第四十七話 明日の客
「……それ、あたしにも来てる?」
ティアが、会社の使いに聞いた。
中町の岸に、三艘の舟が並んでいる。俺とリゼは石の縁に立ち、ティアは客を迎えて戻ったツユクサの上だ。
薄い口髭の男は、手元の紙を確かめた。
「今のところ、こちらの船主さんへのお話です」
「そう」
ティアは一度頷いた。
すぐには櫓へ手を戻さなかった。
白髪の船頭が、畳んだ契約の紙を胸へしまう。
「舟の雨除けを、ずっと直せずにいるんだ。二十枚が十日入れば、今度こそ頼める」
「うん。分かったよ」
ティアは笑おうとして、やめた。
「でも、悔しいよ。さっき、一緒に上がれたばっかりだもん」
男は目を伏せた。
俺は黙っている方が、ずるい気がした。声を掛けたのも、三艘で組めたことを喜んだのも俺だ。
けれど、引き止める言葉を考えるほど、会社の二十枚が頭に浮かぶ。
俺が出せない約束を、相手が受け取った。それを裏切りだと言えば、こっちだけは楽になれる。
「今日の帰り、予定どおりお願いできますか」
俺が聞くと、男はすぐ顔を上げた。
「そりゃ乗せるよ。金も受け取ってるんだから」
「ありがとうございます。それと、明日から迎えに行けなくなるお客さんを、教えてもらえませんか」
男は、舟で待っている女性へ顔を向けた。
縞の前掛けをつけた、洗濯物の客だ。
「まず、この人だな。朝は向こうの岸にいる。荷の大きい日は、一艘じゃ足りねえんだ」
「だから今日は、あたしも呼んでもらえたんだね」
ティアが言った。
男は頷いて、彼女の舟にある大籠を見た。
「籠を無理に重ねるなよ。上のを押さえてるつもりでも、下の布がつぶれちまう」
「うん。平らなところに置いてる」
話しながら、ティアは足元の籠を確かめた。
会社の使いが、夕方までに事務所へ来てほしいと告げ、去っていった。
白髪の船頭は、仕事を受ける返事をしに行くと答えた。
それでも、今日は三艘で帰る。
*
水船の箱へ戻る時、さっきまで重なっていた声は、一つずつになった。
干物屋が先に入り、白髪の船頭が続く。ティアが俺たちを乗せて最後に入り、係が人数と荷、綱を確かめた。
戸が閉まる。鎖が鳴り始めると、中町の手すりがゆっくり頭の上へ遠ざかった。
「下りは、上りより高く見えるね」
リゼが俺の隣で言う。
箱の先から、下池の屋根が見えていた。見下ろすと、窓から伸びた物干し竿まで小さい。
「……見なくても、ちゃんと下には着くよね」
「カイ、今朝は上ばっかり見てたでしょう」
彼女は笑い、俺が見ている方へ肩を寄せた。
「ほら。あのおばちゃん、もう店を開けてる」
竈の煙が上がっていた。
昨夜、帰りたがっていた家に、今朝は客がいる。
隣では、子供が船頭へ聞いていた。
「おじいちゃん、明日も来る?」
「明日は、別の仕事だよ」
「じゃあ、また石段?」
「まだ決まってねえな」
男は、子供の襟が綱へ寄っているのに気づき、腰掛けの真ん中を指した。
子供が座り直すのを待ってから、言葉を継いだ。
「決まる前に、乗れるとは言えねえんだ。ごめんな」
俺はティアを見た。
彼女も聞いていた。けれど、必ず迎えに行くとは言わなかった。
下池で箱を出ると、干物屋は自分の店へ戻った。白髪の船頭は洗濯物を届ける店へ向かい、ツユクサも後に続く。
木の柱が並ぶ狭い岸へ入る前に、戸の向こうで、ごろりと桶を引く音がした。男が櫓を寝かせる。
「右へ寄せて待ってな。あそこの戸が開く」
閉じていた家舟の戸から、五十くらいの女性が大きな桶を抱えて出てきた。袖を肘までたくし上げている。
こちらへ水を捨てるつもりだったらしい。二艘に気づき、桶を足元へ戻す。
「来るなら声を掛けとくれよ!」
「掛ける前に開けたろうが!」
子供たちが笑った。
俺は肩の力が抜けた。
