第四十六話 小舟三艘、上ります
「その舟、昨日より太ってない?」
ティアが真顔で言った。
干物屋の男は、自分の荷舟を見下ろした。五十がらみの赤い顔が、むっとする。
「太ったのは俺だ。舟の幅は変わらんよ」
「じゃあ、昨日あたしが思ってたより太い」
男は腹を引っ込めた。舟の幅は変わらなかった。
二十八日の朝。俺たちは下池の、水船を上げる台の前にいた。
昨夜コハクへ戻ってから眠れたのは、ほんの数時間だ。リゼも一度だけ欠伸を隠したが、今は蜜色の三つ編みを肩へ払い、岸の三艘を見比べている。
ティアのツユクサ。
一昨日、集荷を引き受けてくれた白髪の船頭の舟。
それから、修理の板を運んでくれた干物屋の、平たい荷舟。
どれも、昨夜の大魚よりずっと小さい。
岸で係が測ってみると、横一列では箱の幅に収まらなかった。干物屋の舟が、特に幅を取る。
「これで朝の一便を逃したら、また下だけだよ。俺は帰ろうか」
白髪の船頭が、櫓へ手を戻した。
六十くらいの男だ。日焼けした腕に白い毛が光っている。
「まだ待って。並べ方を見てるんだよ」
ティアが引き止めた。
その青い髪の向こうで、隣の陸船台が下りてきた。平たい床へ、重しの石が積まれている。
がらがら鳴っていた鎖が止まり、床が岸と同じ高さに収まった。
係が止め金と鎖を確かめる。オルドはその横で待っていた。
「上りも下りも、途中で止めた時も異常なしだ。陸船は通していいよ」
オルドが太い眉を上げた。
「助かった。船の荷を見てくる。リゼ、こっちが済んだら戻ってくれな」
「うん!」
コハクはまだ下の荷場だ。リゼと俺は、まず小舟の便を手伝ってから戻ることにした。
ボルグはザクと、旧水路の漏れている場所を見に行っている。船長が二人の行先も教えてくれた。
水船の方には、水をためた箱が、下池と同じ高さで待っていた。
開いた入口の戸の向こうが、四角い小さな池になっている。その箱ごと、両脇の太い鎖で中町まで上がる。奥にも戸があり、上ではそちらから出るのだと係が教えてくれた。
灰色の作業着の係が、板に書いた予定を指で追った。
「水位は戻ってきてる。監視もついてるから、今朝の上り一回は動かせる。予約の大船はないから、君らの三艘を入れる。札は全部確かめた。あとは、中で動かないようにつなげるかだ」
箱の内側には、人が歩ける縁があり、綱を掛ける金具が並んでいた。
俺は岸から、開いた入口を覗いた。
三艘を横へ並べると、舟同士の間に物を挟む余地がない。
「縦なら、どうかな」
リゼが箱の奥を指した。
「広い舟を左へ。細い二艘は右で、前と後ろ。幅より、奥行きが余ってるよ」
「……ああ。そっちか!」
ティアが岸の石へしゃがんだ。
拾った小石を三つ置く。大きい石を左、小さい二つを右へ縦に並べる。
係が今度は舟の長さを測りに行った。箱の奥行きは、細い二艘を前後へ並べても余る。
戻った係は、ティアが置いた小石を少し離した。
「間をこれだけ空ける。前後の綱も別々だ。それなら試せるよ。入れるのは、あの荷舟から」
干物屋がにやりとした。
「太いのが先だってよ」
上りの便料は十二枚。三人が四枚ずつ出すと決まり、係へ払った。帰りの便と料金は中町で確認してから客を乗せる、とティアが二人へ念を押す。
*
干物屋は荷舟を入口へ向けた。
甲板には、布をかけた干物の籠が六つ。中町の宿へ渡す注文だという。
「昼の仕込みに間に合わせる。今日は売りに行くんじゃねえんだ」
頼まれた客へ、自分で届けに行く。
荷をコハクへ渡して待つのとは、それだけでも違うのだろう。
干物屋は舟の両脇へ縄束を垂らした。隣や壁に触れても、船板を傷めないためだ。
箱の左へ荷舟が収まり、係が綱を取った。
次は白髪の船頭。右の奥まで入り、舟を止める。
