第七話 家主はここにいる
「カイ。起きて。卵、焼けるよ」
戸を叩く音がした。
目を開けると、鼻先に木の壁があった。
そうだった。船長の部屋だ。
毛布を押しのけて起き上がる。足を下ろした途端、腿の前が痛んだ。昨日、重い道具を運んだことを身体が覚えていた。
向かいの寝台は、もう空になっている。
「起きた。すぐ行く」
靴を履いて戸を開けると、リゼが立っていた。
今日は帽子を被っていない。結びたてらしい三つ編みの端を胸の前へ持ってきて、紐を締め直している。耳の横に短い髪が一房だけ残り、風にふわふわ揺れていた。
「眠れた?」
「よく寝た。船長が先に起きたのも、気づかなかった」
「いびきは?」
「途中から聞こえなくなった」
「慣れるの早いね」
リゼは感心したように言い、俺の右肩を見た。
「シャツ、エダさんが直してくれたよ」
朝の通りへ出ると、家々の屋根越しに薄青い空が見えた。
昨夜窓から漏れていた灯りは消えている。代わりに、戸の開く音や、桶を置く音が近くで重なっていた。どこかで卵の焼ける音がする。
乗り口から数えて右側の二軒目。エダさんの戸は開いていた。
声を掛けると、銀髪の頭が机から上がった。
「着てみな」
渡された紺色のシャツに、袖を通す。
肩から裂けていたところが閉じていた。裏から当てた薄い布が、腕を上げても突っ張らない。
縫い目を探して指で撫でると、エダさんが俺の肘を軽く持ち上げた。
「そこまで上がるなら、いいね」
「ありがとうございます。こんなにきれいになるんですね」
「ちゃんと洗って着な。まだ使えるんだから」
彼女は目尻に皺を寄せ、机の針山へ手を戻した。
*
朝食の支度をしているのは、エダさんの隣、乗り口に近い家だった。
開いた戸の奥にかまどが二つあり、片方では大鍋、もう片方では浅い鉄鍋が火に掛かっている。軒先には長い台が出され、椀が並んでいた。
赤い頭巾の若い船員が、鍋の中を木べらで混ぜている。
頭巾から黒い縮れ毛が少し出ていた。昨日より顔の油汚れが減った分、細い頬がよく見えた。俺とそう歳は離れていなさそうだ。
「おはようございます。何か手伝えますか」
「じゃあ、そこの椀を並べて。十七人分な」
指された棚から椀を取ると、リゼが匙を持って隣に来た。
「そういえば、名前まだだったよね。ロク。荷物を運ぶ仕事をしてる。今朝はご飯の当番」
「昨日は道具を運んでもらって、ありがとうございました。カイです」
「知ってる。船長が何度も呼んでた」
ロクは笑った。
大鍋を覗いた俺へ、木べらの先を少し持ち上げる。
「麦と芋。腹にはたまるぞ」
椀を並べ終える頃には、住民がそれぞれ戸口から顔を出した。
フラナさんもテオを連れて客室から出てくる。テオは両方の靴を履き、リゼを見つけると、自分の足を片方上げてみせた。
「靴下、あった」
「よかった。もう落とさないようにね」
朝、フラナさんへ返したのだとリゼが教えてくれた。
俺は粥を入れた椀を二つ運び、台の端の空いたところへ置いた。
リゼが卵を載せた皿を持ってきて、隣へ腰を下ろす。
白身の縁は茶色く縮れ、真ん中の黄身がまだ揺れている。
思わずそちらを見ていると、彼女は皿を自分のほうへ引いた。
「それ、私の。カイのはこっち」
もう一枚の皿が、俺の前へ置かれた。
「そんなに見てた?」
「うん。すごく」
リゼは笑いながら、匙で白身を切った。
かり、と小さな音がした。
熱い粥を一口食べる。
麦には歯応えがあり、崩れた芋が舌の上でほどけた。塩気は強くない。そこへ卵の黄身を混ぜると、急に匙が進む味になった。
「うまい」
「ロク、聞いた?」
「聞こえた。お代わりは鍋が空く前にな」
リゼも口に粥を入れた。
ふう、と吹いてから食べたはずなのに、少し熱かったらしい。唇を閉じ、目だけで俺を見ている。
俺は自分の匙を止めた。
「熱かった?」
彼女は頷いた。
冷めるのを待って、今度は少しずつ食べ始める。
その横で、俺も急ぐのをやめた。
粥をもう一口すくう。
空腹が落ち着いてきても、まだ食べたかった。
「船長。今日、どのくらいで港へ着くんですか」
通りを歩いてきたオルド船長へ尋ねると、彼は俺たちの台で足を止めた。
