第九話 砂漠の電車
地図の店へ出かける前に、俺はリゼへハンカチを返した。
キリハに帰り着いたコハク号は、石壁沿いの停泊場で脚を畳んでいた。隣では、赤い帆のツバメ号から夕飯の煙が上がり始めている。
船長の家の窓辺に干した布は、二枚とも乾いていた。船の拭き布はオルド船長へ渡し、こちらだけを四つに畳んで持ってきた。
「助かった。ありがとう」
「手、まだ痛い?」
「物を持つと少し。でも、これを借りた時よりは平気だ」
リゼは俺の掌を見てから、布を受け取った。
洗った時にできた皺を、指で伸ばしている。
「きれいになってる」
「一回、落としかけたけどな」
「洗ってる時?」
「干す時。危なかった」
「そこは黙っててもよかったのに」
笑った彼女が、上着のポケットへしまう。
その手で帽子を直し、先に乗降板へ足を掛けた。
俺も続いた。船長には、地図の店へ行ってくると伝えてある。
港の水塔は、夕日を受けて赤くなっていた。
大きな輪を回る鎖が、がちゃん、がちゃんと鉄の桶を持ち上げる。上まで来た桶が傾くと、ざあっと水が落ちた。頭上の樋を走った水は、町の奥へ分かれていく。
昼には忙しさに紛れていた音が、仕事を終えた今は、一つずつ聞こえた。
水塔の向こうには白壁の店が並んでいる。
俺たちは巻いた地図の絵を看板に見つけ、開いていた戸から中へ入った。
*
店の真ん中に、細長い机が一本あった。
壁には地図を巻いた筒が立ち、広げて吊るした紙には、茶色い山並みと青い線が描かれている。港で使う大きな図から、手のひらほどの紙まで、同じ町がいろいろな大きさになっていた。
奥の作業机で、女の人が筆を洗っていた。
五十代の終わりくらいだろうか。白い筋の混じる黒髪を頭の後ろで束ね、細長い顔に丸い銅縁の眼鏡を掛けている。藍色の前掛けには、袖で拭いたような墨の跡があった。
「まだ見てもいいですか」
「どうぞ。片づけてるだけだから。どこへ行くの?」
俺が日本という国を探していると話すと、店主は筆を置いた。
ハーゼンさんの紹介で来たことも伝えた。彼女はトゥーラと名乗り、机の向かいへ来た。
「ニホン。どんな字を書く?」
「俺の国の字で、いいんですか」
「読めなくても、形を知ってることはあるよ」
薄い紙と筆が、俺の前へ置かれた。
筆なんて、いつ以来だろう。
袖をまくり、墨をつけすぎないようにして書いた。
日本。
二文字を見た途端に、会社の帰り道にある駅が浮かんだ。
人の流れ。自動改札が閉まる音。頭の上の電光掲示板。
昨日まで、読めるのが当たり前だった文字だ。
トゥーラさんは紙を覗くと、奥の机から分厚い帳面を持ってきた。眼鏡を掛け直し、頁を繰り始める。
隣から、リゼも覗き込んだ。
「これで、ニホン?」
「ああ」
「カイの名前は?」
俺は少し下へ、加瀬海と書いた。
最後の字を指で示す。
「ここが、海。カイ」
「こっちの三つで名前なんだ」
「名字と名前で分かれてる。最後の一つは、海っていう意味もある」
リゼが俺の顔を見た。
「あの、青い水の?」
「そう。たぶん、同じ海だと思う」
「へえ」
彼女はもう一度、紙へ顔を近づけた。
睫毛の影が頬へ落ちる。
「私、海を見たいんだ」
「まだ見たことないのか」
「うん。朝日が水の向こうから出てくるところ。絵で見て、ずっと行ってみたくて」
壁に掛かった地図の一枚へ、彼女の目が向いた。
紙の端が、青く塗られていた。
「船の仕事は、内陸が多いから。いつか、私がコハク号を操船して行きたい」
地図を見ている横顔は、さっきまでの港で働いていた時より、少し幼く見えた。
