心の負圧チャンバー 1
「今日も汀、来てないな」
僕が部室のドアを後ろ手に閉めると、神愛が本からチラリと視線を上げた。その視線を捉え、袋から取り出した紙パックの牛乳を差し出す。
「ほらよ、牛乳」
育ち盛りの子弟御用達の、特濃4.5カルシウム配合牛乳だ。
「やっほー♪」
神愛は何の疑問も持たず、喜んで受け取る。
「そういえば汀のやつ、今日も登校してないらしいぞ」
「昨日も休んでたし、風邪でもひいたのかな。ここんとこ調子悪そうだったし」
「ナギサちゃん、知恵袋にも出入りしてないよ」とアグネス。
心配そうにしているのは、アグネスも同様だった。
「けっこう重症なのかな」
そういえばね、とアグネスが語ってくれたところによると、学園のアイドル、理事長の娘もここ数日休んでいるらしい。間違っても汀の欠席とは関係ないだろうけど。だって、理事長はあの倉峯グループの総帥なんだから。きっと親子ともども、やんごとなき理由で欠席なさっているのだろう。
汀愛用のざぶとんはロッカーに片付けられているのだが、あたかも部室が二重の重ね合わせ状態にでもなったかのように、床に正座する汀の気配が感じられた。まばたきして幻を追い払うと、彼女が座っていたはずの床には、付箋の丸まったゴミが、ぽつんと落ちているだけだった。
スーパー・フィロソフィ研がこの部室に押し寄せてからは、汀のおかげで塵埃関係は部室から一掃されていた。それゆえに、汀が来ないだけで部室が荒れはじめていた。いや、元の状態に戻りつつあると言うべきか。
早くも牛乳を飲み終わった神愛は、ストローをズーズー鳴らし、紙パックをぽいとゴミ箱に投げた。紙パックは放物線を描いてゴミ箱の縁に当たり、反動でくるくる回転して床に転がった。
「うむ、命中」と事実を捏造する神愛。
「いや、外れてるだろ」
ああ、やっぱ汀が居ないとだめだ。こうした小さな汚れの放置が、住環境に対し誰も関心を払っていないというサインとなり、秩序を守る意欲そのものが居住者全員の心から急速に失われていく。道徳方程式などというものを、まじめに追求する人間が同じ室内にいるのといないのでは、やはり秩序にも差が生じるのだ。
「どうする神愛、今日の部活」
彼女は、「うーん」とうなって天井を見上げた。
「私の勘違いかもしれないけど、汀には悩みがあるんじゃないかと思う。それもおっそろしく重たい悩みが」
重たい悩み……。
ふと、一昨日の夜に汀がみせた表情を思い出した。『わたし大丈夫だから』。
「神愛もそう思うか?」
「希介も?」
「明日、汀が登校したら尋ねてみよう」
「もし明日も休んだら、直接ナギサの家を訪ねてみようよ」とアグネス。「わいが明日までにナギサの住所を割り出しておくから」
どうやって割り出すのかは知らんが、こいつならできる気がする。
「よろしく頼む。でもまあ、あまり無理するなよ」
「うん、絶対無理なんかないさー。わいは許されているのだからして」と、なんくるないさー的な感じで、アグネスは請合った。
突如として、神愛が高らかに宣言した。
「では、明日の活動予定は『汀救出作戦』とする。今日はお開きにするから、明日に備えて英気を養っておけ」
「もう解散か」
「ん、なにか問題でも?」
不満の響きを嗅ぎ取って、神愛は僕を見た。
「いや、別に問題はないよ」
「そうか。じゃあな、希介」
神愛のあとについて、アグネスも携帯端末をいじりながら立ち去る。
「バイバイ、キスケ兄ちゃん」
「おう、また明日な」
兄ちゃんだってさ……。
しばし、昔の妹(血のつながったリアル妹の方)の記憶に思いを馳せ、恍惚境をさまよう。
はっと我に返って壁の時計を見上げれば、まだ時刻は午後三時過ぎ。仕方なく目をつぶってあてずっぽうに選んだ小説を本棚から取り出し、ページをめくる。
本の中では、自分を核爆弾に改造したテロリストが叫ぶ。『ぼくは爆弾だ。あと四時間と五分十七秒で爆発するぞ!』
な、なんだってー!?
やっぱりSFは面白い。でもどうしてだろう、何度足を組み替えても、どこか落ち着かなかった。
「ふう」
読み終わって時計を確認するも、まだ四時前だ。あれー? こんなにも、時間が経つのって遅かったっけなあ。神愛たちが乗り込んでくる前も、部室で本を読んで時間を潰すのが日課だったのに……時間の流れが違うんだけど。
部室の空気は淀んで重苦しい。壁かけ時計が、まるで僕を部室から追い出したくてイライラしているかのように、チッチッと耳障りに時を刻む。気が削がれることはなはだしい。
「……帰るか」
独り言を漏らして、僕は下校することにした。後から考えると、このときの奇妙なほどのいたたまれなさは、第六感的なお告げだったのかもしれない。