この船頭が会社の荷だけを運ぶ姿は、まだ想像できない。目の前のやり取りが、あまりに馴染んでいる。
二艘を店の脇へつなぎ、まず俺とリゼが岸へ降りた。女性二人と子供たちも上がり、洗濯物を店へ届ける。
白髪の船頭は籠を押さえ、ティアは大きな籠の端を、先に降りた女性へ渡した。俺は荷を持つ人の前から退き、石段を空けた。
「ティアちゃん、明日のことが決まったら、ここで聞くよ」
縞の前掛けの女性が言った。
「うん。今日のうちに、もう一度来る」
ティアは、そこだけを約束した。
*
ティアはツユクサを下の荷場へ回してつなぎ、俺たちとコハクへ戻った。
船首の渡し板の脇に、蓋つきの木箱が二つ置かれている。
布屋の痩せた男が、ロクと箱の向きを相談している。前にティアへ反物を頼んでいた店の人だ。
オルドは俺たちを見ると、腰の鍵束を握って音を止めた。
「三艘とも帰れたか?」
「はい。ただ、明日から一艘抜けます」
船長の眉が寄った。
事情を聞くと、今度はティアを見る。
「おまえは、どうする?」
「便が取れたら二艘で組もうって、干物屋のおじちゃんと話してきたよ。便料が同じなら、一人六枚になる。客を増やせるか、聞いてくる」
「足りなきゃ俺が出す、とは言えねえぞ」
「うん。それは分かってる」
オルドは頷き、財布を出した。
「その前に、昨日の六枚だ。岸の受渡しを頼んだ分な。遅くなった」
「あ、ありがとう」
受け取った硬貨を、ティアは一枚だけ指の間で回した。すぐ残りと一緒にしまう。
「今日は、これを中町へ運ぶ。反物八反で、運賃十二枚と台料。荷主と話はついた。おまえにも今日の岸仕事を六枚で頼みたい。受けるか?」
「受ける。舟は下につないで、一緒に乗ればいい?」
「ああ。向こうで荷を渡したら、明日の便も聞けるだろ」
ティアが櫓のない船を見上げた。
「じゃあ今日は、リゼの後ろに乗せてもらおうかな」
「見てて。揺らさないで運ぶから」
リゼは両方の袖をそろえ、操舵室へ向かった。
船内から、ボルグとザクが来た。
二人とも靴の縁が濡れている。朝から見てきた水路の泥だという。
「漏れ、ありましたか」
「あったよ。石の水路の継ぎ目が二か所、大きく空いてた」
ボルグが手拭いを開いた。間に、ぼろぼろになった詰め物が載っている。
「水車へ行く樋じゃなく、池へ入る方だ。脇の斜面へ水が逃げてる」
「直せるんですか?」
「空いた所を詰め直せるか、水路の職人にも見てもらった。やれると言ってる。ただ、そこを乾かす時間が要る」
ザクが、白い眉の下からオルドを見た。
「止める間の水と、直した後どれだけ残るか。それを測らせろって話だ。俺が板一本削って終いじゃねえぞ」
「修理代だけじゃなく、水を止める間の便も相談しなきゃならんのか」
「ああ。終わったら流れを測って、新運河へ回す分と両立できるかも見る。直せば全部足りる、とはまだ言えねえよ」
直る、と言ってほしかった。
けれど二人は、分かった所と、まだ分からない所を分けてくれた。
漏れている所は見つかった。塞ぐ方法もある。
町を畳む話の前に、試してほしかった。
オルドは、職人の名前と場所を聞いて書き留めた。ザクは見積もりの相談へ戻り、ボルグは船の機関を見に行く。
俺はロクへ、箱が通る場所を空けておくと伝えた。掌の布はまだ外せないが、人に知らせて回ることならできる。
*
ロクたちが二つの箱を荷場へ運び、布屋の男も乗り込んだ。
ティアはエダに呼ばれ、右側二軒目の家へ入る。俺は通りの片づけを見て、船首へ戻った。
台の係へ荷と乗船者を伝えたオルドが帰船すると、出発の声が走った。
戸が閉まる音。
棚の器を留める、かち、という音。
後ろの炊事場からは、ロクが鍋を押さえる金具を掛ける音がした。
