第八話 帰りは自分の船で
ツバメ号の赤い帆が、巻き取られていた。
回収場へ近づいた時、まずそれが目に入った。
昨夜まで風を受けていた布が、屋根の上で細くなっていく。そばには、回収船団のものらしい男が二人いた。
「あそこ。右の列」
リゼが操舵室の窓から指した。
隣に立つフラナさんが、布袋を胸へ抱き直した。
「何をしてるんでしょう」
「近くで確かめましょう」
オルド船長は答え、先を行く会所の船へ手を上げた。
北の回収場は、切り立った岩壁の下に広がっていた。
地面も砂ではなく、削って平らにした岩だ。左手には外された船の脚や、錆びた歯車が積まれている。右手の倉庫の前には、人が屈めば入れそうな太い鉄の管が、何段にも並んでいた。途中の継ぎ目には、太い輪とボルトが並んでいる。
その間に、昨夜の巨船が停まっている。
脚を深く曲げても、甲板は二階の窓ほどの高さにあった。手前へ下ろされた幅の広い坂が、甲板と地面を繋いでいる。
上には、まだ何隻もの商船が並んでいた。店先の布を外され、窓を閉じた家々。赤い帆のツバメ号も、その一隻だった。
人のいなくなった市場を、明るい昼の光が照らしていた。
坂の脇には黒い回収船がいる。
張り出した腕の先から、鎖が垂れていた。昨日、荷車を吊ったのと同じ船だ。
その下でセヴランが、倉庫の管を指しながら男と話している。
コハク号は、坂を塞がない少し離れた場所へ着いた。
六本の脚が曲がり、乗り口が地面へ近づく。船長とロクが渡し板を下ろした。
「テオは、ここで待っていて」
フラナさんが、息子の前へしゃがんだ。
「お母さん、船を見てくるから」
「ぼくも」
「まだ動かしていいか、分からないの。確かめてくるね」
テオは母親の袖を離さなかった。
ロクが隣へ腰を落とす。赤い頭巾の下から、黒い縮れ毛が覗いた。
「ここなら、赤い帆がよく見えるぞ。一緒に見てよう」
フラナさんはロクに礼を言ってから、息子の指を一本ずつ袖から外した。
俺は板の下で待った。彼女が下りてくると、その後ろからリゼとボルグさんも来た。
「船長が、私もツバメ号を見てきていいって」
リゼが帽子を押さえた。
オルド船長を先頭に、俺たちは会所の人たちと坂の脇へ向かった。
*
「昨日より、連れが増えたな」
セヴランが俺を見て言った。
昨日と同じ薄い外套。短い黒髪は後ろへ撫でつけてあったが、生え際には乾いた砂が残っている。新しい左の手袋で、手にした紙を畳んだ。
「ツバメ号の持ち主が来ている」
ハーゼンさんが前へ出た。
深い青の上着の裾が、風に膨らむ。
「朝の一覧にあった船だ。この港での売却は止めた。船体と登録を照合する」
「回収料は、まだもらってない」
「運んでくれと頼んだのか、本人に聞こう」
フラナさんが、俺たちの間から進み出た。
「頼んでいません。鎖を外してほしいと言いました」
「人は降ろした」
「船を返してください。息子と暮らしている家なんです」
声は大きくなかった。
けれど、最後まで言い切った。
セヴランは、彼女の袋と、俺たちの後ろにいる青い上着の係員を見た。
「まず確認してくれ。甲板にいる者には話を通す」
俺は甲板を指した。
「あの帆は、どうするんですか」
「畳んでいるだけだ。風で煽られると、隣の船へ当たる。切っちゃいない」
男たちが布を紐で留めるのが見えた。
フラナさんは一度だけ、深く息を吐いた。
セヴランの横で、もう一人の男が靴先を鳴らした。
五十代くらいの、顎をきれいに剃った男だった。日に焼けた太い首に白い襟が擦れ、生成りの外套の下から、丸い腹が少し出ている。
