第四十九話 その舟を止めろ
「頭、下げて!」
ティアの声に、俺とリゼは同時に屈んだ。
濡れたシャツの裾が、髪を撫でていく。家舟の軒と軒の間を、ツユクサは水音だけ残して抜けた。
前に座ったリゼの編み髪が、俺の膝へ垂れている。
俺は目の前の洗濯物が過ぎるまで待ち、それから顔を上げた。
「もう、大丈夫?」
「次、あるよ」
ティアが言い終わる前に、リゼが俺の袖を引いた。
二本目の竿が頭の上を通る。
曳かれていく店を、家の裏から追いかける。
ゲームなら近道を覚えた奴が得意げになる場面だ。俺はその後ろで、シャツに負けかけていた。
「ティア、前! 桶が出てる」
リゼの指す先で、窓から吊られた桶が水面へ下りてきた。
ティアは舟を止めず、左の家へ声を張る。
「おじちゃん、桶、引いて!」
「なんだ、そんなに急いで」
「食堂、持ってかれる!」
「何だって?」
がらがらと滑車が鳴り、桶が上がった。
老人が窓から顔を突き出す。白い髭の先から、歯磨きに使ったらしい水が落ちた。
「昇降口へ行くのか!」
「そう!」
「おい、そっちの窓! 舟が通るぞ!」
声が先へ飛んだ。
隣の家で物干し竿が引かれる。その向こうで、張り出していた鎧戸が閉じた。
櫓を立て直したティアが、大きく水を押す。
あの窓から呼ぶ商売を、代表はやめると言った。
今、その窓の人たちが、俺たちを先へ通している。
*
水路を抜けると、目の前に水船の昇降口があった。
山の斜面に据えられた大きな箱が、今は池と同じ高さまで下りている。舟は開いた口から箱の中へ入り、水ごと上の町へ運ばれる。
入口の右には、係が綱を受け取る細長い桟橋。その外側へ、ティアがツユクサを寄せた。
まだ曳き船はいない。
だが、広い水路の角から、低い機関音が近づいてくる。
「係の人を呼んでくる!」
リゼが桟橋へ上がった。
俺は立ちかけて、舟が揺れたので座り直す。自分まで上がって、誰が女主人へ声を掛けるんだ。
「ティア、食堂の横へ行ける?」
「止まってくれればね。今、綱の間には入らないよ」
角を曲がり、曳き船が姿を見せた。
その後ろで、食堂の煙突が揺れている。女主人は船縁に両手を置き、こちらを見るなり口を開いた。
「ティア! 上じゃない、戻してほしいんだよ!」
前の船へも聞こえる声だった。
けれど、日に焼けた四十代ほどの船頭は、舵を握り、開いた昇降口を見たままだ。
俺は立たずに声を張った。
「船頭さん! その人の話を聞いてください!」
「岸の担当と話はついてる!」
「ついてません。本人が、戻してくれと言ってる!」
機関が唸る。俺の最後の声が、その音に潰れた。
男の背中を見て、俺は奥歯を噛んだ。
聞こえないのか。聞くつもりがないのか。どちらでも、叫び続けているうちに箱へ入られたら終わる。
桟橋の先で、リゼが係を連れて走ってきた。
彼女は食堂を指し、女主人が乗っていることを伝えている。
「まだ話が済んでないの。閉めないで!」
灰色の作業着を着た、四十がらみの係だった。鎖の手前の足場へ出て、両腕を広げる。
「待て! 入口で止まれ!」
曳き船の男が顔を向けた。
水を叩いていた船尾の羽根がゆっくりになり、がこん、と機関が止まる。食堂舟は少し遅れて近づき、曳き綱が水へたるんだ。
ティアは綱の外を回り、食堂の横へ舟をつけた。
俺と女主人の間には、店の低い手すりしかない。灰色の髪がほどけ、前掛けには煮込みの汁がついていた。
「けが、してませんか」
「してないよ。客を降ろしたら、いきなり引っ張られて。あたしは移るなんて言ってないからね」
