて駆け寄ってきたお姉ちゃん。

 掴む手を引き剥がそうとしたけど、お客さんの振った反対の手で押し飛ばされた。


「お姉ちゃん!」

「俺は『芽吹ちゃん』に話してんの!お姉さんはあっちの客の相手でもしてろよ!」


 そう言ってお客さんは私を握る手に力を込めて、私をグイッと引き寄せた。

 

「いたっ……!」

「あ、わりいわりい——で、いつ叶うんだ?今日?明日?」


「それは——れ

「あ、そういや俺課長の名前言ってなかったわ。そりゃ出来ねえよな。課長の名前は高尾浩三——これでいいだろ?」


「いや、だから私は——」

「あ、もしかして話し足りなかった?良かったらバイト終わるまで待ってるから、ゆっくり二人で——」





「——出来ません!!」


 


「は?」

 

「私には……出来ません」



 お客さんの掴む力が弱くなったのを感じた私は、手を振り解いて後ろに下がる。


「『芽吹ちゃん』……何言ってんだよ?出来ないって、どういう事だよ!」


 そう言ってお客さんは、再び私を掴もうと手を伸ばしてきた。

 

「芽吹!」



 いつもなら、こうなる前に航くんかお姉ちゃんがお客さんの対応を代わってくれる。


『芽吹はまだ、こんなのを相手する必要はない』


 そう言って二人は、いつも私を守ってくれる。

 

 だけど——

 

 

「——お客様、申し訳ありません」

 


 いつまでもそうしてちゃダメなんだ。

 だって——『くるり』は、私の力なんだから。


 この力を使うって決めたのは、私なんだから。

 


 私はお客さんが伸ばした手をパシッとはたいて、一歩前に踏み出した。


「何すん——」

 

「お客様の願いは、叶えられません」



「は?だから何言っ——」




 

 

「——誰かを不幸にするような願いは……私は、叶えたくありません!」




 真っ直ぐにお客さんを見て、私は自分の気持ちを伝えた。


 

『芽吹にはまだ早い』


 航くんの言ってた通り。

 まだ怖くて、少し震えてしまってるけど。


 それでも、ちゃんと自分の口から伝える事が出来た。



 



「……ふざけんなよ、おい……」

 

 大きな音を鳴らしてイスから立ち上がったお客さんは、バン!とカウンターに手をついて私を睨みつける。

 


「話が違うだろ!!店員をその気にさせたら願いが叶うって、俺は聞いたんだぞ!酒まで飲ませやがって……こんなん、詐欺だろ!!」

 


「……申し訳ありません」


 私は制服の裾をギュッと握ってお客さんに頭を下げる。


「謝罪じゃなくて、誠意を見せろって言ってんだよ」

「誠意、ですか……?」


 顔を上げた私は、少しニヤついた顔のお客さんと目が合った。

 


「願い、叶えられねぇんだろ?」

「それは、はい……」


「でも金は払えって言うんだろ?」

「それは……お客様が、頼まれたものですので……」


「そっちの都合ばっかりじゃねえか」

「……申し訳ありません、ですが——」



 私がもう一度頭を下げた所で、お客さんがドカッという音を立ててイスに座り直した。


「——『芽吹ちゃん』、何時上がり?」

「……え?」


「何時上がりかって、聞いてたんだよ」


「えっと……今日は——」




 

 

「——言わなくていいわ」


 私の肩に手を置いたお姉ちゃんは、そのまま私と位置を入れ替えるようにグイッと私を押した。


「お姉ちゃん……?」


 お姉ちゃんは私の方を向いてニコッと笑う。

 

「悪いけど、他のお客様のフォローお願いしていい?」

 


 その後すぐに営業用の顔に切り替えて、今度はお客さんの方を向いた。


「お客様」

「……何だよ」

 

「ここからは、私がお相手させていただきます」


 

 お姉ちゃんは私の方を見ずにカウンターの下の方で私にシッシッと手を振ってきたので、それに従って私は他のお客さんの席に謝罪に向かった。

 


「お前は関係ねえだろ。話も聞いてなかったくせに」

「ええ、私は何も聞いておりません」


「だったら——」

「あら、知らないんですか?」


 

 テーブル席のお客さんへの謝罪に向かう途中。

 私は、お姉ちゃんの方をチラッと見た。

 

「——願いを叶えられるのは、あの子だけじゃないんですよ?」


 いつも通りお姉ちゃんは笑顔で接客をしてる。


 だけど、ちょっとだけ。

 私はその笑顔を怖く感じた。

 

 

 


「一つ、よろしいですか?」


 お姉ちゃんはそう言って、金額が書かれているであろうメモをお客さんの前に差し出した。

 

