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第十話 俺の部屋が、歩き出す

 コハク号の窓が、夜の港に並んでいた。


 石壁沿いに身体を低くした船は、六本の脚を休めている。昼間は砂にまみれて見えた家々の壁が、今は軒先の灯りに照らされ、やわらかな飴色だった。

 開いた窓から、皿の重なる音がする。


 その音を聞いた途端、帰ってきた気がした。

 まだ、ここで一晩しか寝ていないのに。


「船長、いるかな」


 隣のリゼが渡し板を覗く。

 その向こう、乗り口から右の一軒目にある炊事場の前で、大きな影が振り返った。


「いるぞ。飯は食ってきたか」

「食べた! それでね、船長」


 リゼが先に渡し板へ乗る。

 俺も続いた。板が二人分の足音を、こつ、こつ、と船の通りへ伝えた。


 オルド船長は、食卓にしていた長い台を拭いているところだった。

 灰色の袖なし上着から出た太い腕に、濡れた布が小さく見える。炊事場の中では、赤い頭巾を巻いたロクが鍋を洗っていた。


「カイと同じ国の人がいたの。南の停泊場の、車輪亭」

「ほう」


 船長の手が止まった。


「俺の国へ、一度帰った人もいるそうなんです」


 言うだけで、声が少し大きくなった。

 俺は胸ポケットを確かめた。久賀さんの紹介文は、ちゃんとそこにあった。


「サイハという海辺の町に、その人が住んでいるそうです。会って、話を聞きたいんです」


 船長は布を台へ置いた。


「座って話せ。ロク、茶はまだあるか」

「薄いのでよければ」

「俺の分をこいつへやってくれ。まだ飲んどらん」


 湯気のほとんど消えた木杯が、俺の前に置かれた。

 一口飲むと、歩いてきた喉に、わずかな苦みが残った。


 久賀さんに会ったこと。

 森崎さんという人が、十八年前に日本へ帰り、またこちらへ戻ったこと。

 今もサイハの北の灯台で、霧について調べていること。


 俺は順に話した。

 日本へ着いた瞬間を久賀さんが見たわけではない、とも伝えた。けれど、帰るために話を聞ける相手がいる。それだけで、昼間とは全然違った。


「これを、書いてもらいました」


 紹介文を広げ、船長に読んで聞かせる。

 彼は、俺に読める字があることに頷いてから、腕を組んだ。


「サイハか」

「そっちへ行く仕事、ない?」


 リゼが身を乗り出した。


「私も、海まで行ってみたい。コハクで」


 船長はすぐには答えなかった。

 家々の間に伸びる通りを見て、顎を撫でる。


「海までの仕事は、まだない。ただ、途中のベルカへ荷を運ぶ依頼なら、昼に見た。風車のある峡谷だ」

「そこ、久賀さんの地図にもありました」

「水も積めるし、脚も見てもらえる。明日、荷主に話を聞くつもりではいた」


 俺はリゼと顔を見合わせた。


「その先も、海の方へ行く仕事を探してもらえませんか」


 もう一度、船長へ向き直る。


「俺も働きます。仕事をしながら、そこまで乗せてほしいです」


「先に言っとくぞ。うちは、急いで客を運ぶ船じゃない」


 船長は台の端を指で叩いた。


「荷を受けて、届けて、次を探す。横道にも入る。途中で脚の具合が悪けりゃ、何日か止まる。海までなら、一か月は超えるだろうな。五週間か、それ以上か」

「五週間……」


 久賀さんの船なら、寄り道なしで十日ほどだと言っていた。


 思っていたより、ずっと長い。

 一日でも早く、森崎さんの顔を見たい。日本の今がどうなっているのか。俺が帰れるのか。知りたいことは、いくらでもあった。


「早い船を探す手もあるぞ」


 船長は言った。