俺は海へ行ったことがある。何度も。
海岸に車を停めて、寒いからとすぐに帰ったことさえあった。
「水の音、ずっとするぞ」
「船の中でも?」
「岸に近ければ聞こえると思う。波が来て、引いて。また来る」
リゼの口元が上がった。
「寝られなくなりそう」
「初日は、そうかもな」
「海へ行けたら、一緒に早起きしてよ。寝過ごしたら困るから」
まだ行き先も決まっていないのに、俺まで起きることになった。
「分かった。寝てたら呼びに行く」
「何回でも呼んでね」
「そんなに起きないのか?」
「普段は起きるよ。でも、海に着いた日は分かんない」
そう言って笑った顔を見て、一晩中でも窓に張りついていそうだと思った。
「……その二文字」
トゥーラさんの声で、俺たちは机の向こうを見た。
彼女は開いた見本帳と、俺の書いた紙を交互に見ていた。
「やっぱり、あった」
机の上へ、帳面が置かれる。
旅の客に、故郷の名を書いてもらっているのだという。
いろいろな形の文字が並ぶ中に、見覚えのある二文字があった。
日本。
俺の字よりも細く、右上がりに書かれていた。
その下に、もう一行あった。
久賀修司。
「この人に、会えますか」
自分の声が思ったより大きく出た。
トゥーラさんが眼鏡を上げる。
「知ってる人?」
「名前は初めて見ました。でも、この字は読めます。全部」
「クガの字が?」
俺は頷いた。
指が、紙の端を押さえていた。
「俺の国の人かもしれないんです」
彼女は俺の顔を見てから、窓の外へ目をやった。
「運がいいね。あの人の船、今日来てるよ。昼に顔を出した時は、港の外で順番待ちだと言ってた。空いたら南の停泊場へ入れるって」
「南……」
「『車輪亭』っていう食堂。横に長い、銀色の船。遠くから来るから、ここへ寄るのはたまにだけど。今なら夕飯の支度をしてるはず」
リゼが、机から顔を上げた。
「水塔から、低い方の道ですか」
「そう。途中で道が二つに分かれたら、左。銀色だから、見れば分かる」
俺は紙から手を離し、頭を下げた。
「ありがとうございます」
もう一度、久賀修司という名前を見た。
知らない人の名前だった。
それでも、今すぐ会いたかった。
*
外へ出ると、足が勝手に速くなった。
リゼが隣についてくる。
俺は曲がり角の手前で、歩幅を戻した。
「悪い。道を聞いたの、リゼなのに」
「大丈夫。でも、そこは右じゃないよ」
「……すみません」
彼女が左を指した。
笑いながら、俺の袖を二本の指でつまむ。
「こっち」
白壁の家の間を抜けると、町が一段低くなっていた。
南の停泊場は、広い石の窪地だった。家を載せた船、樽を並べた船。夕飯の湯気が屋根の間を流れ、人が渡し板を上り下りしている。
その奥で、人垣ができていた。
こん、こん、こん。
鉄の足が、石を踏む音がする。
人々が道を空けた向こうから、低い船が入ってきた。
六本の脚。
その上に、平たい鉄の台。
台へ固定されているのは、長い銀色の箱だった。
窓の下を、くすんだ緑の帯が真っすぐ走っている。
四角い窓が同じ間隔で並び、その間に、左右へ開く扉が三組ある。
前面の窓の上には、小さな四角い表示が残っていた。
回送。
俺は、立ち止まった。
「カイ?」
リゼが、つまんでいた袖を離した。
船が一歩進むたび、銀の箱の中で、吊られた輪が揺れた。
白い輪。
座席の前に、何本も並んでいる。
吊り革だった。
「……電車だ」
口が、勝手にそう言った。
車輪はなかった。
線路もない。
車体の下には鉄の枠が組まれ、その外へ張り出した六本の脚が、順に石を踏んでいた。