「先に今までのお代を頂きたいのですが」

「……何でだよ」


 あからさまに不服そうなお客さん。


「俺は願いが叶うって話だから飲んでやっただけだろ」

「そういう認識だったのなら、申し訳ありません」


「だったら俺が払う必要は——っ!」


 お客さんはそこまで言って言葉を詰まらせる。

 お姉ちゃんが突然髪留めを解いたからだ。

 


「あの子との間の事は、一旦清算しておきたいからです」

「そっ、それは……どういう——」

 

「——私に集中してくださいって事ですよ」


 そして少し離れたカウンターの端に両手で頬杖をついて、お客さんを見上げながら言葉を続けた。

 

 

「もし叶えられなくても——私、頑張りますので」



「……分かったよ」

 

 お客さんはそれを聞いて、財布を出し始めた。


 

 私はお客さんから離れた、奥のテーブル席のあたりに立ってそれを見ている。


「話が終わるまで奥に隠れときな」


 私が謝罪してまわったお客さんは口を揃えてそう言ってくれた。


 だから、こうしているのは私のわがまま。

 

『くるり』のせいで起こった事だから——私はここで見ていたいと思った。


 


「じゃあ、俺の願い——叶えてもらおうじゃんか」

「ええ、もちろん」


 お姉ちゃんに近づくために。

 お客さんはカウンターに肘をついてズイっと身体を寄せた。


 ——気持ち悪いなあ……


 お客さんにこう思うのは申し訳ないけど。

 側から見たその姿は欲が透けて見えて、すごくみっともなく見えてしまった。

 


「お名前、どう呼んだらよろしいですか?」

遥輝(はるき)でいいぜ」


「では私は心晴とお呼びください」



 その言葉で鼻息を荒くしたお客さんは、私に話した内容をお姉ちゃんにも話し始めた。

 

 私たちにも聞こえるくらいの大声で。

 たまに自分の自慢も混ぜながら。

 



「——なるほど。それで、課長がいなくなれば……と?」

「ああ、そういうこと。話が早くて助かるわ」

 



 お姉ちゃんに話した内容は、ひどいものだった。


 課長さんにされた事についてはほとんど私に話したものと同じ。

 でも願いについては、とても聞いていられないようなものになっていた。



「アイツ、一丁前に家族がいやがるらしいからよ。離婚するのもいいな。そんでもって会社はクビ!奥さんからも会社からも捨てられて、どっか知らない場所で——」


 聞くに耐えないお客さんの願いを、お姉ちゃんは頬杖をついて見上げたまま静かに聞いていた。

 


「——まあ、そんな感じでいいわ。出来るか?」


 お客さんが話し終えたのを見てお姉ちゃんはパッとカウンターから離れる。

 

「そうですね……」


 そして少し考え込むような素振りをした後、お客さんに向き直り困ったような笑顔を見せた。



「残念ながら……私もその願いは、叶えられそうにありません——ご期待に添えず、申し訳ありません」



 その言葉を待ってましたと言わんばかりに、お客さんはニヤッとした笑みを浮かべる。

 

 

「言ったな?——約束、忘れてねえよな?」

「ええ、もちろん」


「じゃあ、どうしてくれんだ?」

「出口でお待ちください。すぐに参りますので」


 そう言ってお姉ちゃんはレジの方へと向かった。

 


「やっぱ出来る女は話が早くて助かるわー」


 お客さんはお姉ちゃんの後ろ姿を目で追いながら立ち上がり、


「どっかの誰かと違ってな」


 私の方にチラッと目線を投げたあと、横に置いたカバンを持って出口の方へと向かっていった。

 


 


「……お姉ちゃん、本当に大丈夫なの?」


 私はお姉ちゃんの後に続いてカウンターからレジ裏に入った。

 

 下がっていなさいと言われたけど。

 いくら鈍い私でも、あの様子を見たらすぐに分かる。

 

 お客さんはもう、当初の願いなんてどうでも良くなってるんだろう。


『もし叶えられなくても——私、頑張りますよ?』


 あの言葉でお客さんは、叶えられない願いよりお姉ちゃんを取った。


 願いを叶えられなかったお姉ちゃんをこれからどうしようとしているのか、正直考えたくもない。


 

「絶対にマズイって、あの人お姉ちゃんを——」

「どうなっちゃうのかしらね、私」


 お姉ちゃんはふふっ、と笑ってお客さんのスーツをハンガーから下ろす。

 