「ベルカまで行けば、海への便も増える。乗り賃を聞くくらいは付き合う」

「……ありがとうございます」


 ポケットの銅貨は七枚。

 こっちの字も、まだ一つも読めない。

 港でただ待っていても、旅費は増えないし、道は覚えられない。


「まず、ベルカまで働かせてください。その先も、できればこの船で行きたいです。急いだ方がよさそうだと分かったら、その時は相談させてください」

「ああ。降りる時まで、俺が決める話じゃない」


 船長は立ち上がった。


「俺だけで遠出を決める話でもない。ほかの連中にも聞こう」


     *


 船長が自分の家から地図を持って戻る頃には、食卓の周りに人が集まっていた。


 エダさんは縫い物を膝へ置き、銀髪をまとめた頭を地図へ寄せている。

 ボルグさんは首に掛けた手拭いで指を拭いてから、紙の隅を押さえた。夕飯の後もどこかを直していたのか、爪の脇に黒い油が残っていた。

 ロクも鍋を伏せて出てきた。


 船長が、今いるキリハから指を滑らせる。


「明日、ベルカ行きの荷を取りたい。向こうに着くまで、天気がもてば四日ほど。そこから、仕事を拾いながらサイハを目指す。しばらく遠出になるが、どうだ」

「ベルカなら、布を見たいね」


 エダさんが言った。


「この前の町じゃ、厚いのばっかりだった。暑い日に着る薄いのが欲しい」

「俺は右の後ろ脚を一度、台に載せて見たい」


 ボルグさんが地図から目を上げた。


「今すぐ止まる傷みじゃねえよ。ただ、途中でばらすより、道具の揃った所でやりたい」

「分かってる。整備の日は取る」


 船長が頷く。


 海の魚は高いのか、とロクが聞いた。

 別の戸口から、それより塩漬けにする樽を買おうという声が返ってくる。遠出するなら、明朝のうちに頼んでいた靴を受け取ってくるという人もいた。


 誰も、俺の知らない海の話だけをしてはいなかった。

 仕事や、買い物や、直しておきたいものが、それぞれにある。

 それを載せたまま、この船は旅をするのだ。


 船長は一人ずつ用事を聞き、出発を朝の荷積みが済んだ後に決めた。


「カイ。見習いの条件は、今までと同じでいいか。飯と寝床、働いた日は銅貨六枚。調べ物の時間は、その都度話せ」

「はい。お願いします」

「海まで全部、今夜決めなくていいからな。ベルカじゃ、森崎とかいう人へ手紙を出せるかもしれん。先に連絡しておけば、向こうも支度ができる」


 俺は地図の青い端を見た。


 俺たちが船で着くより先に、手紙を送れる。

 それなら、旅をしている間も、帰るためにできることはある。


「手紙の出し方も、教えてください」

「宛先は、俺が書いてやる。中身は、おまえの字でいいんだろう」

「はい。それなら、書けます」


 ロクが茶の残りを俺の杯へ注ぎ、笑った。

 リゼも隣で笑っていた。さっきより、肩の力が抜けている。


 地図を畳んだ船長が、腰の鍵束を外した。


「さて。おまえの寝床だ」

「今夜も、あの寝台を借りていいんですか」

「あれを毎晩出してたら、俺が机に行くたび、足の指をぶつける」


 昨夜、確かに一度、低い唸り声が聞こえた気がする。

 寝言ではなかったらしい。


「左の一軒目が空いた。旅の間、使え」


 鍵束から、小さな鉄の鍵が一つ外された。


     *


 使った杯を炊事場へ返し、船長についていく。

 乗り口から通りを挟んだ左手に、その部屋はあった。


 昨夜、フラナさんとテオが泊まった客室だ。

 戸を開けると、窓の下に木の椅子が一脚、その横に低い棚があった。奥は寝台になっていて、畳んだ毛布が二枚、端に重ねてある。船長が入口の壁のランプに火を入れると、床に木目が浮かんだ。