「船の確認はいつ終わる。管を運ぶ話は、どうなるんだ」
「空ける」
「日暮れまでに積むと言ったのは、そっちだぞ」
男の背後では、作業員が鉄管の間へ木を噛ませていた。
差し込んだ棒が管の縁に当たり、ごうん、と腹の底へ響く音がした。音は長い管の中を通り、反対の口から低く抜けた。
「こちらは?」
ハーゼンさんが尋ねた。
「倉庫の荷主だ。南の貯水場へ、あれを運んでもらう話をしていた」
男は管の山を親指で示した。
「この大きさをまとめて運べると聞いてな。だが、あの小船を全部下ろさないと、頼んだ本数は積めん」
昨夜セヴランが言っていた、巨船で荷を運ぶという話。
その荷物が、もうここにあった。
「では、その話も確認の後で」
ハーゼンさんが言った。
セヴランは口を閉じ、坂へ片手を向けた。
*
広い坂を歩いて上ると、靴底から鉄の響きが返ってきた。
昨夜は砂と人の足に隠れていた床の継ぎ目が、今ははっきり見える。店が開いていた場所には、折れた細い棒と、外れた布の留め具が落ちていた。
ツバメ号は、右側の列にあった。
低い船体に二階建ての木の家。屋根の横には、きつく巻かれた赤い帆が留められている。
四本の脚は曲がり、右側の乗り口は、俺の胸より少し高いところにあった。
セヴランの指示で、船員が小さな乗降板を下ろした。
ボルグさんが四角い顎を突き出し、板の根元を覗いた。足で一度踏み、揺れないのを確かめてから、フラナさんを上へ通す。
「ここです」
彼女は乗り口の下を指した。
木に焼きつけた三つの印が見えた。俺にはまだ読めない。
ハーゼンさんが眼鏡を近づける。
持ってきた紙と見比べ、頷いた。
「七三六。帳面のとおりだ」
フラナさんは首から細い紐を引き出した。
先についていた鍵を、家の扉へ差し込む。
かちゃり、と小さな音がした。
鍵は、彼女が持っていた。
家だけが、勝手に運ばれていたのだ。
戸が開くと、内側に掛かっていた木の匙が、壁を軽く打った。
「……そのまま」
フラナさんが立ち止まった。
俺も後ろから覗いた。
左の壁際に小さなかまどがあり、正面に食卓がある。食器棚には横木が渡され、重ねた皿が押さえてあった。右手の階段は、二階の寝室へ続いている。
食卓の下に、木彫りの鳥が転がっていた。
フラナさんが拾い上げる。片方の翼の色だけ濃い。何度も握られているのだろう。
「テオのです。昨日、持って出てやれなくて」
彼女は鳥の埃を払った。
それから台所の棚、食卓、階段へと顔を向けた。低い位置で結んだ茶色の髪が揺れる。日に焼けた頬を、何か堪えるように片手で押さえた。
リゼが後ろから入ってきた。
何も言わずに、床へ落ちた椅子の敷物を拾い、元へ戻した。
ハーゼンさんは、船内の様子とフラナさんの説明を、係員に記録させていた。
ボルグさんは家の前方へ回り、小さな操縦席を覗いている。フラナさんが鳥を上着のポケットへ入れ、彼の横へ立った。
「動かせますか」
「見えるところは、割れちゃいねえな。いつもの始め方で、ゆっくり頼む」
彼女が席に座り、足元の棒を手前へ倒した。
床下で、乾いた音が二度した。
かた、かた。
三度目に低い響きが続き、船の底がかすかに震え始める。
フラナさんの肩が下がった。
「いつもの音です」
ボルグさんは床へ手を当ててから、外の脚を確かめに出た。
まだ歩かせない。船首から伸びる二本の鎖は、昨夜と同じように張ったままだった。
*
フラナさんは機関だけを回したまま席を離れ、俺たちと乗降板を下りた。
ツバメ号の乗り口の下で、ハーゼンさんがセヴランに向き直る。