それでも、電車だった。
駅で見たものより古い。銀の板はくすみ、緑の帯には塗り直した跡がある。
端の窓には、小さな植木鉢が二つ並んでいた。
屋根から出た煙突が、薄い煙を吐いている。
電車が、夕飯の匂いをさせて歩いてきた。
「知ってる船なの?」
すぐ横で、リゼが訊いた。
俺は頷こうとして、首を振った。
「俺の国の、乗り物だ。こんな脚は、ついてないけど」
「……ニホンの?」
船が止まった。
六本の脚が揃って曲がり、銀の車体がゆっくり低くなる。
窓の中の吊り革が、一度だけ大きく揺れた。
輪が隣の金具へ当たり、かちんと鳴る。
その音を、俺は知っていた。
前面の窓の奥で、白い頭が動いた。
少しして、中央の扉が内側から手で引かれた。
出てきたのは、白い前掛けをつけた男の人だった。六十前後に見える。背は高いが、少しだけ背中が曲がり、短い髪はほとんど白かった。
男は細い乗降板を下ろし、足元が落ち着いたのを確かめてから、人垣へ声を掛けた。
「お待たせしました。今日は魚の団子汁。米も炊けてます」
俺は動けなかった。
男の濃い眉が、こちらへ向いた。
紺色のシャツから、黒いズボン、靴へ。
最後に、俺の顔へ戻る。
彼は前掛けで手を拭いた。
「……君、どこから来た」
「日本です」
声がかすれた。
「加瀬海といいます。昨日まで、日本にいました」
男が乗降板を下りてきた。
俺の肩へ手が伸びる。触れる直前で止まった。
「怪我は」
「大きいのは、ないです」
「一人で?」
「はい。リゼに、助けてもらいました。俺が乗せてもらってる船の操船士です」
俺がリゼを見ると、男もそちらへ向き、深く頭を下げた。
「ありがとう。よく、拾ってくれた」
リゼは驚いた顔で、小さく頭を下げ返した。
男が、もう一度俺を見る。
「久賀修司。こっちではクガで通してる。俺も日本人だ」
*
俺たちは久賀さんについて乗降板を上がり、中央の扉から入った。
電車の床を踏むと、靴の裏が、きゅっと鳴った。
左右の壁沿いに長い座席が残っていた。
青い布はところどころ別の色で繕われ、客が座れるように、その前へ細い木の机が取りつけてある。
車両の一番奥は板で仕切られていた。湯気が上がり、鍋の蓋が、ことことと鳴っている。
灯りは、天井の蛍光灯ではなかった。
窓の柱に吊るされたランプに、小さな火がついていた。
久賀さんは入口に近い机へ、俺たちを座らせた。
すぐに水を二つ持ってくる。
「まず、飲んで。話は聞くから」
木の杯を握る。
指が震えて、水の表面が小さく揺れた。
家を載せた船を見た時にも、巨大な港が立ち上がった時にも、こんな震え方はしなかった。
俺の知らない、すごいものだった。
今、足元にあるのは、知っている床だった。
窓の留め金。
網棚。
天井に貼られた、色の抜けた注意書き。
『荷物の置き忘れにご注意ください』
文字が読めた。
俺は杯を置き、顔を手で覆った。
泣くつもりなんてなかった。喋れなくなるほど困っているとも、思っていなかった。
「……すみません」
「いい。ゆっくりで」
久賀さんは、急かさなかった。
隣で、布の擦れる音がした。
リゼが、さっき返したハンカチを机へ置いていた。
「また貸す」
俺は笑おうとして、うまくできなかった。
布を借り、目を押さえた。
「返したばっかなのに」
「洗うの上手になったでしょ」
彼女はそう言って、自分の水を両手で持った。
こっちをじっと見ず、窓の外に顔を向けていてくれた。
*
俺は、歩いていた道でトラックにはねられたことを話した。