 天井は、俺が普通に立てる高さだった。

 広くはない。でも、寝る場所と、座る場所と、荷物を置く場所がある。


「本当に、ここを一人で?」

「ほかに誰を入れる」


 船長が戸口の上に手を掛けた。


「客が増えた時や、怪我人を乗せた時は相談する。普段はおまえが使っていい。鍵はなくすなよ。替えは俺が持ってるが、作ると高い」

「ありがとうございます」


 鍵を受け取った。

 手の中で、鉄の冷たさが少しずつ消えていった。


 俺の寝床だった。

 今夜だけ場所を空けてもらうのではなく、明日の夜にも帰ってきていい部屋だ。


 船長が通りへ戻ると、リゼが戸口から顔を出した。


「机、使う?」

「机もあるのか」


 彼女は窓の横の壁を指した。

 厚い板が一枚、壁に沿って留められている。


 リゼが上側の金具を外すと、かちり、と小さく鳴った。板をゆっくり手前へ倒し、裏に畳まれていた脚を起こして、床へ下ろす。

 それだけで、窓辺に小さな机ができた。


「おお」

「ここ、押してみて。脚がちゃんとはまってれば、動かないから」


 端を押す。びくともしない。

 椅子を引こうとすると、今度はそちらが動かなかった。


「あ、椅子も?」

「下」


 屈むと、椅子の脚が革の輪で床の金具につながれていた。

 留めを外したところで、リゼが笑う。


「走ってる時に、椅子だけ部屋の端まで行ったら困るでしょう」

「困る。追いつく前に転びそうだ」


 椅子を机の前へ寄せ、座ってみた。


 窓から、隣のツバメ号の赤い帆が見えた。畳まれた帆の下で灯りが揺れ、誰かが階段を上がる音がかすかに聞こえる。

 その向こうには、港の家々と、店じまいをする屋台があった。


 明日は、この窓から砂漠が見える。

 その次は、風車のある峡谷だ。


 机の広さを見て、ここなら画面を一枚置けるな、と考えてしまった。

 机の下に本体を置いて、向こうの壁に――いや、電気もないんだった。


「何を置くの?」

「前の家で使ってた道具のこと、考えてた」

「大きいやつ?」

「大きい。……けど、今はこれだけ」


 紹介文を机へ置く。

 財布と壊れたスマホを、その隣へ並べた。


「あと、操舵室の杯を持ってきたら、引っ越しが終わる」


 リゼが机と棚を見比べる。


「片づけ、すぐ済むね」

「散らかしようがないな」


 俺たちは笑った。

 足りないものは山ほどあるのに、何を増やそうか考える余裕が、さっきまでよりあった。


 リゼが机の隅にある丸い窪みを指した。


「杯は、ここ。浅いけど、ただ置くよりずれにくい。熱いものをいっぱいに入れるのは、慣れてからね」

「棚に置く時は?」

「こっちを上げて、入れて、下ろす」


 棚の前には細い木の棒が渡してあり、片端を持ち上げると物を入れられるようになっていた。


 俺は紹介文を折り直し、棚の奥へ平らに置いた。重しに財布を載せかけたが、金を出すたびに紙を落としそうだった。

 財布とスマホはポケットへ戻す。


「紙が飛ばないようにする物、何かないかな」

「布袋なら余ってると思う。エダさんに聞いてみる」


 リゼが行きかけたので、俺も立った。


「一緒に行くよ。杯も取りに行きたいし」

「まだあるよ。部屋の使い方」

「そんなに?」

「窓。開けっ放しで走ると、寝台が砂だらけになる」

「それは先に聞いておきたい」


 俺が座り直すと、リゼは得意そうに窓の留め具へ手を伸ばした。


     *


 エダさんにもらったのは、紐の付いた小さな布袋だった。

 残り布で作ったものだそうで、紹介文を入れると、ちょうどよかった。口を縛って、棚の奥へしまう。

 洗ったものを干したいと言うと、短い紐も貸してくれた。


 自分の木杯を操舵室から持ってきて、棚へ置く。

 これで、本当に荷物を運び終えた。


 リゼは戸の外から、中を覗いていた。


「忘れ物ない?」

「たぶん。あ、ハンカチ。これから洗ってくる」

「急がなくていいよ」

「明日の朝までには乾くと思う」


 ズボンのポケットから、借りていた布を出した。

 彼女はそれを見てから、机の上の空いた窪みへ目を移した。


「お茶、飲めるね。ここで」