「昼には入れる。キリハって港だ。水を汲み上げる塔がある」
「昨夜の船のことも、そこで?」
「ああ。ネリたちと船会所へ行く。この辺を通る船の登録と、売り買いを扱ってる所だ」
船長の声を聞いて、フラナさんが顔を上げた。
「ツバメ号も、そこで登録しています」
「なら話が早い。着いたら一緒に来てくれ」
船長は彼女に頷き、俺へ向き直った。
「カイも頼む。昨夜の話を、聞いたとおりにしてくれればいい」
「分かりました」
隣で、リゼが残りの粥をすくった。
俺も椀を持ち直した。
*
食器を片づけた後、ロクに教わって軒先の台を畳んだ。
脚を折り、壁の金具へ掛ける。最後に革の留めを回したところで、ロクが台の端を引いた。
がた、と板が壁から浮く。
「あ、そこじゃない。もう一つ奥」
「これか」
「そう。それなら揺れても外れない」
もう一度留め直すと、今度は引いても動かなかった。
通りを空けた後、俺は後ろの洗い場で借りたハンカチと拭き布を洗った。
掌の擦れたところを避け、指で布を押す。油と砂の残る水を捨ててすすぎ、船長の許可をもらって、部屋の窓辺の紐へ二枚とも干した。
客室の前では、リゼが屈んでテオに話していた。
「もうすぐ出るよ。最初に船が高くなるから、お母さんと座って待ってて」
「立ち上がるの?」
「そう。それから歩く」
テオは母親の手を握って、部屋へ戻った。
リゼが立ち上がる。
俺のほうを見て、帽子を被った。
「カイも、前に来る?」
「仕事は?」
「片づけ、終わったって船長に言ってきたよ」
操舵室へ入ると、昨日の木の杯が棚にあった。
その隣の空の豆椀をロクへ返し忘れたことに気づき、炊事場へ持っていく。戻った頃には、船長が乗り口の板を収納し終えたところだった。
「十七人。出していいぞ」
リゼの手が、二本の操縦桿へ掛かった。
床の下で、ごとん、と太い音がする。
脚の関節が動き始めた。低くしていた船体が、ゆっくり持ち上がる。窓の外の砂が遠ざかり、隣の水売り船の屋根が見えてきた。
俺は腰掛けに座り、壁の取っ手を握る。
リゼが踏み板を押した。
前の脚が砂を離れ、少し先へ着く。鉄を通ってきた震えが、足の裏から膝へ抜けた。
二歩、三歩と進むうち、戸棚の小さな音が、船の歩く間隔と揃っていく。
昨夜逃げてきた船が、後ろから続いていた。
赤い帆のツバメ号は、その中にはいない。
リゼが前を見たまま言った。
「キリハの水の塔、大きいんだ。初めて見るなら、近くまで来たら教えるね」
「頼む」
風が窓から入ってきた。
少し膨らんだ右袖が、肩を引くことなく、すぐ元へ戻った。
*
砂丘をいくつも越え、日が高くなる頃、風の音に違う響きが混じり始めた。
がしゃん、がしゃん、と途切れずに続く鉄の音。
その奥で、水が落ちている。
「ほら。あれ」
リゼが顎で前を示した。
砂の平原が、途中で割れていた。
長い裂け目の両側に白い石の建物が並び、その真ん中に、四角い塔が立っている。
塔の上で、大きな輪がゆっくり回っていた。
近づくにつれ、輪に掛かった太い鎖が見えた。
鎖には鉄の桶がいくつも繋がっている。裂け目の下から上がってきた桶が、塔のてっぺんで逆さになり、水を樋へぶちまけた。
ざあっ。
白い飛沫が陽に光った。
空になった桶は反対側を下り、また地下へ消えていく。
「全部、水か」
「うん。下に水があるんだって」
塔から伸びた樋が、屋根の高さで枝分かれしていた。
その先の貯水槽の周りに、船が何隻も並んでいる。水を受ける管が船へ渡され、作業着の人が大きな栓を回していた。
昨日、桶一杯をこぼさないように運んだ水だ。
それが今、頭の上を川みたいに流れている。
コハク号は裂け目の手前で曲がり、石で縁を固めた広場へ入った。
リゼが係の人の旗を見ながら船首を寄せる。脚を曲げると、船の乗り口と岩棚の道がほぼ同じ高さになった。
ロクが渡し板を押し出した。
板の先が石へ触れた。
乾いた、短い音がした。
「キリハ港だ。まず船会所へ行くぞ」
船長が、書類を包んだ布を抱えて通りから来た。
*
上陸したのは、俺と船長、フラナさんだった。