「飯の支度は途中だからな。匂いだけで腹いっぱいになっといてくれよ」
「あたし、匂いの分は食べたうちに入れないからね!」
エダの家からティアの声が飛んだ。
俺も笑い、手すりの内側へ寄る。
低い振動が、靴底へ来た。
脚の継ぎ目が順に鳴り、家々の屋根が、岸の看板より高くなる。リゼのいる船首から、短い鐘が一度鳴った。
俺たちの家が歩き出す。
台へ乗る時、俺は操舵室の戸口にいた。
係の合図を見て、リゼが右の操縦桿をわずかに戻す。床から伝わる足音が、小さくなった。
最後の一歩が収まり、コハクは脚を折った。
「……よし」
彼女の肩が下がる。
俺は、さっき船頭の話をしていた時から、ずっと聞きたかったことを言った。
「リゼ、怒ってる?」
「怒ってるよ」
即答だった。
「あの船頭さんに?」
「違う。やっと一緒に上がれるようになったところへ、お金を持ってくる方」
彼女は窓の外を見た。
下池には、岸へつないだツユクサが見える。
「でも、私だって、あの人に仕事を断ってとは言えないもん」
「俺も、言えなかった」
金を出す方は、相手に喜ばれる。
残ってくれと頼む方が、相手を困らせる。
あの人は、そこまで分かって仕事を出したのだろうか。思い返すほど、腹が立った。
「明日の便、聞いてくる。二艘でもできるか、客と料金をちゃんと確かめたい」
「うん。私も行くよ」
リゼは、俺へ顔を戻した。
「その前に、今の着き方は?」
「全然揺れなかったよ」
「でしょ」
口元が、少し得意そうに緩んだ。
「悔しいのと、うまくできたのは、別だからね」
俺は頷いた。
本気で得意がっている。さっきまで会社のことばかり考えていた俺まで、笑ってしまった。
台の柵が閉まり、鎖の音が窓へ近づいた。
今朝は小舟から見ていた下池が、今度は自分の家の下で小さくなる。
通りの向こうで、ティアが歓声を上げた。
エダの家の方だ。
「ここ、家の窓なのに!」
「舟のあんたが、それを言うかい」
エダの笑い声に、今度はリゼも笑った。
*
中町へ着くと、リゼは係の案内でコハクを台から下ろし、荷場へ止めた。
二十歳くらいの男が、手押し車を寄せてくる。茶の前掛けをつけた、布屋の店員だという。
ロクたちが二つの箱を車へ移すと、布屋の男が蓋を開けた。藍染めの布を巻いた反物が、乾いたまま並んでいる。
「下から全部、担いで上がらずに済んだよ」
男がオルドへ運賃十二枚と、船長が立て替えた台料を払った。店員と箱を運んでいく背中を見送り、俺たちは船長に断って水船の受付へ向かった。
ティアが先に歩き、リゼと俺が続く。
受付の板壁に、四十くらいの係が新しい紙を張っていた。灰色の袖に、糊が白くついている。
「明日の朝、二艘で頼みたいんだけど」
ティアが声を掛けると、係の手が止まった。
「……下池から?」
「うん。今朝上がったツユクサと、干物の舟」
「それは、もう取れないよ」
ティアは肩鞄から舟の札を出した。
「今朝、ちゃんと確かめてもらったよ。帰りも問題なかった」
「舟が悪いんじゃない。今、上から来た指示だ」
係が、新しい紙を指した。
俺には読めない。リゼが隣で、声に出した。
「新運河への移行措置。明朝より、下池発の水船の昇降は、会社の契約船に限る……」
ティアの手の中で、札が傾いた。
俺は係を見た。
「二艘でも、便料を全部払えば?」
「金額の話じゃないんだ。契約のない舟は、予約を受けられない。今日の便は、そのまま使っていい」
朝には、舟を三艘並べれば通れた。
一艘抜けても、客を増やせば続けられると思っていた。
その両方を、会社は一枚の紙で塞いできた。
ティアは、出した札をまだ引っ込めていない。
「……あたし、その契約の話、来てないよ」
係は彼女を見て、何も答えなかった。