「ああ。でも杯が一つしかないな」


 自分で言って、棚を見た。


「ベルカで、もう一つ買おう」

「お客さん用?」

「うん。リゼも、ここで飲んでいってよ」


 リゼは顔を上げた。

 灯りの近くへ来た頬が、少し赤い。


「椅子も、一つしかないよ」

「本当だ。先にそっちか」

「椅子は、炊事場のを借りればいいの」


 俺より先に決めてから、彼女は口元を緩めた。


「杯、選ぶの付き合おうか」

「頼む。割れにくくて、こぼれにくいやつ」

「それ、だいたい同じ形になる」

「じゃあ、色も見る」


 笑いながら、二人で通りへ出た。

 リゼは自分の寝床へ戻り、俺は船の後ろの洗い場へ向かった。


 桶の水を浅い盆へ汲み、ハンカチを浸す。

 擦れた掌に水がしみたので、痛まない指の腹で、少しずつ布を揉んだ。すすぎ終わった水は、床掃除用の桶へ移す。


 部屋へ戻り、借りた紐を窓の内側の二つの金具に渡して、布を干した。

 夜風に端が持ち上がり、また静かに垂れた。


 椅子を留め、机を畳む。

 初めてだから、一つずつ確かめた。


 最後に戸の鍵を回した。

 かち、と小さく鳴った。


 灯りを消し、寝台に横になると、毛布からかすかに草の匂いがした。

 足を伸ばしても、壁にぶつからない。


 通りで、誰かが小声で挨拶をしている。

 少し離れたところで戸が閉まり、もっと遠くで、船長らしい大きなくしゃみが聞こえた。


 俺は暗い中で笑った。

 ここなら、いびきは聞こえなさそうだ。


     *


 翌朝、乾いたハンカチをリゼへ返し、朝食を済ませた頃に、船長が戻ってきた。

 ベルカ行きの荷が決まったという。

 俺の最初の仕事は、赤い布を運ぶことになった。

 船祭りで、通りや競走の受付に飾る幕だという。


 石壁の上の荷車には、布を棒へ巻いたものが八本、積んであった。どれも俺の背丈ほど長く、外側を粗い包み布で覆っている。

 船長が荷主と数を確かめる間に、ロクが一本へ手を掛けた。荷主の男は、袖を肘までまくった小柄な中年で、棒の端を一つずつ指して数えていた。


「両端を二人で持つ。カイ、そっち頼む。痛むなら代われよ」

「これなら持てそうです」


 棒の端は、あの重い工具よりずっと軽かった。

 ロクと呼吸を合わせて持ち上げる。彼が前、俺が後ろになって、渡し板を上がった。


 家の間の通りへ進むと、右手で戸の開く音がした。

 エダさんが、大きな籠を抱えて出てくる。


「ロクさん、ちょっと待ってください」


 足を止めてもらい、俺は壁際へ半歩寄った。


「エダさん、先にどうぞ」

「悪いね。あんたたちも、あと七往復だろう」

「今は、数えないようにしてたんですけど」


 ロクが肩を揺らすと、布の棒も揺れた。


「笑うのは下ろしてからにしようぜ。持ちにくい」

「そっちも笑ってるじゃないですか」


 通りの奥、洗い場の手前には、両側に家のない荷置き場があった。床へ低い枠が打ってあり、樽や箱を並べられるようになっている。

 そこへ幕を一本ずつ寝かせていった。


 八本目を下ろす時、包みの隙間から、鮮やかな赤が覗いた。

 風を受けて、ごく短い端が、ぱたんと鳴る。

 俺が端を包み直すと、ボルグさんが枠の金具に縄を通し、八本をまとめて締めた。人の通る幅は残っていた。


「祭りって、何をするんですか」


 俺が聞くと、ロクは荷車へ戻る船長を顎で指した。


「船長、昔見たんだろ。配達競走」

「ああ」


 戻ってきた船長が、荷主から受け取った紙を見せてくれた。

 太い線で、二隻の陸上船が描かれている。その上に、何行かの文字があった。


「今から十日後だとよ。二隻で組んで、決められた荷を運ぶ。ちゃんと届けて、二隻とも戻るのが一番早い組が勝ちだ」

「早ければいいんですか」

「荷を壊さずにな。軽い包みだけじゃないし、通る道も平らじゃない」


 操舵室から出てきたリゼが、紙へ顔を寄せた。

 薄青の上着の袖を肘までまくり、片方の手で風にめくれる紙を押さえる。


「コハクも出られる?」

「船の大きさは大丈夫だ。組む相手がいればな」

「船長、出ようよ」

「着いてから、今年の決まりを聞く。ボルグに脚を見てもらうのが先だ」