次に気がつくと砂漠にいて、リゼに助けられたこと。日本の名を聞いて回ったこと。
久賀さんは濃茶の上着の袖をまくり、俺と向かい合って座った。
短い白髭のある顎へ、片手を当てている。
「電話、持ってる?」
「あります。でも、壊れて」
ポケットから出すと、彼は割れた画面を覗き込んだ。
触っていいかと聞かれ、渡す。
「ずいぶん薄くなったな」
横から見て、苦笑する。
「俺の頃は、こういうのじゃなかった」
「いつ、来たんですか」
「二十七年前。三十二だった」
俺は、彼の白い髪を見た。
二十七年。
背中が冷えた。
彼は、俺の顔を見て頷いた。
「長いだろ。俺は鉄道の整備をしてた。大雨で基地に水が入ってな。この車両へ逃げ込んで、そのまま……気がついたら、知らない海岸だった」
「この電車ごと?」
「ああ。車輪を外して、船の台へ載せてもらったのは後だ。最初は、砂浜に置きっぱなしの家だったよ」
笑うと、目尻に深い皺ができた。
「電気も来てないから走らんしな。鍋と寝床を入れたら、人は住めた」
彼はスマホを両手で返してくれた。
割れた画面を確かめ、ポケットへ戻す。
「最初から、こっちの人の言葉は分かりましたか」
「ああ。なのに、字はさっぱりだった。読むのは後から習ったよ」
「俺もです。会話はできるのに、字が読めなくて」
「どういう仕掛けなのかは、俺も知らん。同じことが起きたんだな」
俺は財布も出し、日本の紙幣を見せた。久賀さんは絵柄をしばらく眺め、今も円を使っているのかと尋ねた。
「はい」
「そうか。そこは変わらんのか」
初めて、俺の持っている金を知っている人に会った。
知らない紙切れとして返されなかった。
それだけで、また喉が詰まりかけた。
紙幣を財布へしまい、ズボンのポケットへ戻した。
久賀さんが、机から少し身を乗り出す。
「いちばん聞きたいのは、帰れるか、だな」
俺は頷いた。
隣でリゼの杯が、机へ置かれた。
「日本へ帰った人を、俺は一人知ってる」
俺の膝が、机の裏へ当たった。
杯の水が跳ねる。
「いるんですか」
「いる。向こうへ帰って、もう一度こっちへ来た」
俺は久賀さんを見たまま、動けなかった。
「帰ってきた、って……どうして」
「奥さんと子供が、こっちにいたからだよ」
彼は普通の声で言った。
俺は、立ち上がりかけていた腰を座席へ戻した。
「戻る方法も、知ってたんですね」
「ああ。だから、あいつに聞くのがいい」
「その人に、会えますか」
「森崎誠。今は、海辺のサイハという町で、灯台の番をしてる。二か月前に手紙が来た。少なくとも、その時は元気だった」
奥から、金属の匙で鍋の縁を叩く音がした。
「クガ、汁が煮詰まるよ」
板の仕切りから、茶色い髪を短く切った女性が顔を出した。五十代くらいで、腕の太い、小柄な人だった。灰色の前掛けをつけている。
「すまん。火を弱めてくれ。こっち、二人分出せるか」
「出せるけど、お客さん食べるの?」
「ああ、そうか。聞いてなかった」
久賀さんが、俺たちへ向き直る。
俺は慌てて頷いた。
「いただきます。いくらですか」
「米と団子汁で、一人二枚」
「私が払う」
リゼの手が、俺より先にポケットへ入った。
「前に、次は私って言ったから。ここで食べようよ」
銅貨が四枚、机へ並べられた。
久賀さんは女性へ渡し、俺たちの水を足してから席を立った。
「妻のミナだ。手紙を取ってくるから、先に食べててくれ」
*
米だった。
浅い器に盛られた白い粒から、湯気が上がっていた。
別の椀には、白身の魚を丸めた団子と、大きく切った青菜が入っている。