「登録と現物は合っている。持ち主が運搬を頼んでいないことも確認した。この船を、あんたの判断で売る手続きは通さない」
「なら、運んだ手間の話だ」
セヴランは、広い甲板を一度見渡した。
「船を外して、順にここから下ろす。うちの人間を使う。そこまで全部、ただでやれと言うのか」
オルド船長が一歩前へ出た。
「お前が先に動かしたんだろうが。自分で捕まえておいて、外す賃を取るな」
セヴランの顎が、少し上がった。
「半分という話が通らないなら、作業の分だけでいい。人手はただじゃない」
「私も、昨夜は自分の寝台で眠れるはずでした」
フラナさんが言った。
手は乗降板の綱を掴んでいる。
「お金は払いません。鎖を外してください」
しばらく、誰も話さなかった。
坂の下から、管を叩く音が届いた。
セヴランは俺のほうを見た。
「カイだったな。あんたは、頼み方がうまい。自分の船を逃がして、今度は会所の人間まで連れてきた」
褒めている声には聞こえなかった。
「その一隻は、金を取らずに出す。あんたらも、それを連れて帰れ。ほかの船に首を突っ込むな」
俺は、フラナさんのほうを見た。
彼女は綱を握り直して、首を振った。
「港で、ほかの方たちも待っています。私たちだけが、困っていたんじゃありません」
俺もセヴランへ顔を戻した。
「その人たちの船を、俺たちが諦める約束はできません。ツバメ号は、フラナさんに返してください」
セヴランは、目を細めた。
「ほかの持ち主は、まだ港か」
「呼べば来られます」
「いつになる。こっちにも次の仕事がある」
「先に、返すと決めてください。来ても返してもらえない場所へ、呼べません」
口にしてから、喉の渇きに気づいた。
セヴランが鎖を外さなければ、俺には切る力も、船を動かす腕もない。
けれど、ほかの人の船を置き去りにする条件まで、彼女に飲ませたくなかった。
坂の下で、倉庫の荷主がこちらを見上げていた。
空かない荷台を待たされているのは、あの人も同じだ。
俺は坂の上まで走り、声を掛けた。
「管の荷主さん。船をいつ下ろすかの話をしています。一緒に聞いてもらえませんか」
男は倉庫の作業員へ待つよう手を振り、坂を上がってきた。
俺はツバメ号の前へ案内し、船を返すための作業賃を求められていることを説明した。
荷主が外套の前を開け、汗を拭いた。
「まだ、船を返す話もついてないのか」
「もう少しだ」
「先に言っておく。あの船を載せたままじゃ、前金は出さんぞ」
荷主は足を止めた。
「持ち主が返せと言ってる船を抱えてる。そんな相手へ、うちの管まで預けられるか」
セヴランの目が、細くなったまま動かなかった。
「この船なら、一度で運べる」
「だから話を聞いた。だが、今日積めないなら、継ぎ目をばらして小さな船に分ける。管を組み直すのは、向こうでやればいい」
荷主の太い首を、汗が一筋伝った。
「手間も金も余計にかかる。こっちだって、そうしたいわけじゃない」
セヴランが返事をする前に、俺はハーゼンさんへ向いた。
「会所の船で、港へ一度戻ってもらえませんか。ネリさんが、誰がどの船に乗っているか知っています。持ち主をここへ連れてきてほしいんです」
ハーゼンさんは、手元の紙を見た。
「照合できた者からなら、連れてこられる」
「お願いします。こっちでは俺も、船を下ろす手伝いをします」
オルド船長が頷いた。
「うちからも手を出す。操船は、それぞれの船の者がやればいい。お前の部下が全部の船を動かす必要はねえ」
俺はセヴランへ顔を戻した。
