第五十話 持っていけないもの
工房の右端が、右隣の桟橋へ叩きつけられた。
杭が一本折れ、赤茶けた屋根が大きく揺れる。そのまま倒れ切るかと思ったところで、舟の重さが桟橋に掛かり、傾きが止まった。
工房の正面にも、岸からまっすぐ伸びる桟橋がある。こちらは残っていたが、先端と戸口をつなぐ渡し板が外れていた。
戸口が斜めに下がり、板は水の上で裏返っている。
ザクは戸口の柱にしがみついていた。白い眉の上から、血が一筋流れている。
ここから手を伸ばしても、届かない。
「ティア、戸口へつけられる?」
「正面なら。リゼ、乗って!」
ティアがツユクサを桟橋の脇へ寄せた。
リゼは正面の桟橋を岸寄りへ戻り、小舟へ下りる。すぐに舟底へ膝をついた。
ティアが岸へ投げたツユクサの綱を、俺は受け取った。
これを引けば小舟を岸へ戻せる。だが、布を巻いた掌に縄が食い込んだ瞬間、指に力が入らなくなった。
すぐ横に、茶色の帽子の男がいた。
支えは済んだと報告した、会社の担当だ。帳面を抱え、傾いた工房を見ている。
「それ、置いて。綱を持ってください」
男が俺を見た。
「あなたの手が要るんです。お願いします」
責める言葉なら、いくらでもあった。
今、それを言っている時間はない。
男は帳面を足元へ落とし、両手で綱を取った。
俺はティアへ声を掛ける。
「綱は、この人が持ってくれる!」
「まだ引かないでね。合図したら、岸へ!」
櫓が水を押す。
ツユクサの横腹が、工房の戸口の下へ入った。リゼが両膝をついたまま、ザクへ腕を伸ばす。
「ザクさん、こっち。飛ばないで、身体を下ろして!」
ザクの腕が動いた。
けれど、柱を掴んだ手が離れない。
足元の床は水の方へ傾いている。柱から手を離せば、滑り落ちる。舟は揺れていて、伸ばされたリゼの手も上下していた。
俺は自分の手を見た。あそこへ行っても、誰かを引き上げることはできない。
それでも、ここから見えることはある。
「ザクさん、リゼを見て。舟、来てます!」
白い眉が動いた。
ザクが俺を見て、それから足元の小舟を見る。
工房の下で、ばき、と音がした。
ザクが柱から手を離した。
リゼがその腕を受け、戸口の下へ身体を誘導する。ザクの腹が舟の縁へ乗り、片足が水を蹴った。
ティアは反対側へ体重を移している。
「そのまま、中へ!」
リゼの声に、ザクが肘で身体を押した。
二人が舟底へ倒れ込んだ。
「引いて!」
俺が叫ぶと、会社の男が綱を引いた。
ティアも櫓を押す。ツユクサの先が岸を向き、工房の戸口から離れた。
直後に、隣の桟橋が折れた。
屋根が横へ倒れ、柱が斜めに抜ける。
ざあっ、と積んであった材木が水へ落ちた。工房の床が割れ、作業台の片側がその隙間へ沈んでいく。
あの台で、ザクは古い木を継いでいた。
リゼが選んだ材を削り、ボルグが鉄の帯を曲げていた。
台の上から何かが転がった。
金属が、からん、と一度だけ鳴る。
次の瞬間には、屋根の板がまとめて被さり、何も見えなくなった。
*
ザクを岸へ上げたのは、ローヴェと会社の男だった。
俺は濡れた足元から木片をどけ、リゼは自分の手巾をザクの額へ当てた。
「ここ、押さえていてください」
「ああ」
短い返事がある。
息もしている。立ち上がろうとしたので、ローヴェが肩へ手を置いて座らせた。
俺の膝から、遅れて力が抜けた。
岸へ腰を下ろすと、石が冷たかった。
リゼも隣へしゃがんだ。袖が肘まで濡れている。
彼女の手が俺の手首へ触れ、巻かれた布を確かめた。
「引かなかった?」
「途中で代わってもらった」
「うん。よかった」
声の最後が、少し震えていた。
俺は礼を言おうとして、うまく息を吸えなかった。
「……ありがとう。あの人を、助けてくれて」
「私も、手が届いてよかったよ」
リゼは俺の手首を一度だけ強く握り、離した。
すぐそばで、ザクが水面へ身を乗り出す。
「長いのを、拾ってくれ」
折れた角材が、岸近くへ流れてきていた。
会社の男が棒を伸ばそうとすると、ザクが首を振る。
「そっちじゃねえ。茶色い方だ。まだ使える」
男は言われた木を引き寄せ、岸へ上げた。帽子が水へ落ちたが、拾わなかった。
ザクは濡れた切り口を指で撫でた。しばらく触ってから、いつものように節で叩く。
こつ、こつ。
三度目を叩く前に、手が止まった。
俺は、直せますよね、と聞きかけた。
その言葉を、飲み込んだ。
舟の底は横を向き、屋根の半分が水へ浸かっている。作業台のある場所には、折れた柱が重なっていた。
木を一本拾えば戻るものではない。
「乾いた材も、あそこにあったんだ」
ザクが言った。
「使う時まで、雨にも当てねえで。あれだけ……」
彼は木から手を離した。
膝の上に置いた掌には、木屑が貼りついていた。
俺は、何も言えなかった。
命は助かったと、今この人に俺が言って、それで何を終わらせるつもりなんだ。
*
岸の向こうから、子供の泣く声がした。