「私があの人なら、酒で酔わせてどっかに連れ込んじゃうかなー」

「ちょっと!じゃあそんな呑気にしてる場合じゃないでしょ!」


「もー、分かってるって」


 そう言って振り向いたお姉ちゃんのしていた表情に、私は驚いた。



「大丈夫——ちゃんと、お帰りいただくから」


 普段お店で見せることのないその表情を私に見せた後、お姉ちゃんはレジ横から出口へと向かった。




「随分遅かったじゃねえか」

「申し訳ありません。少々話をしておりまして」


 先のお姉ちゃんとの会話ですっかり気分の良くなっているお客さんは、浮かんだニヤけ顔を隠さずに私の方を見る。


「なんだよ、心配なのかよ」

「いえ、そういうわけでは……」


「いいって、隠さなくても。俺はそういうの分かっちゃうからさー」


 困っちゃうなー、と呟いたお客さん。


「今日は心晴ちゃんとだから、じゃあまた今度来るからその時にな?『芽吹ちゃん』」

 


 自信満々なのは羨ましいけど。

 やっぱりちょっと気持ち悪いなって思う。



「お客様、こちらを」

 

 そうしているうちにお姉ちゃんがスーツをお客さんの前に広げる。

 それを見たお客さんは、


「おっ、サンキュー」


 嬉しそうにスーツの袖に腕を通した。


 

「それにしても、いいものを着ていらっしゃいますね」

「あー、まあこのくらい当然っしょ」

 

「いえ、なかなか買えるものではございません。それに——よくお似合いですよ」



「そっ、そうだよな……うん、そうだよな!」


 お姉ちゃんの顔を間近で見たお客さんは、鼻の下を伸ばした顔でスーツの襟を正した。


「さあ、参りましょうか」


 お姉ちゃんはお客さんの様子を見て、少し微笑んだ後ドアに手をかけた。

 

「あれ、心晴ちゃんはその格好でいいの?」

「ええ、大丈夫ですよ」


「いやでも、流石にその格好はちょっとヤバすぎでしょ」


 そう言ってお客さんは舐め回すような視線でお姉ちゃんの全身を見た。


「まっ、俺は別に良いんだけどさ」

「ふふっ、お気遣いありがとうございます」


 そう言ってお姉ちゃんは手をかけたドアを引いた。

 少しずつ見えてくる『泡沫』の外の世界。


「でも、本当に心配いらないんです——」


 完全に開け放たれたドア。

 

 


「——私の出番は、ここまでですので」


 

 その向こうにはビシッと姿勢を正した、黒服の男性が立っていた。


「……なんだよ、お前」

「竹下様、お迎えに上がりました」


 ——あれ、この声……


 口をついて出そうになった名前を止めるように、私の前に立つお姉ちゃんがしーっ、と口元に指を置いた。


「迎えって、俺は何も聞いて——」


 

「——エースフォード株式会社営業二課、高尾 浩三様の部下の竹下 遥輝様ですね?」

 


 男の人——まあ、正体は航くんなんだけど。

 航くんはそう言って、お客さんに一礼した。


「なっ、何で知ってるんだよ……!」


 急に会社名や役職を告げられたお客さんは驚いている。


「竹下様が少々物騒な願いをされた為——『ママ』が竹下様をお連れしろと」

「『ママ』って……何のことだよ!」


「おや、高尾様から聞いた事はありませんか?高尾様は『ママ』のお得意様ですが」



 突然告げられた『ママ』という謎の人物。

 その人物と課長が懇意にしているという、怖い顔の黒服の男。


 段々とお客さんは狼狽え始めた。


「おっ俺は、別に何も……」

「ええ、竹下様は今の所何も叶えておりません」


「だったら——」

「ですが、その対価として当店の従業員をご所望されましたね?」


 

「……そ、それは……」

「高尾様の件、そして対価の件——『ママ』が直接、竹下様にお伺いしたいと言っております」


 冷や汗の止まらないお客さんに航くんは更に怖い顔をして、トドメの言葉を放った。



「さあ、参りましょうか。『ママ』と一緒に——高尾様もおまちですので」

 


「……ひっ——うわああ!!!」

 

 その言葉で弾かれるように、お客さんは航くんの横を通り抜けて外に飛び出していった。


「お待ちください、竹下サマー!」


 追い打ちと言わんばかりに、逃げた方に向かって航くんが大声を上げる。

 

 待てと言っているが、航くんはその場から一歩も動かない。



「……これでええか、心晴」

「うん、バッチリ。ありがとうね、航」

 

 航くんがバーの中に入りカラン、と音を鳴らす。

 終了の合図のようになった鐘の音と共に、『泡沫』に再び静かな時間が戻ってきた。



 ホッと胸を撫で下ろしたお姉ちゃんは、そのままホールの方に向かう。


「……どうも、お騒がせしました」

 