テオはリゼと船で待つ。フラナさんは少し迷ったが、すぐ戻ると約束し、息子の髪を撫でてから板を下りた。
先に着いたネリさんが、道の角で待っていた。
昨夜と同じ茶色の前掛け。袖口の油汚れを擦りながら、向かいの建物を指す。
「こっち。ほかの船の人も来てる」
船会所は、水の塔のそばにある平屋だった。
広い庇の下に長椅子が並び、開いた窓の奥に、何冊もの厚い帳面が見える。
戸をくぐると、鉄の鎖の音が少し小さくなった。
奥の机から、男が顔を上げた。
五十代くらいだろうか。広い額の下に丸い眼鏡を掛け、顎には短い灰色の髭がある。深い青の上着の袖口に、黒い染みがついていた。
「昨夜の港の件か」
「ああ。コハク号のオルドだ。逃げた船の者と、船を残した者を連れてきた」
「ハーゼンだ。ここの登録と売買を見ている。座ってくれ」
船長が布を広げ、昨夜の紙を机へ置いた。
ハーゼンさんは一枚ずつ目を通した。途中で何度か、船の名前と、誰が直接見たのかを尋ねる。
ネリさんが答え、船長が指で行を示した。
壁際には、昨夜見た青い首布の船長と、知らない人が数人いた。
皆、話に耳を傾けている。
ハーゼンさんは、読み終わった紙を机の左側へ置いた。
「今朝、回収船団からも船の一覧が来ている。売却の相談だ」
フラナさんの手が止まった。
膝の上で握っていた布袋が、かさりと鳴る。
「もう、売られるんですか」
「まだだ。この港で船を売るなら、持ち主を確認する。運んできた者が、勝手に売っていいわけじゃない」
ハーゼンさんは引き出しから別の紙を出した。
机の上に二枚を並べ、指を左右へ動かす。
「持ち主から異議が出た船は、確認が済むまでここで売らせない。まず、誰の船かを確かめたい」
フラナさんが、袋を椅子の横へ置いた。
「ツバメ号です。赤い帆で、四本脚の。二階に寝る部屋があります」
「あなたが持ち主か」
「はい。フラナです。前にここへ届けを出しています」
彼が眼鏡を押し上げ、後ろの棚から帳面を取った。
重い表紙が机へ下りる。
ページを探す間に、壁際の男が立った。
四十代くらいで、分厚い革の前掛けに小さな焦げ穴がいくつもある。
「俺の船もだ。緑の屋根で、荷台が後ろにある。鉄の仕事台も取られた」
「こっちは商品を全部置いてきたんだぞ」
別の声が重なった。
ネリさんが二人へ顔を向ける。
「順に聞いてもらおう。あたしらも、まだ話してる」
ハーゼンさんは開いた帳面を片手で押さえたまま、人数を見た。
机の上には、昨夜の紙も、船団から来たという紙もある。
俺は椅子から立った。
「確認できた船から、先に売るのを止めてもらえますか。皆さんを呼ぶのは、俺が手伝います」
ハーゼンさんが俺を見た。
「全員の話が終わる前に、ということか」
「はい。この人たち、船に家も仕事の道具もあるんです。まず自分の船が売られないと分かれば、次の話を落ち着いてできると思います」
俺自身、今朝着るシャツ一枚を直してもらって、ほっとしていた。
それを家ごと失う話を、座って順番を待ちながら聞くのはつらい。
ハーゼンさんは、フラナさんの前へ帳面を向けた。
「じゃあ、これを先に確認しよう。船体に焼いてある登録番号は分かるか」
「七三六です。右の乗り口の下にあります」
「届けの記録と合っている。ネリ、この船との取引は」
「水を売ってる。昨夜も届けた。ここにいるカイと、コハク号の操船士が運んだよ」
「俺も見ました。窓から息子さんが手を振ってくれて」
俺が答えると、フラナさんがこちらを見た。
声の出ないまま、頭が小さく下がった。
ハーゼンさんは新しい紙へ書き込み、机の端にあった印を取った。
どん、と木に響く音がした。
「ツバメ号は売却停止として扱う。会所の窓口と仲買人へ知らせる。これはあなたの控えだ」
渡された紙を、フラナさんは両手で受け取った。
「これで、勝手に売られることはないんですね」
「この港では通さない。ただ、船はまだ相手の手にある。返させるには、現物を確かめに行かなきゃならん」
彼女は紙から目を上げた。
「行きます」
「北の回収場だ。船団の者にも、持ち主を連れて確認に行くと伝える」