ミナさんが木の匙を置いた。
「米は海沿いから積んで来たの。こっちじゃ、あまり作れないからね」
「ありがとうございます」
匙ですくった。
少し細長く、俺の知っている米より、さらりとしている。
口へ入れると、噛むほどに甘みが出た。
続けて飲んだ汁は魚の味が濃く、少し生姜に似た香りがした。
うまかった。
電車の中で、炊いた米を食べていた。
窓の外では、知らない国の夕日が、陸上船の煙突の間へ沈もうとしている。
「カイの国でも、これを食べるんだ」
リゼが言った。
「うん。よく食べる」
「好き?」
「好き。……かなり」
彼女は俺の器を見て、少し満足そうに頷いた。
「よかった。昨日は、お店を出る時に、最後まで食べられなかったから」
肉を巻いた薄い生地と、店主に預けた串が浮かんだ。
今、俺の前には、ちゃんと座って食べられる夕飯があった。
「リゼ。連れてきてくれて、ありがとう」
「道、覚えてただけだよ」
「それが助かった。俺、一人だったら逆へ走ってた」
彼女は匙を止め、口を押さえて笑った。
俺も笑った。
さっきまでの目の奥の熱が、少しずつ引いていった。
久賀さんが封の開いた手紙を持って戻ってきた。
俺の器を見て、何も言わずに頷く。
「これだ」
机の上へ、紙が広げられた。
日本語だった。
『修司さんへ。
送ってくれた干し肉をありがとう。家族で食べました。
灯台の屋根を直しました。泊まる部屋は雨漏りしなくなったので、次はミナさんと寄ってください。
今年は、同じ船溜まりで二度、霧を記録できました。晴れるまでの長さは、二度とも違いました。記録は灯台に置いてあります。
サイハ、北の灯台にて。森崎誠』
俺は、初めから終わりまで読んだ。
家族。干し肉。屋根の修理。
この世界で、俺の国の人が、普通の手紙を書いていた。
「帰ったところを、見たんですか」
俺が尋ねると、久賀さんは首を振った。
「向こうへ着いた瞬間までは、見てない。十八年前、サイハの近くであいつを送り出した。海の霧の中へ、小舟で入っていったんだ。戻ってきたのは、二十日後だ」
「どうして、日本へ帰れたと分かったんですか」
「日本の新聞を持ってきた。俺たちがこっちへ来た年より、ずっと後の日付でな。知ってる町の駅が建て替わった写真まで載ってた。土産に、日本の袋菓子も持ってたよ」
久賀さんが、紙の折り目を指で押さえた。
「懐かしくてな。俺も食った。袋も長く取っておいた。あれを、この国で作ったとは思えん」
「その霧に入れば、帰れるんですか」
「場所は、サイハの北にある、崖下の古い船溜まりだ。入口に石の柱が二本残ってる。ただ、いつ霧が出るかは、俺には分からん。ここに書いてある通り、晴れるまでの長さも違う。森崎に、今の記録を見せてもらうといい」
彼は手紙の、二度の霧を記録したという箇所を指した。
「今も、調べてるんですね」
「ああ。日本以外へつながることもあると言ってた。だから、一人で霧を見つけて飛び込むなよ」
俺は頷いた。
さっきまでだったら、白く霞んだ海の話だけで走り出していたかもしれない。
「久賀さんは、帰らなかったんですか」
口にしてから、聞きすぎたと思った。
けれど彼は、厨房の方へ目をやった。
「行くかどうか、ずいぶん考えたよ。その時は、こっちで店を始めて、ミナと暮らしてた。結局、俺は行かなかった」
鍋の蓋が持ち上がる。
客へ汁をよそうミナさんが、こちらを見た。
「話は、あとでね」
空いている方の手だけを振って、次の椀へ向き直る。
久賀さんが笑って、手を振り返す。