「ここにある船から金を取るのか、あの管を運んで稼ぐのか。両方いっぺんは、もう無理でしょう」
風が吹き、巻かれた赤い帆の端が鳴った。
セヴランは、倉庫の前に積まれた管を見た。
それから、自分の船の張り出し腕と、まだ家を載せた甲板を見比べる。
「……昨日の船と荷は、持ち主が分かったものから下ろす。回収料も、ここで外す作業賃も取らない。それで、今日中に荷台を空ける」
「書き残す」
ハーゼンさんが言った。
「返却の記録と、損害の届けは別に扱う。返したからといって、壊れた物まで済んだ話にはしないぞ」
「それは会所で聞いてくれ。俺も話す」
セヴランは答え、倉庫の荷主へ顎を向けた。
「荷台を見てから決めろ。前金は、その後でいい」
荷主が頷いた。
運搬の話がまとまったわけではない。
それでもセヴランは、商船から金を取るのを諦めた。次の仕事を取るには、先に船を返さなければならない。
ハーゼンさんはさらに、確認の終わらない船を売ったり、回収場から持ち出したりしないことも確かめた。セヴランが頷くと、それも紙へ加えさせた。
係員が書き取った条件を初めから読み上げる。
セヴランは聞き終え、紙へ自分の印を入れた。
ハーゼンさんが青い上着の係員に、持ち主を迎えに行くよう伝えた。
俺も坂の下まで同行し、ネリさんの船と、会所で待つ人たちのことを説明した。
会所船の四本の脚が動き出す。
俺は出航を見届け、巨船の坂へ引き返した。
*
巨船の甲板へ戻ると、セヴランが開き戸へ声を掛けていた。
「係留の駆動を止めろ。鎖を一本ずつ緩める」
革帽子の男が顔を出し、頷いて下へ消えた。
昨夜、ここから合図を返していた男だ。四十くらいに見える顔の、口の周りに茶色い髭が生えていた。
床下の響きが変わった。
重なっていた低い音のうち一つが消え、少し遅れて、足の裏の細かな震えが止まる。
セヴランが、ツバメ号の前にある黒い箱へ歩いた。
右手の、擦り切れた革手袋で手車を握る。
船員が箱を開け、鎖を手車で送れるように切り替えた。セヴランは両手で支え、ゆっくり戻し始める。
ぎり、ぎり、と鉄が動いた。
張り詰めていた鎖の真ん中が、少し下がる。
船員が船側の金具を外し、鎖を床へ置いた。重い輪が順に倒れ、がらがらと乾いた音を立てる。
昨日は、二本を外すために何人も走り回った。
今、向こうが機械を止めれば、こうして緩められる。
腹の奥が熱くなった。
隣でオルド船長が、腕を組み直した。太い腕の上に、指が深く食い込んでいた。
反対側の鎖も外れた。
ボルグさんがぐるりと船の前を回り、二つの金具と足元を見た。
フラナさんは船へ戻り、乗降板を引き上げた。内側で留めてから、前方の操縦席へ座り直す。
「外れたぞ。フラナさん、立たせてみてくれ」
小さな操縦席の窓から、彼女が頷く。
曲がっていた四本の脚が、少しずつ起き上がった。関節が動くたびに、こん、こん、と船体へ音が返る。
家が持ち上がった。
フラナさんが唇へ手を当てた。
それから、すぐに操縦の取っ手へ戻す。
「動く」
「ええ。動いてます」
俺は下から答えた。
二階の窓は閉まったままだった。まだ、テオはそこにいない。
リゼが、中央の通りと坂を見た。
昨夜コハク号が駆け込んだ通路には、外された鎖が何本も横たわっている。
「先に、道を空けよう」
俺も頷いた。
船から外した鎖の端を、船員と二人で持つ。
持ち上げると掌がひりついた。床の端へ寄せるだけでも重い。ボルグさんが来て、無理に抱えず、一輪ずつ横へ送れと教えてくれた。