女主人が、握っていた手すりを一度叩いた。
桟橋で係と話していた曳き船の男が、こちらを向く。
「上へ運べと言われて来たんだよ。こっちだって、次の舟が待ってるんだ」
「なら、会社の人をここへ呼んでください。その間、この舟は横へつけてほしいです」
俺は桟橋の外側を指した。ツユクサの後ろには、舟一艘をつなぐ空きがある。
上げるか戻すかを、今ここで勝手に決めさせない。まず、女主人が話せるところで止める。
係が女主人へ聞いた。
「あんたは、どうしたい?」
「店へ戻る。昼飯の途中のお客が二人、岸にいるんだよ」
「……分かった。ここへ寄せよう。嫌だと言ってる人を閉じ込めて、上げるわけにはいかんよ」
男は舌打ちしたが、舵へ戻った。
ティアが小舟を離す。リゼと係が桟橋で綱を受け取り、曳き船は食堂をその外へ寄せた。
濡れた綱が、杭を一周する。
係が結び終わるまで見てから、俺はようやく息を吐いた。
止まった。
上へ運ばれる前に、間に合った。
女主人は前掛けで顔を拭き、店の中を振り返った。
「ああ、鍋の蓋。ずれちまってる」
「俺、直しましょうか」
「あんたはその手を休ませな。あれ、重いんだよ」
いつもの声だった。
さっきまで助けを求めていた人が、鍋の心配をしている。俺は頷き、手を膝に戻した。
会社への連絡は係が使いを出した。
来た担当は、下に残っても明日は水がなくなると繰り返した。
女主人は首を振った。
「明日どうするかは、戻ってから決めるよ。客に断りもしないで、店を畳めるもんか」
俺は担当へ、元の岸を指し示した。担当はまだ食堂を入れない係を見てから、船頭へ戻すように言った。
ほかの舟を先に上げる間、脇で待たされ、曳き戻してもらえた時には日が傾いていた。
俺とリゼは岸を歩いて戻り、食堂の綱が元の杭へ結ばれるところを見届けた。
椀を返しに来た二人の客へ、女主人が鍋から煮込みをよそい直す。
「食べ損ねた分は、お代はいらないよ」
「いや、俺のは食べたんだ。椀を返せなかっただけで」
「じゃあ、お代はいるね」
リゼが俺の隣で、声を押し殺して笑った。
俺も笑った。ずっと身体に入っていた力が、少し抜けた。
「係の人を呼んでくれて、助かったよ」
俺が言うと、リゼは綱を引いた時に汚れた袖を見た。
「コハクでも、入口の人が止めたら止まるから。船頭さんより、あの人に見てもらおうと思って」
「俺、後ろへ叫んでばっかりだった」
「聞いてなかった方が悪いんだよ」
彼女は汚れた袖を折り返した。
「明日も、ここで食べたいね」
俺は頷いた。
そのためには、明日の昼を何とかしなければならない。
*
コハクへ帰る前に、俺はティアへ、追いかけてもらった舟賃を聞いた。
彼女が言った二枚を渡す。受け取った銭を親指で弾きかけ、落としそうになって両手で掴んだ。
「今日は、それやめといた方がいいよ」
「……うん。あたしも、そう思った」
夜、船長は下の町を回って戻ってきたローヴェを、コハクの前で待っていた。
白い上着の青い袖が、灯りの下へ入ってくる。
「使いから聞きました。支えを確かめるまでは排水を待つよう、会社に伝えましたよ」
ローヴェはオルドへ言った。
「今夜から明朝にかけて作業するそうです。残った舟は、私たちも見て回ります。陸の荷場は、明日も空けておいてください」
俺は暗い池を見た。
いくつもの灯りが水の上を動いている。長い材木を積んだ作業舟が、家の下へ入っていくところだった。
明日までに、あれが全部間に合えば。
そう思ってから、俺は昼のザクの声を思い出した。
