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心の負圧チャンバー 2

 香桜学園は、十数年前に国道沿いの広大な土地に新設された学校だ。国道から枝分かれして学園の敷地まで伸びる桜並木の私道には、父兄が差し向けた送迎車が鈴なりに並ぶ。駅までは遠いから通学には不向きだが、金持ちの子弟が多く在籍しているから、別に問題ないらしい。


 もっとも、うちのように貧乏なのに無理して通わせるケースでは、公共交通機関の貧弱さはけっこうダメージが深い。移動手段は専ら自転車。最高にエコなのだが、夏に向かいつつある時節柄、クールではない。


 家に帰るのは気が重い。


 あの母親が、僕を立派な大人に育てようと手ぐすね引いて待っている、あの家に帰りたいものか。あそこはいわゆる一つの魔境。あんなところに長居していたら、立派になるどころか、レンタカーで歩行者天国に突入し、ナイフを振り回して通行人に害を及ぼすようなダメな大人になってしまいかねない。


 ことに、ここ数日は母親の虫の居所が悪いらしく、教育熱心さに磨きがかかっている。

いつもなら、週末にはどこかからお呼びがかかって外出してくれるのに、先週の週末は殊更にカリカリして携帯片手に家じゅうをねり歩いていた。これには僕もうんざりしたし、妹などは部屋から一歩も出てこようとしなかった。


 まあ、妹は同じ部屋にいても心の内側がシャッター街だから、いないのと実質同じなのだが。


 不機嫌なときに僕がとれる妹とのコミュニケーションは、せいぜいがとこ、「なに見てるのよ性犯罪者予備軍。抑圧人間」などと一方的に罵られるくらいのもので、二階の窓から道に汚物を投げ捨てる昔のヨーロッパ人と、不運な通行人の関係以上のものではない。


 「闇に隠れて生きる~俺たちゃ抑圧にーんげんなのさっ」


 ケーブルテレビで再放送に再放送を重ねる古いアニメのオープニング調に改変した曲をくちずさみつつ、僕は重たいペダルを漕ぐ。


 空はこんなに青いのに、風はこんなに温かいのに、どうしてこんなにメランコリックにならなくてはならないのだろう。


 ひらめいた。そうだ、遠回りしよう。


 そうだ、京都行こう。的な軽い考えで帰宅コースを離脱、国道を下り、気まぐれに川沿いの土手道に出る。流れに沿ってゆるやかな曲線を描く砂利道は、見晴るかせる彼方まで人がいない。散歩する人の二、三人いそうなものだが。


 ふと芝生に覆われた斜面に目をやると、人が寝ている。女の子。うちの制服だ。まさか。


 自転車を降りて目をこらす。


 どう見ても汀だった。


 汀も気配を察したのか、上半身を起こしてこちらを見た。よほど驚いたのか、汀は口が開きっぱなしだ。


 「希介君……」


 汀の眼は、今では驚きに代わって警戒心をあらわにしていた。


 実を言うと、僕は汀の表情に傷ついていた。そんな警戒するような表情を、今まで一度として僕に見せたことはなかったじゃないか。


 「よう、部活にこねーと思ったら、サボりか」と軽いノリで問いかける。


 これはノラ猫にお近づきになるときに使う手法だ。猫だって、低い声で詰問する男などからは、警戒してさっさと逃げ散ってしまうだろ?


 汀は素早く立ち上がると、手負いの動物のように身構えた。さっとスカートについた葉を払い、顔を上げたときには、いつもの汀に戻っていた。


 「奇遇ですね。でもどうしてこんなところにいるの?」


 穏やかな口調だが、ついさっき彼女がみせた驚愕と警戒の表情は、気のせいでは片付けられない。


 「学校帰りだよ」


 「ふうん、希介君の家ってこっち方面なんだ」


 「違うよ。その国道を通って川を越えたところ。それよりお前、体の調子は大丈夫か」


 髪はところどころほつれたように乱れているし、目の下には薄っすらクマが浮かんでいる。いつもの汀じゃない。


 「うん、ちょっと気分が悪くて休んじゃっただけ。ちょっと急いでるから、それじゃあね」


 不自然に会話を切り上げて、汀は土手を駆け上った。片手に提げた買い物袋は、近所のドラッグストアのものだった。紙袋だ。あのドラッグストアって、紙袋なんか使ってたっけ?


 立ち去ろうとする汀の背中に、思い切って直球を投げてみる。


 「心配事があるなら、相談に乗るぞ。神愛が言ってただろ、僕らは親友なんだって」

 親友だと決めた親友なんて、この世に他に存在するのかは知らんが、文字通りの関係なら、何でも相談できるはずだ。心をさらけ出せるのが親友なのだから。


 汀が一瞬躊躇したように歩みを緩めた。


 「お前の家って近いのか? 暇だから一緒に帰ろうぜ。カゴに荷物のせていいからさ」


 ドラッグストアの紙袋に手を伸ばす。ちょんと小指が汀の手に触れた。


 「ひっ」


 鋭く息を呑む汀。彼女が勢いよく肘を引いたせいで紙袋が地面に落ちた。


 「ごめん、驚いたか」


 袋の口からこぼれた商品を拾おうとかがんだ。その商品は、一見なにも書かれていないポップな配色の小箱だった。


 なんだろこれ。ひょっとして、気まずい系のブツなんじゃないか?