板切れを拾い、横倒しの桶を立てる。
リゼは坂の上から下まで歩き、縁に溜まった砂を靴で払っていた。
戻ってきた彼女が、フラナさんへ声を掛ける。
「真ん中は空いてます。坂へ向くところだけ、右の後ろ脚を私が見ますね」
「お願いしていいですか。……昨日のことを思い出すと、ここで足を出すのが」
「はい。私も、昨日は怖かったです」
リゼは笑ってごまかさなかった。
脚が踏み出す場所より外へ離れ、フラナさんの窓から見える位置に立った。
「曲がる間は、私が手を上げたら止めてください。窓から見えなくなった時も。坂へまっすぐ向けたら、下にいる船長の合図で進んでください」
坂の下で待つオルド船長が、腕を上げた。
フラナさんが両手を握り直す。
俺は乗り口のそばまで来た。
窓からこちらを見下ろす彼女へ、言った。
「テオくんを迎えてきます。歩いて戻ってこなくていいですから。船で来てください」
彼女の目が、俺の向こうのコハク号へ向いた。
赤い頭巾と、小さな栗色の頭が乗り口に見えた。
「はい」
はっきりした返事だった。
*
俺がコハク号へ戻ると、テオはすぐに立ち上がった。
「お母さんは」
「ツバメ号にいるよ。これから、あの坂を下りてくる」
俺は腰を屈め、巨船の入口を指した。
家の屋根が、船の列の間からゆっくり現れた。
赤い帆は畳まれたまま。左右の窓に日が当たり、木の壁の傷が見える。
リゼが船の横で片手を上げていた。
ツバメ号が止まる。
彼女が位置を変え、もう一度手を振ると、右の後ろ脚が床を離れた。隣の係留箱を避けて、少し内側へ着く。
家が、坂の正面を向いた。
リゼが端の通路を下りてくる。
俺たちに気づくと、帽子を押さえたまま、空いた手を振った。
テオも振り返した。
坂へ、ツバメ号の前脚が出た。
ごん。
幅広い鉄の坂が、低く鳴った。
もう片方が着く。窓枠が細かく震えるのが、ここからでも見えた。
フラナさんの顔は、正面へ向いていた。
後ろの二本が、順に続く。
家の屋根が少しずつ低くなっていった。
ロクがテオの肩へ手を置いた。
俺も、乗り口の綱を握ったまま見ていた。
前脚が、地面に着く。
音が変わった。
坂の中へ広がっていた響きが、短く、硬くなる。
右、左。
後ろの脚も岩の上へ下りた。
オルド船長が、大きく腕を回した。
ツバメ号は巨船から離れ、コハク号のほうへ歩いてきた。
「来た」
テオが言った。
「うん。来たよ」
俺が答える間に、男の子は乗降板のほうへ身を乗り出していた。
ロクが笑いながら、腰を押さえている。
「止まってから。母ちゃん、ちゃんとこっちへ来るから」
小さな船は、俺たちの前で止まった。
フラナさんが脚を曲げ、家の乗り口を地面の近くまで下ろす。
俺とロクがテオを連れて板を下りた。
向こうではリゼが、ツバメ号の乗降板を出すのを手伝っている。
最後の板が地面へ触れた途端、テオが駆け出した。
「お母さん!」
乗り口で、フラナさんが膝をついた。
テオが飛びつき、二人の身体が少し揺れる。
彼女は息子を抱き直し、耳元へ顔を寄せた。
何を言ったのかは、聞こえなかった。
しばらくして、ポケットから木の鳥が出てきた。
テオが目を丸くする。
「あった」
「食卓の下にいたよ」
小さな両手が、鳥を包んだ。
フラナさんは息子を抱き上げ、そのまま家へ入った。
開いた扉の向こうで、木の匙がまた壁に当たった。
今度は、テオの声が続いた。
*
会所の船が戻ってきたのは、その少し後だった。
甲板にはネリさんと、港で会った船主たちが乗っていた。緑の屋根の船の持ち主が、革の前掛けを押さえながら坂を駆け上がる。