支えりゃ何でも立つと思うなよ。
*
翌朝、コハクでは荷場を空け、避難に備えた。リゼも船の点検を済ませてから、俺と下池へ出た。
昼が近づいた頃、俺たちはティアの舟でザクの工房へ着いた。
支えの作業を確かめ、困っていれば船長へ伝える。舟賃は船長がティアと別に相談してくれている。
工房は岸から少し離れた水面に浮かび、細い桟橋で陸とつながっている。
岸から見て左側に屋根のある作業場、右側には長い材木が何段にも積んであった。その重い側の下に、会社の作業員が木の支えを組んでいた。水越しに、池底の石畳へ据えた太い脚が見える。その上へ横木を渡し、水が抜けた時に船底を受けるのだ。
俺たちの小舟は、工房の正面へ寄った。
入口にいたザクが、白い眉を吊り上げる。
「足元、気をつけな。中を動かしてる」
作業台の周りへ、鉋や鑿の入った箱が積まれていた。材木の束も何本か、積み場から入口の方へ移されている。
俺が工具箱へ手を伸ばすと、ザクが首を振った。
「でかいのは駄目だ。若いのを二人、呼んでる。お前は道を空けといてくれ」
もどかしいが、掌まで裂けたら、本当に邪魔になる。
リゼが桟橋へ上がって、入口に積まれた空箱を岸へ運び始めた。俺も岸へ上がり、軽い空箱を一つずつ受け取った。
工房の脇では、ローヴェが作業員と話していた。
青い袖の隣で、茶色の帽子を被った三十代ほどの男が帳面を閉じた。会社の作業を取りまとめているらしい。
「ここも設置済みで上へ知らせました。残りは、隙間を詰めるだけです」
「まだ下に人がいるのに、済んだと伝えたんですか」
「柱は立ってますから。最後の締めだけですよ」
ザクが作業場から出てきた。
「その最後が終わってねえんだよ!」
俺は工房の右端へ目を向けた。
張り出した床の下に小さな筏があり、腰を屈めた作業員が一人乗っている。立てた角材と船底の間へ、薄い木片を打ち込んでいた。
槌が鳴るたび、筏が水の上で揺れる。
ローヴェが帳面の男へ腕を伸ばした。
「排水を待たせてください。ここの確認は終わっていない。すぐに使いを――」
遠くで、鐘が鳴った。
正午の鐘だった。
男が斜面の上を見た。
ローヴェは部下を呼び、排水を止めさせるため上の詰所へ走らせた。自分は池に残り、作業員を舟の下から出すよう指示する。
筏の男は、まだ締まっていないと怒鳴った。
ザクも下へ声を張った。
「分かってる! いいから先に出ろ!」
筏が工房の下から離れた。
煤けた帽子の若い男が、槌を握ったまま、組みかけの木を見ていた。
俺とリゼは箱を置き、近くの家舟へ出てくるよう呼びかけた。
支えの済んだ舟も、まだの舟もある。すぐ出られる人には、桟橋の入口で待ってもらった。
上からの返事は、なかなか来なかった。
人を岸へ誘導し、工房へ戻る。その間にも、岸の石に濡れた帯が現れた。
水面との間が、少しずつ開いていく。
下への水を止めただけではない。池にあった水まで、抜かれ始めていた。
ザクは工房の中で、重い工具箱を入口へ寄せていた。
リゼが桟橋を渡りかけ、足を止める。
「待って。今、右が下がった」
俺も顔を上げた。
左の船縁は止まったのに、右の材木側だけが水と一緒に下がっていく。支えが、重い側を受け止めていない。
ぎっ、と、太い木が鳴った。
「ザクさん、岸へ!」
俺の声に、ザクは箱を置いた。
出口へ向けて、一歩踏み出す。
その背後で、材木を留めていた綱が切れた。
何本もの角材が、右の船縁へ転がる。
工房が、ザクを乗せたまま横倒しになり始めた。