「俺のことは、いい。君は昨日来たばかりだ。帰りたいなら、ちゃんと調べたらいい」
俺は手紙を見た。
日本という場所を、俺以外にも知っている人がいた。
帰るために訪ねる相手にも、名前と住所があった。
「紹介を、お願いできますか」
俺は久賀さんへ頭を下げた。
「いきなり行って、帰してくれって押しかけたくないんです。久賀さんから、俺のことを一言書いてもらえたら」
「ああ。それなら書ける。森崎も、同郷の若いのが来たら喜ぶよ」
彼が立ち上がりかける。
俺は厨房の方を見た。いつの間にか、向かいの座席にも客が増えている。ミナさんが一人で椀を運んでいた。
「今すぐじゃなくて大丈夫です。俺も食べ終わったら、器を下げるくらいなら手伝えます」
「手、痛いんだろう?」
リゼのハンカチと俺の掌を、久賀さんが見た。
「少しなら、持てます」
「じゃあ、まず自分の分を食べて。それから二つだけ頼む。重ねんでいいから」
俺は頷き、匙を持ち直した。
*
夕飯を食べ終えて、俺は自分の器を一つずつ厨房の入口へ運んだ。
ミナさんが受け取り、空いた机を拭く布を渡してくれた。
俺が拭き終えると、リゼが壁の地図を指した。
車輪亭が通る町を描いたものだという。緑の線が内陸を横切り、右の端で青い海へ届いていた。
久賀さんが、椀を下げるついでに場所を教えてくれた。
「今いるキリハが、ここ。サイハは、ずっとこっちだ。途中で風車のある峡谷を通る。水と脚の手入れは、そこで済ませるといい」
リゼが立ち上がり、近くで確かめる。
俺も隣へ並んだ。
「ここから海まで、どのくらいかかりますか」
「うちの船なら、寄り道なしで十日ほどだね。峡谷で仕事をすれば、その分延びる」
リゼの指が、緑の線に沿って動く。途中の文字は、俺には読めなかった。
「峡谷は船長が行ったことあると思う。話してた」
「リゼは?」
「私は、まだ」
指が青い所へ着いた。
リゼはしばらくそこを見てから、俺へ顔を向けた。
「船へ戻ったら、船長に聞いてみようよ。こっちへ行く仕事がないか」
「いいのか」
「私も行きたかったから」
俺の顔を見て、少しだけ声を小さくする。
「カイの国へ帰れるかもしれないって、聞いた時は……ちょっと、びっくりした。でも、分かった方がいいと思う。帰りたいのに、分からないままは嫌でしょう」
俺は頷いた。
「調べたい。ちゃんと」
「うん」
リゼは地図へ向き直った。
「じゃあ、海まで一緒に行こう。船長がいいって言ってくれたら」
俺は彼女の指の隣へ、自分の指を置いた。
船長に相談しなければならない。仕事も、船の支度もある。
ここから、すぐに帰れるわけではない。
それでも、どこへ向かえばいいかが、初めて分かった。
「リゼ」
「何?」
「朝日は、寝過ごさせないから」
「カイが寝てたら、私が呼ぶからね」
「頼む。どっちか起きてれば、何とかなる」
彼女は笑って、地図から手を離した。
窓の外で、船の家々に灯りがともり始めていた。
俺たちのコハク号も、あの町の向こうで夕飯の支度をしているはずだった。
久賀さんが、一枚の紙へ筆を走らせた。
書き終えると、読み上げながら俺に見せてくれた。昨日こちらへ来た加瀬海を紹介すること。帰還の相談に乗ってほしいこと。
最後に、森崎さんの住所が添えられていた。
俺は礼を言い、受け取った紙を丁寧に折って、シャツの胸ポケットへ入れた。
借り直したハンカチは、帰って洗えるようにズボンのポケットへしまった。
海辺の町、サイハ。北の灯台。
今夜、船長に頼んでみよう。俺も、そこまでコハク号に乗せてほしい。