 そして、お客さんたちの真ん中あたりに立って深くお辞儀をした。


「何も言わずにお待ちいただき、ありがとうございます。お礼として、当店から一杯サービスさせていただきます」



 その言葉でこれまで沈黙を貫いていたお客さんがワッと湧いた。

 

「黙ってろって言われた時はどうすんのかと思ったけど、やるじゃねえか!」

「ありがとうございます、本当に助かりました」


「あの黒服とか『ママ』とかって……本当の話?」

「まさか、黒服はうちの従業員ですよ。『ママ』は本当ですが、ただのオーナーですよ」



「……なんか、大変だったらしいな」


 お姉ちゃんがお客さんの質問に答えながら注文を取っている時、航くんが私の隣に来た。


「その服は?うちの制服じゃないけど……」

「ああ、これな……前に『ママ』の店を手伝った時のやつ。せんないけえ返さんかったけど、まさか出番があるとは思わんかったわ」


「じゃあ、さっきの話は?まるで全部聞いてるみたいに話してたけど」

「ああ、それは——」


 

「芽吹ー」


 航くんが話し始めた所で、カウンターに戻ったお姉ちゃんがチョイチョイと手招きをして私を呼んだ。


「注文だよね、どこに運んだらいい?」

「それは大丈夫よ。それより、せっかくだから買い出しお願いしていい?」


「いいけど、せっかくって——あぁ……そういう事ね」


 お姉ちゃんの視線の先には、航くん。

 どうせならしっかりこき使ってやろうという魂胆なんだろう。



「何買ってくればいい?」


 私がそう言うとお姉ちゃんはスマホを取り出して、リストを読み上げ始めた。

 

「炭酸水とお菓子。文房具を何種類か。あとティッシュとトイレの洗剤とトイレットペーパー。それから……」

「ちょ、ちょっと待って!」


「うそうそ。リスト送っておくから、それを見て買ってきて」

「最初っからそうしてよ!もう!」


 私がそう言うとお姉ちゃんはふふっ、と笑ってスマホをタプタプと操作する。

 少しした頃に私のスマホがブルッと震えた。


「おー……結構あるねえ」

「買ってきたら今日は上がっていいから、着替えていってらっしゃい」


「はーい!」


 

 休憩室に着替えに行く私の耳に、お姉ちゃんと航くんの会話が少しだけ聞こえた。

 

「……俺も着替えていいか?」

「ダメよ」


「何でだよ。目立つから嫌なんだが」


「そんなの決まってるでしょ。あの男が近くにいないとも限らないんだから」



 それ以降の会話は聞こえなかった。

 私は急いで着替えを終えて、航くんと一緒に買い出しに向かった。


 


「——えっ、お姉ちゃんから連絡来てたの?」

「ああ」


 買い出しの途中。

 航くんはスマホの画面を見せてきた。


「『この社章の会社を探せ』って。突然言われたけえ何かと思ったわ」


 画面にはスーツの襟に付けられた社章が映っている。

 

 送られた時間は十時半前。

 おそらく最初にスーツを預かった時に撮影して航くんに送ったのだろう。


「特定したらしたで今度は『今から言う名前を暗記して黒服を着て待機しとけ』って。まあ心晴がそう言うのはなんかある時だけじゃけ、特に疑問もなかったけどな」

 

「そうだったんだ……」



 私が何も出来ずうろたえているだけだった時。

 お姉ちゃんはその先を予想して色々手を打っていたんだ。


「ま、心晴はああいうの慣れとるけえな」


 航くんは何でもないように言うけど。

 私にはまだ上手く出来ないから、やっぱりお姉ちゃんはすごいなって思う。


「それより、何買ってくるように言われたんだ?」

「えっとね——あっ」

 


 こういう所とか、特に。

 きっとすごく先の事まで考えながらあの場にいたんだなって、リストの最後を見て改めて思った。




『二人で好きな物、ゆっくり選んで来なさい。奢ったげるから』


 

「直接言えってな」

「まあ、それもお姉ちゃんっぽいよね」


 私たちはその言葉を見て、二人でプッと吹き出して笑う。

 そして、航くんは一歩前に出て私の方に振り返った。

 

 

「じゃあ行こうか——『芽吹』」




 ——あっ……


 今日散々聞いた私の名前。

 聞くたびにゾワっとした嫌悪感を抱いていた、私の名前。

 

 同じ呼ばれるのでも、こんなに違うんだ。

 


「うん、たくさん買おーね!」

「せっかくなら高いやつ買おうぜ、心晴の金だし」


「賛成ー!」

 


 ちょっと嫌な事が多かったけど。

 それ以上に、二人と働けて良かった——そう思える一日になった。

 

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