第四十八話 水を止める日
「契約しないと、何を運んでも通れないんですか」
俺が聞くと、受付の係は、張ったばかりの紙から手を離した。
「下池は明後日の日暮れに水を止める予定でね。明日から、家舟を上へ移すんだ。その仕事を受けた船を先に通すよう、代表から言われてる」
「先に通すのと、ほかの舟を通さないのは、違いますよね」
「……私には、変えられないよ」
係の灰色の袖に、糊が乾きかけている。
ティアは舟の札を握ったまま、窓口の下を見ていた。
ここで食い下がっても、同じ答えになる。俺は係へ、代表に会える場所と時間を聞いた。
*
コハクへ戻って話すと、オルドは帳面を閉じた。
「修理の見積もりも、一緒に持っていくぞ。先にザクを呼ぼう」
中町の荷場から下池へ行く荷運びの男に、船長が声を掛けた。職人の場所を書いた紙と駄賃を渡し、昼までにこちらへ来られるか聞いてもらう。
代表とは、昼過ぎに中町の事務所で会うことになった。
待つ間、俺たちは船の後ろの炊事場で飯を食った。
竈から、ぱち、と薪が爆ぜる。船は止まっていても、床の下ではボルグが何かを締める音がした。
今日の煮込みには、匙で崩せるほど柔らかい肉が入っていた。
リゼが自分の椀を見て、俺の椀も見た。
「カイの方が、肉、多くない?」
「そうかな」
「今、底に隠したでしょう」
「探してたんだよ。俺も」
向かいでティアが吹き出した。青い短髪の下で、目が細くなる。
リゼは笑いながらも、自分の椀をもう一度かき混ぜていた。
どう話せば分かってもらえるか。そればかり考えていて、腹が減っていたことも忘れていた。
「リゼ、下の町を残すの、無理だと思う?」
「思わないよ。まだ、直してみてもいないもん」
彼女は匙を止めた。
「でも、カイがうまく頼めなかったから駄目だった、って話にはしないでね。決めるのは、あの人なんだから」
口に運びかけた肉を、俺は椀へ戻した。
自分の頼み方が悪かったのなら、次は直せる。相手に聞く気がないかもしれない、と思う方が怖かった。
「……分かった。そこは、間違えないようにする」
「うん。あと、食べて。冷めちゃうよ」
リゼが俺の椀を指す。
俺は頷いて、今度こそ肉を食った。
*
会社の事務所は、中町の石岸に沿った二階建てだった。
俺たちが通された部屋は一階で、開いた窓から水船の昇降口が見える。箱を支える鎖が、窓の向こうをゆっくり下りていた。
ヴァルターは、窓際の机にいた。
深緑の上着は椅子の背へ掛けている。撫でつけた黒髪のこめかみに白いものが混じり、書類を押さえる指は分厚かった。
俺とリゼ、ティアは机の前の長椅子へ座り、オルドと、間に合ったザクが脇の椅子を使った。
船大工は革の前掛けのポケットから、見積もりを出した。
「水路の職人に、値段と作業を出させた。石の間を詰め直す。あとは、どれだけ漏れが減るか測るんだ」
代表は紙へ目を落とした。
「池に水が入らない時間ができるな」
「ああ。止める日と長さは、下の船を支える手配も含めて相談する。今すぐ水を切れって言ってるんじゃねえよ」
ザクは白い眉を寄せ、紙の端を押さえた。
「直した後で、新運河にも水を回して測らせてくれ。足りるかどうか、確かめる前に潰すな」
「直せることは、分かっている」
ヴァルターが言った。
ザクの手が止まった。
俺は、聞き違えたのかと思った。
「……知ってるんですか」
「石を全部取り替えるわけではない。その二か所なら塞げる。ただ、古い水路を残せば、ほかの場所も修理し続けることになる」
代表は見積もりを机へ置いた。