ハーゼンさんが名前を呼び、本人と船を一隻ずつ照らし合わせる。
係留を外す音が、甲板の奥から続き始めた。
ネリさんはツバメ号を見るなり、足を速めた。
乗り口へ戻ってきたフラナさんの手を取る。
「よかった。間に合ったね」
「ネリさんも、ありがとうございます」
母親が頭を下げると、テオも隣で頭を下げた。
顔を上げたテオを見て、ネリさんの口元がくしゃりと緩んだ。
坂の上で、セヴランが次の船を指していた。
「鎖の輪の中に立つな。足を挟むぞ」
部下を下がらせ、自分が手車につく。
作業は速かった。昨夜、船主たちが鎖を外してくれと叫んだ時にも、彼ならこうして外せたのだと思った。
俺はツバメ号へ向き直った。
フラナさんは、キリハまで自分で動かして帰ると言った。
坂を下りてきたハーゼンさんが返却を記録し、傷んだ物があれば、港で改めて届けてくれと伝えた。
「コハク号の後ろについてこい。急がねえから」
船長が言うと、彼女は何度も頷いた。
フラナさんは布袋を家の中へ置き、戻ってきて、俺たち一人ずつに礼を言った。
テオは乗り口で、木の鳥を俺とリゼへ見せた。
「これ、飛ぶんだよ」
「投げるのか?」
「こうするの」
テオが腕を伸ばし、鳥を俺の鼻先へ持ってきた。
俺は避け損ねた。木の嘴が、こつんと当たる。
リゼが横を向いた。
肩だけが、小さく揺れていた。
「笑ったな」
「ごめん。ちょっと」
振り向いた彼女の唇の端は、まだ上がっていた。笑いをこらえようとして、かえって目が細くなっている。
*
その後、俺とボルグさんはもう一度甲板へ上がり、次の船の通り道を空けた。
緑の屋根の船も、鉄の仕事台を載せたまま坂を下りた。持ち主が窓から何度も頭を下げ、隣の船を避けて、回収場の出口へ向かっていく。
俺たちがコハク号へ戻ると、船長が呼び止めた。
「今日は、ここまでだ」
大きな手から、銅貨が落ちてきた。
一枚、二枚。俺の掌で重なり、六枚になった。
「約束の給金だ。助かったぞ」
「ありがとうございます」
「港にいる間も、同じ条件で続けるか。次に出る前に、その先は相談しよう」
「はい。お願いします」
銅貨を落とさないように、指を曲げる。
昨日の残り一枚と合わせて、ポケットへ入れた。
「帰ったら、地図の店へ行ってこい。閉まる前にな」
船長は言い、板の片づけへ戻った。
操舵室では、リゼが窓からツバメ号を見ていた。
俺が入ると、こちらへ向く。
「船長、何だって」
「今日の仕事は終わり。港にいる間も雇ってくれるって」
「そっか」
リゼの口元が緩んだ。
「帰ったら、地図の店へ行っていいってさ」
「私も行っていい?」
「頼めるか。字が読めないから、ついてきてくれると助かる」
「うん。船を停めたら、一緒に行こう」
彼女は頷き、操縦桿から手を離した。腰掛けに残っていた砂を払ってくれる。
「じゃあ、座ってて。港まで、私の仕事を見ててよ」
「ああ。頼む」
俺が腰を下ろすと、彼女は正面を向いた。
帽子から出た三つ編みが背中へ落ち、左右の手が取っ手を掴む。
船長が十五人の乗船と板の収納を確かめ、出航の声を掛けた。
六本の脚が、家々を持ち上げる。
戸棚が鳴り、足の裏へ、機関の震えが伝わってきた。
窓の外で、ツバメ号も立ち上がった。
二階の窓が開く。木の鳥を握ったテオが、そこから大きく手を振っていた。
俺とリゼは手を振り返した。
リゼは手を操縦桿へ戻し、踏み板をゆっくり押した。
コハク号が、最初の一歩を踏み出す。
赤い帆の家が、その後ろをついてきた。