「ほら、俺のは細いだろ」
振り向いて言うと、干物屋が自分の腹を叩いた。
「おまえまで言うな」
ティアが笑い、最後にツユクサを進めた。
俺とリゼはその腰掛けに座っていた。乗る人数と荷は、先に係へ伝えてある。
船首が箱へ入った。
左には干物屋の舟腹。前には白髪の船頭の舟尾。思っていたより、囲まれる。
ティアの櫓が、一度だけ水を鳴らした。
ツユクサが奥へ滑る。
「もう少し左だ」
「こっちへ寄せすぎんなよ」
「後ろ、まだ空いてる!」
三人の声が重なった。
ティアの肩が固くなる。櫓を寝かせようとして、左の舟を見た。
俺は、立ち上がりかけた膝を戻した。
ここで綱を引きに行っても邪魔になる。掌の布も、まだ取れていない。
「少し待ってください。動かす声は、ティアに任せませんか」
箱の縁の係へも顔を向ける。
「止める時は、係の人から。俺たちは、見えない所を伝えます」
昔のゲームでも、危ない時ほど全員が違う指示を出した。後から一人ずつ聞けば、どれも間違っていない。けれど、動かす方は一つの身体しかない。
今は、俺まで操船を指図してはいけなかった。
係が頷き、ティアが息を吐いた。
「じゃあ、カイ。前の舟まで、どれくらい?」
「腰掛け一つ分くらい。今は近づいてないよ」
「左は?」
「縄束の所も、まだ離れてる。こっちは大丈夫」
左を見ていたリゼが答えた。
干物屋は口を閉じ、船縁に掛けた緩衝用の縄束を押さえている。
ティアが櫓を小さく動かし、ツユクサを少しずつ前へ送った。係が止める合図を出すと、櫓を寝かせて後ろの綱を渡す。前の綱も箱の金具へ掛けられた。
「そこでいい。全員、舟をまたぐなよ」
係が順に張りを確かめた。
舟と舟を一塊に縛るのでなく、それぞれを箱へつなぐ。俺たちの舟だけが揺れても、隣を引っ張らないようにするのだ。
最後に、入口の戸が閉まった。
三艘とも、中にいた。
干物屋が、なぜかもう一度腹を引っ込める。
「もう閉まったよ」
ティアに言われ、男は盛大に息を吐いた。
*
係の笛が鳴った。
壁の向こうで水車の音が太くなり、ごとん、と歯車の噛む響きが続いた。箱の両脇で鎖が張る。
水に浮いているツユクサにも、柔らかい揺れが伝わった。
岸が下がった。
箱の縁についた水滴が、朝日に白く光る。
干物屋の舟も、白髪の船頭の舟も、同じ速さで上がっていく。
さっきまで頭の高さにあった手すりが、肩の下へ消えた。
その向こうに下池の屋根が見える。昨夜閉じた食堂舟の戸が開き、竈の煙が細く上がっていた。
隣の舟から、干物の匂いが来た。
「朝飯を食ってくりゃよかったなあ」
白髪の船頭が言う。
干物屋は籠の布を引き上げた。
「客の分だぞ。見るな」
「見るだけで減るかよ」
リゼが肩を震わせた。
俺も笑った。家や仕事を守る相談ばかりしていた人たちが、上がる舟の中で腹を空かせている。それが、ひどく嬉しかった。
石壁が近づく。
濡れた石の継ぎ目を、細い草が下へ垂らしていた。箱はその横を、鎖一つ分ずつの響きとともに上がっていく。
「昨日、あたしの船で行きたいって言ったけどさ」
ティアは船首を見ていた。
「一人で入ってたら、あのおじちゃんに朝飯の文句、聞かされなかったね」
「嫌だった?」
「ううん」
前の舟で、船頭が干物の籠へ手を伸ばすふりをする。干物屋が布を戻し、リゼがとうとう声を上げて笑った。
「次は、食べる分も持ってこようって思った」
ティアの笑った顔を見て、俺は息をついた。
便を一本作れた。昼までに、実際の客へ届く。
誰かの仕事を頼んだだけで終わらない朝にしたかった。
リゼが俺の袖を引いた。
「カイ、見て。上に人がいる」
石の手すりから、十歳くらいの子と、それより小さい子が顔を出していた。