「下へ流す水を、新運河の大型船に使いたい。小さな舟の客と荷も、こちらでまとめて運ぶ。そのために、新しい港を造っている」
窓の外で、鎖が大きく一度鳴った。
下りていく水船の箱には、会社の旗を立てた曳き船が一隻入っている。船首の太い巻き取り機に、綱が幾重にも巻かれていた。
修理代が分かれば、話ができると思って来た。
けれど、この人がやめたいのは、漏れている所の修理だけじゃない。ティアが客を選び、あの食堂が好きな岸で店を開く、その仕事の仕方ごとだった。
「水路を使う料金も払います。二艘で一便にできます。残して運ぶ方の見積もりも、比べてもらえませんか」
「使う船が残れば、下の池も残さなければならん。私は、そこを閉じると言っている」
椅子の下で、ティアの靴が鳴った。
「あたしのお客さん、みんな新しい港へ行けるの?」
「移転を申し込んだ店には、場所を割り当てる」
「店じゃない人もいるよ。洗濯物を運ぶ人とか、買い物に行く人とか。あの人たちも、会社の船は迎えに行く?」
ヴァルターはティアを見た。
「必要な便は作る。だが、窓から呼ぶたびに一軒ずつ迎えに行く商売を、そのまま続ける気はない」
「……それを、してるんだよ。あたしは」
ティアの指が肩鞄の口をつまんだ。
今朝迎えに行った、洗濯物の大籠を抱えた客のことを、彼女は話している。
オルドが椅子を引いて立ち、机へ一歩近づいた。
「残す話を聞かんのなら、せめて移す順を変えろ。先に行き先を決めて、運んでから水を止めるんだ。荷だけ置く場所を空けても、人は暮らせんぞ」
「岸の倉庫を空けている。寝る場所にも使わせる。下に残る船には、支えを入れる」
「一艘ずつ、船底の形を見たのか?」
ザクが聞いた。
「支えりゃ何でも立つと思うなよ。うちの工房は、片側に材木も道具も積んである。軽い渡し舟とは違うんだ」
「担当に見せる。必要な物は言ってくれ」
ヴァルターが、机の端に積んだ紙を引き寄せた。
「閉鎖は、明日の正午にする」
「明日?」
ティアが顔を上げた。
「受付では、明後日の日暮れだって聞いたよ」
「移転に使う船が揃った。新運河の試験も進められる。これ以上、両方へ人と水は回せん」
「丸一日以上、早めるのか」
オルドの声が低くなった。
「保安には伝えたのか?」
「これから通知を回す。今夜、船を支える作業をさせる。明日の昼に下への給水を止め、その後は池の水を落とす」
昨日、俺たちは家へ帰りたい人のために、水を戻してもらった。
その猶予が、もう終わると言われている。
俺は膝の上で手を握りかけた。
布の巻かれた掌が引きつり、指を開く。
「まだ、下の人はその時刻を知らないんですよね」
「だから、これから知らせる」
「知らせたら、準備が終わるわけじゃありません」
声が思ったより大きくなった。
隣で、リゼが顔を上げた。
「先に、町の人と話してください。明日までに安全に移れるか、確かめてからにしてほしいんです。俺たちも、今から下へ戻ります」
ヴァルターは、答える代わりに窓の外へ顔を向けた。
箱が下まで着いたらしく、鎖の音が止まった。
「下りた船から、移転を始めろ」
戸口にいた社員へ命じる。
それから俺へ向き直った。
「聞いて回るのなら、申し込む場所も教えてやってくれ」
オルドが見積もりを取った。
「これは、市にも持っていく。まだ船を支えてもいないのに、明日で水を落とされちゃ困るんでな」
ザクは前掛けへ紙をしまおうとして、船長が持っているのに気づいた。空の手を、一度強く握った。
*
事務所を出ると、オルドは市の保安詰所へ向かう使いを頼んだ。