 「触るな!」


 え……? 


 一瞬、誰に怒鳴られたのか理解できなかった。しかも命令形で。家族以外の女子に怒鳴られるなんて、小学校以来だ。いや、まあそれはまず脇に置こう。問題は、命令形というものが、汀の口から絶対に飛び出すことがない語形だということだ。


 ありえないことが起きた。これがどれくらいあり得ないことか、例示しよう。


EX.1 幼馴染が毎朝起こしに来てくれる

EX.2 食パン摂取中の女子と曲がり角でごっつんこ

EX.3 異常な権力を誇る生徒会 OR 風紀委員が帯刀

EX.4 解放された屋上

EX.5 ロリの教師 OR 保健医


 ご納得頂けただろうか。


 そういや、僕のような貧乏人と、倉峯グループのご令嬢が同じ学校にいるというのもあり得ない話か。それを言うなら、汀のような誰に対してでも分け隔たり無く接する、みんなのアイドル的存在だって、普通の学校にはいないよな。


 まあ、それはそうと、いくら考えたところで、目の前の状況は一向に良くなっていない。


汀は固まった僕の手から商品をひったくり、紙袋に素早く仕舞った。


奪われる寸前、小箱の端に印された文字が辛うじて読み取れた。そこには、『0.03ミリ超極薄』と書かれていたように思えた。嘘だろ。


 「お前それ――」 


 「なんでもありません!」


 キレられた。汀に怒鳴られるのは、想像もしていなかっただけに酷くこたえた。


 「ついてこないで、わたしは忙しいんだから」


 汀の様子は、威嚇しようとして精一杯毛を逆立てる仔猫を連想させた。


 こいつはまだわかっていないんだ。女にこうやってキツく当たられるほど、僕の中からは戸惑いと躊躇が消えるということを、知らないんだ。


 僕の心の一部が、キィン――とサウンドエフェクトが響くほどに冴え渡ってゆく。


 汀が、まるで透明な肉を噛み千切っているかのように、歯をむき出しにして言い放つ心ない言葉も、ただ野を渡る風のように、無害な音素として耳で拾う。


 これが僕のスキル(特殊能力)、クルーエル・パッセージ!。ふふ、汀の繰り出すクルーエル・ワード程度なら、いつまででも耐えられるぞ!


 でも、この厨二スキルにも欠点がある。相手が何を言ってるのかさっぱりわからないのだ。だって、パッセージしてるんだもん。


 残酷な言葉の文言を理解したいのならば、また別の方法がある。


 「あまぞんのろごみたいなくちでにやにやしないでよ」


 「amazonのロゴみたいな口で、ニヤニヤしないでよ」


 僕は投げかけられた言葉を心のマニピュレータでつまみ上げ、心の負圧チャンバーに放り込んで、強化ガラスの外側から慎重に分析する。


 ふむふむ、なるほどね。


 僕は本来無口で、クラスの連中から見ればを考えているのかわからないキャラだと見なされているはずだ。誰にだって敵はいる。僕にアンチな人だって必ず一定数いる。それは中学までに嫌というほど理解していた。


 アンチはかつて僕に言った。僕の作り笑いが、打算的で気味悪い薄笑いだと。


 実際はそんなもんじゃない。僕は曖昧で柔和な笑みを常に浮かべることで、厄介ごとを避けようとしていただけだ――大抵の子供がそうしていたように。大抵の大人もそうしているように。


 というわけで、アマゾンのロゴっぽい作り笑いを、僕がよく浮かべているのは事実と言えば事実。これは認める。事実を指摘されただけなら、別に怒ることも、傷つくこともないじゃないか。


 どうだ、これが心の負圧チャンバーの威力だ!


 「あのロゴは、aからzまで伸びる矢印のように見えるだろ。From a to z。つまり、『aからzまで何でも揃ってますよ』って意味が込められてるらしいよ」


 僕の奇妙なほど平静な態度に、汀はひるんだ。


 「そんなことどうでも――」


 反論しかけて、僕の胡乱な目つきに気づいたらしく、彼女は首筋に手を当てて半歩退いた。


 冷静な分析の刃は、汀の様子をもチャンバーに引きずり込んで、冷酷に切り刻む。

 触れられることへの拒否反応、腫れぼったいまぶた、隠そうとした首筋の赤み――。僕は汀の表面に幾つもの異常点を発見した。


 「汀……」


 「ごめんなさい」


 汀は踵を返した。足早に立ち去る汀の背中は、「ついてくるな」と語っていた。


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