工房の隣の桟橋は、根元まで折れていた。そこから出入りしていた家舟が二艘、岸へ渡れずに残っている。
奥の舟の戸口に、幼い子を抱えた女の人が立っていた。四十くらい、髪を後ろでひとつにまとめ、片足には靴を履いていない。
ティアはザクを下ろすと、すぐに櫓を握った。
俺は小舟へ向き直る。
「俺も乗せて。岸へ上がる人を受け取る」
「カイは、ここでお願い。乗せてくるから」
彼女は俺の手を見ていた。
俺は頷き、舟から離れた。
リゼがもう一度ツユクサへ下りる。人を乗せる場所を空け、前の腰掛けの脇へ膝をついた。
ローヴェが岸を回って家舟へ声を掛ける。
人を乗せられる作業舟も、こちらへ寄せ始めていた。
ティアは浮いた材木の間へツユクサを進めた。
朝ならまっすぐ通れた場所で、何度も櫓を入れ直している。家の窓から差し出された子供を、舟底に座ったリゼが受け取った。
母親が舟へ移りながら、家を振り返る。
「戸を閉めてない。ちょっと待って、閉めてくるから」
「あとにしましょう。今は、こっちへ」
リゼが腕を支えた。
女の人は戸を見たまま、舟の腰掛けへ座った。
俺は岸へ着いた子供を、抱き上げずに低い石段へ立たせた。母親が手を引き、二人で上がってくる。
子供は濡れた靴下を嫌がって、片足を振っていた。
泣いているのに、母親がちょっと笑う。
「分かった。脱ごうね。ここまで来たもんね」
ツユクサは、もう次の家へ向かっていた。
荷場へ続く岸道で、杖をついた老人が足を止めていた。腰の曲がった、七十くらいの男だ。こちらで見つけた椅子へ座ってもらい、俺は近くの作業員へ、コハクまで走ってもらった。
怪我人と、歩くのが難しい人がいる。船長へ、ここへ人を迎えに来られるか聞いてほしいと頼む。
作業員は行き先を確かめると、岸道を走った。
それから俺たちは、人を下ろし、空いた舟へ次の行き先を伝えた。
運べる荷は一人で持てる物だけ。戻ろうとする人に、何度も待ってもらう。
出てきてくださいと言った俺へ、荷物を置いた人が何度も振り返る。
後で取りに戻れる、と言ってほしいのだと思った。俺には、それを言えなかった。
*
コハクの足音が、岸道から近づいてきた。
かちん、と金具が噛み、重い脚が石を踏む。
荷場とこちらを結ぶ、幅の広い道を進んでくる。操舵室の窓には、オルドの姿があった。
水に浮く家が傾いたすぐそばへ、六本脚の家が来た。船内の通りでは、住民たちが戸を開けて待っている。
オルドは広い岸で船を止め、脚を折った。
リゼは、次の客を岸へ送り届けたツユクサから上がり、コハクの操舵室へ向かった。船長と代わって操縦桿を握る。
ザクを見たボルグが、船から下りてきた。
いつもの工具袋を肩に掛けている。
「どこ、やった」
「額だよ。少し擦っただけだ」
「頭は見せろ。少しかどうか、お前が決めるな」
ボルグは言いながら、ザクの肩へ腕を回した。
工房の方を、一度見た。
口が開きかけたが、何も言わず、ザクを船へ連れていく。
エダが通りへ敷物を出していた。
ザクと、椅子で待っていた老人がそこへ座る。さっきの親子も、船長に呼ばれて上がってきた。子供の靴下は、母親の手の中にある。
船が揺れた時に掴まれるよう、エダが戸の脇の手すりを示した。子供は小さな両手でそこを握った。
オルドは岸の人へ、空けた荷場の方へ歩くよう声を掛けた。
俺には、こう言った。
「先にこの人らを運ぶ。戻ったら、また乗せよう。全部を一度には積めん」
俺は頷いた。乗せたのは四人。通りを人で埋めず、横になれる場所を残している。
コハクが広い岸を離れ、下の荷場へ戻る。俺は岸へ残り、次に乗る人を待ってもらった。
ティアも小舟を寄せ、女主人を下ろした。
前掛けを外した食堂の人は、大きな鍋を両腕で抱いていた。
「舟の中は片づけたよ。火も落としてきた」
鍋を岸へ置くと、肩が大きく上下した。
昨日、俺たちが戻した店だ。今は傾いた隣の舟が寄りかかり、あの場所でまた煮込みを作れるようには見えなかった。
それでも、人は岸へ来られた。
俺は女主人の座る場所を空けた。
上へ行っていた保安の使いが、息を切らして戻ってきた。
「排水口、閉めさせました!」
俺は顔を上げた。
ローヴェが使いから話を聞く。岸の濡れた帯はしばらく広がり続け、やがて、石の同じ割れ目で止まった。
「水を入れたら、舟は戻せますか」
俺が聞くと、ローヴェは折れた桟橋を見た。
「今は戻せません。支えを直さずに浮かせると、倒れた舟が動いて、人を挟むかもしれない。先に、残っている人を岸へ上げます」
女主人が膝の上で、両手を擦り合わせた。
「あたし、寝床も店なんだよ。竈の後ろにあるの」
ローヴェは頷いた。
「今夜は、戻らずにいてください。会社が使わせると言った倉庫も、人を入れられる状態か確かめさせています」
女主人は返事をせず、自分の店を見た。
鍋の蓋のつまみを握り、また離す。
「じゃあ、今夜はどこへ帰ればいいんだい」
俺の後ろにも、舟から降りてきた人たちが並んでいた。