ローヴェへ、明日正午の給水停止と、下の船の支えがまだ済んでいないことを伝える。返事は下の荷場へ、と頼んでから、俺たちはコハクへ戻った。
ザクは工房へ先に帰るため、石段へ向かった。
船長が台の係に下りを頼み、台料を払った。リゼが操舵室へ入る。
積む荷のない船内で、住民たちが戸を閉めた。今朝と同じ留め具の音が、短く通りを渡る。
台に乗って脚を折ると、鎖が軋み始めた。
窓の外を、家の屋根が上へ流れていく。
俺は操舵室の戸口にいた。
リゼは前を見たまま、両方の袖をそろえ直した。
「降りたら、私も一緒に回るね」
リゼが言った。
分かってもらえなかった、と愚痴を言いかけて、俺は頷く。あの人には伝わっていた。その上で、断られたのだ。
コハクは下の荷場へ戻った。
オルドが今日の岸仕事の六枚をティアへ渡すと、彼女はすぐに肩鞄へしまった。
「お客さんに言ってくる。今日、もう一度来るって約束したから」
「俺たちも岸を回るよ。食堂の方へ行ってみる」
ティアは頷き、ツユクサへ下りた。
俺とリゼが岸道を歩いていると、横の水路から、かこん、と櫓受けの音が近づいた。
ティアが追いついてきた。彼女は俺たちを見つけ、小さく首を振った。
「明日の迎えはできないって、伝えたよ。あのおばちゃん、じゃあ今夜のうちに運ぶ物をまとめるって」
俺は足を止めかけた。
待ちぼうけにはさせずに済んだ。でも、あの人が欲しかったのは、謝りに来る船頭じゃない。籠を載せて、いつもの店へ行く舟だ。
俺はティアへ「ありがとう」とだけ言った。彼女は頷き、少し先へ櫓を進める。
石岸を曲がったところで、俺は立ち止まった。
食堂が、ない。
昨日、リゼと渡った板橋が、岸へ引き上げられている。店をつないでいた杭には、短い綱だけが残っていた。
客らしい男が二人、椀を持って岸に立っていた。一人の足元には、食べかけの煮込みがこぼれている。
灰色の短い上着を着た、三十くらいの会社の作業員が、板橋を片づけていた。
「店は、どこへ行ったんですか」
「中町の荷場へ移します。ここは空けてもらうことになりましたんで」
「おばちゃんは?」
「降りないと言うので、店に乗ったままですよ」
ごろごろ、と、舟の巻き取り機が鳴った。
岸の先の広い水路を、会社の曳き船が横切っていく。その後ろに、見慣れた煙突と、鍋の並んだ棚があった。
「戻しとくれ! うちは、まだ商売してるんだよ!」
女主人が食堂の縁に立ち、前の船へ叫んでいた。
曳き船は止まらない。食堂舟が引かれ、岸にいた客の一人が、自分の椀を持ち上げた。返す店が、遠ざかっていく。
昨夜、水を戻して、やっとあの人が帰れた家だ。
「呼び戻してください。本人が、戻してくれと言ってます」
「私に言われても。移す場所は、もう決まってますから」
俺は水路を見た。
今から詰所を探している間に、あの店は上へ運ばれてしまう。
「ティア、あの舟を止めに行きたい。追いつける?」
返事より先に、ツユクサが岸へ向いた。
ティアは櫓を押し、俺たちの足元へ舟をつける。
「まず、乗って。昇降口へ先回りするよ」
リゼが先に下り、俺へ腕を伸ばした。彼女の腕を支えに、石段から舟底へ足を移す。
俺が腰掛けへ座ると、ティアは岸を離れた。
曳き船は、店舟を連れて広い水路を曲がっていく。
ティアが向けた先は、家舟と家舟の間だった。両側の軒が重なり、窓から突き出た物干し竿に、濡れたシャツが揺れている。
「あっちは大通り。こっちは、あたしの道だよ」
ティアが櫓を寝かせた。
ツユクサは、洗濯物の下へ滑り込んだ。