「うん。それは、ちゃんとやる」


 リゼの返事が早い。


「競走、好きなのか」

「走っていい場所で、思い切り走れるんだよ」


 彼女はこっちを向いた。

 蜂蜜色の三つ編みが、肩から滑る。


「いつもは、食器とか、棚の瓶とか、気にしないといけないでしょう。競走なら、最初から全部しまって、速く走るための荷の載せ方を考えられるし」

「家が載ってるのは、同じだろ?」

「家は、ちゃんと留めてある」


 その答え方が、少し怖かった。


 ボルグさんが荷の縄を引き、締まり具合を確かめながら口を挟む。


「操船が荒けりゃ、それだけ遅くなるからな。脚を置き直してる間に抜かれるぞ」

「分かってる。だから、ちゃんと走ってみたいの」


 リゼは紙をもう一度見た。

 俺も、その横から二隻の船を眺める。


 オンラインゲームでは、仲間と役割を分けて大きな敵に挑むのが好きだった。

 どこまで運べるか。どこを相手に頼むか。そんな話なら、俺にもできることがあるかもしれない。


 俺は、幕を留めた縄の結び目を見た。

 あれだって、まだ一人では結べない。道中、ボルグさんに教わろう。


「俺も、見たいな」

「競走?」

「うん。リゼが思い切り操船するところ」


 彼女の灰緑色の目が、ぱっと俺へ戻った。


「じゃあ、ベルカで見てて」


 言ってから船長の方を見て、少しだけ付け足す。


「……出られたら」

「そこは忘れるな」


 船長は笑い、紙を畳んだ。


     *


 出航の前に、俺は部屋へ戻った。


 ハンカチを干した紐は外し、エダさんへ返してある。窓を閉め、上下の留めを掛けた。

 棚の布袋を奥へ押し、木杯を横に寝かせて、前の棒を下ろす。

 椅子は床へ留めた。机も壁へ戻した。


 戸を開けて通りへ出ると、船長が乗っている人数を確かめていた。

 十五人。

 朝の買い物に出た人も、みんな帰っている。


 隣のツバメ号では、フラナさんが窓から手を振っていた。

 テオも顔を出す。片手に、木の鳥を握っている。


「いってらっしゃい!」


 俺は大きく手を振り返した。


 ロクと一緒に渡し板を船へ引き込み、決められた場所へ留める。

 船長が石壁との間を見てから、操舵室へ声を掛けた。


「リゼ、出してくれ」


 板張りの床の下で、低い唸りが始まった。

 腹の底へ響く音が長く続き、その中で、かん、と太い金属が噛み合う。


 船の身体が、ゆっくり上がる。

 乗り口と同じ高さだった石壁の道が、足元から遠ざかっていった。


 曲げていた六本の脚を、立て直したのだ。

 隣の赤い帆の向こうに、港の通りが見えてくる。


 前の方で、一度、床が小さく揺れた。

 次の揺れは、背中側から来た。


 ご、と脚が地面を踏む。

 少し間を空け、また、ご、と鳴った。昨日まで身体を固くして聞いていた音を、今は、次の一歩が来るのを待ちながら聞いていた。


「カイ。あとはいいぞ。荷は俺が見る」


 ボルグさんが、縄の張った荷置き場へ歩いていく。

 俺は礼を言い、自分の戸を開けた。


 窓の前へしゃがむ。


 店の看板が、窓の右から左へ流れていった。

 次に、水を売る大きな樽。荷車を押す男。俺たちの船を見上げて、道を空ける子供たち。

 部屋の床はゆっくり揺れているのに、留めた椅子は動かない。


 俺は寝台へ腰を下ろした。


 座ったまま、町を出ていける。

 眠くなれば、このまま寝られる。目が覚めたら、別の場所にいる。


 急に、笑いがこみ上げた。

 窓と、寝台と、ほとんど空の小さな棚を、もう一度見回した。


 これから、ここに物を置ける。

 次の町で買ったものを、その次の町にも持っていける。


 まずは、木杯をもう一つだ。


 窓の外から屋台の屋根が途切れ、朝日に照らされた砂地が広がった。

 俺は部屋を出て、戸に鍵を掛けた。

 前方の操舵室の開いた戸の向こうで、リゼの三つ編みが揺れている。


 船祭りの競走のことを、もう少し聞いてみたかった。

 俺は床の揺れに足を合わせ、彼女のところへ向かった。

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