横には、縞の前掛けをした三十代ほどの女性がいる。両腕で大きな籠を抱えていた。
「舟のおじいちゃん!」
白髪の船頭が顔を上げた。
「おう。今日は乗れるぞ!」
子供の一人が、その場で跳ねた。
*
中町の岸と同じ高さで、箱が止まった。
上の係が箱を固定し、奥の戸を開ける。中町の水路へつながると、白髪の船頭の綱から外された。
舟が一艘、箱を出る。
次に干物屋。最後にツユクサ。
三艘を岸へつなぐと、船頭たちは先に下りの時刻と料金を係へ聞きに行った。帰りも三艘まとめて乗せられると分かり、その分を三人で払う。
戻ってきた白髪の船頭が、女性と子供へ手を振った。
籠には洗った布が詰まっている。下池の店へ届ける仕事で、子供たちはその手伝いだという。
「昨日は来なかったから、石段で下りたんだよ」
女性が籠を渡しながら言った。
「ごめんよ。今朝の帰りは、乗っていきな」
「舟賃、三人で?」
「子供二人で一人分だ。籠はいつもの分でいい」
女性が銅貨を渡した。
白髪の船頭は受け取り、子供へ腰掛けを指した。
子供たちは落ち着かず足を動かしていたが、男が出発まで待てと言うと、揃って舟の縁を握った。
干物屋の方にも、宿の若い男が荷車を押して来た。二十歳くらいで、白い頭布から耳が飛び出している。
籠を開けて魚を確かめると、「これで昼に出せる」と笑った。干物屋も籠を持ち上げ、自分の手で荷車へ載せる。
俺はツユクサから岸へ上がった。
リゼが続き、ティアは船縁へ腰を下ろした。
すると、洗濯物の女性がこちらを振り向いた。
「ティアちゃん、向こうの岸にも連れがいるんだ。籠が大きくて、この舟に入り切らないから、迎えに行ってくれる?」
「行くよ。今、下りも取れたから」
ティアは言ってから、すぐに値段を添えた。女性が頷くと、舟をつないでいた綱を解く。
俺たちへ口だけで『行ってくる』と告げ、返事を待たずに櫓を握った。こんな顔で客を迎えたかったのか、とようやく分かった。
「戻ったら、船長にも言おうよ。三艘とも入ったって」
リゼが両方の袖をそろえた。
俺は頷き、彼女にだけ聞こえる声で言った。
「並べ方、助かった。俺、横の幅しか見てなかったよ」
「私も、櫓を使うところまでは分からなかったけどね」
彼女はツユクサを見てから、俺へ顔を戻した。
「でも、カイが一度静かにしてくれたの、よかった。みんなに違うことを言われたら、私も困るもの」
「言い方、ちょっと偉そうじゃなかった?」
「急いでるのに、全員へすみませんって言い始めるよりいいよ」
俺は笑った。
褒められたのが嬉しいくせに、すぐ念を押してしまう。次は一度、素直に受け取ろう。
干物の籠を全部下ろし終える頃、白髪の船頭が会社の使いに呼び止められた。
三十くらいの、薄い口髭の男だった。舟の名を尋ね、手元の紙と照らし合わせてから、封をした別の紙を差し出す。
「代表から、明日の仕事の話です」
船頭が紙を開いた。
俺には文字が読めない。けれど、紙を持つ指が止まったのは分かった。
「一日、二十枚?」
「明日から十日間、荷のない日もお支払いします。会社の荷を優先していただく契約です」
「下の客は」
「期間中は専属です。この共同便には加われません」
ちょうど客を迎えて戻ったティアが、舟の上で動きを止めた。
白髪の船頭は、舟に乗った子供たちを見た。
さっき受け取った銅貨を、まだ片手に握っている。
「こっちの便が出ねえ日も、二十枚か」
「はい。会社の指定する仕事についていただければ」
俺は何か言おうとした。
けれど、明日もこの三艘を上げられる、とすら約束できていない。今朝一度通れた嬉しさだけで、十日分の稼ぎを断ってくれとは言えなかった。
「悪いな、嬢ちゃん」
男は紙を畳んだ。
「明日の舟は、俺抜きで組んでくれ」