「私が行きます。船の中も、どこを直したかも、私が説明できます」
さっきまで膝の上で握られていた手が、紙の端をしっかり押さえていた。
船長が彼女の隣で頷いた。
「俺も同行する。コハク号を出そう」
*
そこからは、船の名前を一隻ずつ確かめていった。
窓口には、短く髪を切った二十代くらいの女性がいた。彼女に次の名前を読んでもらい、庇の下で待っている持ち主を呼ぶ。字は読めなくても、呼びに行って椅子まで案内することはできた。
急いで説明を始める人には、先に名前を聞く。
係の人が名簿にないと告げた船は、ネリさんに事情を聞いてもらう。
自分も話を聞かれた時は、鎖を外してほしいと言った船長に、セヴランが何を要求したかを話した。
記録された内容を読んでもらい、間違いがないと答える。
最後の人を案内した頃、窓から吹いた風で、机の紙が一枚浮いた。
俺が押さえると、ハーゼンさんは礼を言い、重しを置き直した。
「あの。もう一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「ニホンという国を、知ってますか。俺、そこへ帰る道を探してるんです」
彼は顔を上げた。
「ニホン?」
「はい。俺のいた国です」
ハーゼンさんは棚の端から小ぶりの帳面を取り、何か所かを繰った。
それから首を振る。
「ここに届けられている航路の地名には、ないな。どの方角から来た」
「それが、分からなくて」
短く息を吸った。
「気がついたら、砂漠にいました。船に助けてもらったんです」
彼は眼鏡越しに俺を見た。
船長が横から、俺を拾った岩場のことを付け加えた。
「ここにないから、ない国だとは言わんよ」
ハーゼンさんは帳面を閉じた。
「塔の向こうに地図を扱う店がある。船から買った古い航路図も置いてる。帰ったら、そこへ行ってみるといい」
「ありがとうございます」
場所をもう一度聞き、覚えた。
今まで尋ねた船長の知り合いにも、日本を知る人はいなかったと、帰り際にオルド船長が教えてくれた。
すぐ帰り道が見つかるとは思っていなかった。
それでも、また一つ、知らないと言われると胸にこたえた。
外へ出ると、塔の桶が水を空けていた。
風に飛んだ細かい飛沫が、頬に触れた。
フラナさんは庇の下で、控えの紙を袋へ入れていた。
折らないように、袋の片側へ沿わせている。
「カイさん」
呼ばれて、足を止めた。
「一緒に来てもらえますか。ツバメ号のところまで」
船長を見た。
彼は頷いた。
「ああ。頼むつもりだった」
「分かりました」
フラナさんへ向き直る。
「行きます。ツバメ号を取り戻すの、手伝わせてください」
彼女は頷いた。
昨夜、子供を抱えたまま声を詰まらせた時とは違った。袋を持つ手を直し、自分から船のほうへ歩き始めた。
*
コハク号では、リゼが乗り口で待っていた。
フラナさんが紙のことを伝えると、彼女はぱっと顔を上げた。
「じゃあ、取りに行けるんですね」
「確認に行く。話はまだこれからだ」
船長が答えた。
「ツバメ号は、ここで勝手に売れなくなった。会所の船と一緒に北へ出る。準備を頼む」
「うん」
リゼはすぐに操舵室へ入り、窓を開けた。
俺が板を上がると、窓越しに声を掛けてくる。
「カイも行く?」
「ああ。家主さんから頼まれた」
「じゃあ、板を片づけたら教えて。船長の合図で出すね」
俺は乗り口から、通りのほうを振り返った。
フラナさんが客室から出てきたテオを抱き上げ、何か話している。テオは何度も、港の向こうを指した。
水の塔の脇から、細身の四本脚の船が出てきた。
甲板にはハーゼンさんと、もう一人、青い上着の係員がいた。ハーゼンさんが、コハク号へ手を振った。
俺は渡し板を上げる船長を手伝い、綱を留めた。
船長が板の固定と人数を確かめ、出航の許可を伝えてくれと言った。
俺は操舵室へ顔を出す。
「板、片づいた。船長も、出していいって」
「分かった」
リゼが正面へ向き直る。
操縦桿を握った手に力が入り、六本の脚が船体を持ち上げ始めた。
今度の行き先は、北の回収場。
俺たちは、ツバメ号を取り戻すために出航した。




