第四十五話 今夜は帰れる
「引っ越すかどうかは、あの人たちが決めることです」
俺は柵の向こうの水を見た。
山から来た流れが、木の台に載った白い商船の下へ広がっている。水の音ばかりが大きい。
「本人に頼まれたら、船長へ取り次ぎます。俺がここで、運ぶとは言えません」
「明日になって、動けなくなる店が出てもか」
「だから、今夜の水を戻してほしいんです」
腹の底が熱くなった。
この人の言い方だと、俺が断ったせいで店を運べなくなるみたいじゃないか。
リゼが俺の横へ並んだ。
「おばちゃんは、お店に残るって言ったよ。引っ越しを頼まれて、私たちはここへ来たんじゃない」
ヴァルターは彼女を見た。
すぐには答えず、運河の測り棒へ目を戻す。
「話は分かった。試験の担当を呼んでくれ」
ローヴェが入口の作業員へ言った。
男が小屋へ走り、灯りを持った別の男を連れてきた。五十前後だろう。短い灰色の顎髭に、肘までまくった袖。長靴は泥で汚れていた。
「水門と、この試験を見てる者です。何か?」
「下池で、渡し板が外れかけている。今夜の送水を止めたい。危険なく戻せるか」
男はローヴェを見て、次にヴァルターを見た。
「切替はできます。ただ、この高さまで上げる試験は、やり直しになりますよ」
「その話は、さっきした」
代表の低い声に、男は口を閉じた。
俺も、試験の担当へ聞いた。
「すみません。やり直すのは、今夜やったこと全部ですか」
怒鳴ってみたかった。
下で何が起きたか、さっき説明しただろう、と。
でも、俺の気が済んでも、下の水は増えない。中断すると何が残るのかを知りたかった。
男は、灯りを持ち替えた。
「水門の開け閉めは、もう確かめた。底の低い所も見た。まだ見てないのは、水を高くためた時の継ぎ目だ」
「そこを、明るくなってからにできませんか」
「できるよ。昼に人を残すことになるが」
「費用も、その分増える」
ヴァルターが言った。
明日も人を呼ぶ金が掛かる。その負担まで、なくなったふりはできない。
ローヴェが、ヴァルターへ向き直った。
「下の係まで予定が届いたかも、まだ確かめていないんだろう。試験の途中で人を避難させる手順には、私は頷けない」
「中断の費用は会社持ちか」
「市から安全のため中断を求めたことは、私の名で記録する。費用の扱いは、それから話そう」
ローヴェは、髭の男へ指示を出した。
「下への配水を、試験前まで戻してくれ。今夜は新運河への送水を止める」
「代表?」
男が確かめた。
ヴァルターの厚い指が、柵の横木を一度叩く。
「……切り替えろ。ここへ入れた水は抜くな。測れる所は、朝までに測っておけ」
「はい」
男は、ようやく身体の向きを変えた。
俺はリゼを見た。彼女もこちらを見ていたが、まだ笑わなかった。俺たちは男の後を追った。
*
切替の場所は、工事場の上にあった。
水路沿いの石段を上がると、道の横で、水が二つに分かれているのが見えた。
右は新運河へ下る、白い石の溝。
左は町へ戻る、黒ずんだ古い水路。
それぞれの入口に、上下する厚い戸がある。戸の上の歯車から、岸の作業床まで軸が伸び、丸い大きな取っ手につながっていた。
「下へ戻るのは、左なんですね」
「ああ。ここで分けた水が、別々の斜面を下る。新運河から下池へ抜いてやるわけじゃないよ」
髭の男が教えてくれた。
俺たちは手すりの内側へ寄り、作業する人の後ろを空ける。
男が、取っ手の前にいた若い作業員へ指示を出した。
「町の方を少しずつ開ける。急に流すなよ」
取っ手が回った。
がち、がち、と歯車が鳴り、左の戸が上がり始める。
細い隙間から、水が白く飛び出した。
黒い石の底を走り、先に残っていた浅い流れを押す。石段の下へ向かって、音が太くなっていく。
髭の男が、右の取っ手を回した。
こちらの戸は下がる。新運河へ落ちる水が狭まり、その分、町へ向かう白い筋が増えた。
やがて右の戸が閉じ切った。男は左の開き具合を確かめ、若い作業員へ止める合図を出した。
リゼが手すりから身を乗り出しかけ、足を戻した。
蜜色の三つ編みが肩から落ちる。
「これが、下まで行くんだね」
「うん」
水を見送るなんて、初めてだった。
もう少し早く行ってくれ、と言いそうになる。遠くの店も、家も、同じように待っているはずだった。
操作が済むと、ローヴェは作業員に時刻を記録させた。上の詰所へ伝言の者を出し、下にも切替を知らせるよう頼む。
水位を見張るよう、下の係へはすでに伝えてある。俺たちも戻って、実際に水が増えるところまで確かめる。
俺は、引き上げかけた髭の男に頭を下げた。
「夜中に仕事を変えてもらって、すみません」
「こっちも、下でそんなことになってるとは聞いてなかったよ」
男は濡れた長靴の先を見てから、苦笑した。
「泥を落とすのは、朝にするわ」
俺たちの望みが通っても、この人の仕事は残った。礼を言い、作業床を空けた。
下の柵で待っていたヴァルターが、馬車へ向かう俺を呼んだ。
「今夜は戻す。だが、明日からも同じ量を古い池へ流し続けるつもりはない」
「明日の試験は、下の状況を見てからだ」
ローヴェが答えた。
「危険なまま再開はさせない」
「船を安全に上へ移せば、その問題はなくなる」
代表は、今度は俺へ言った。
「止めさせる度に、今日と同じ人数を呼ぶのか。下の水路を、いつまで使うつもりだ」
答えが出なかった。
今夜を何とかすることしか、考えていなかった。
それでも、明日のために今夜を諦めなくてよかったはずだ。
馬車へ乗り込む時、俺はもう一度、町へ流れていく水の音を聞いた。
*
帰りも、馬車で一時間以上掛かった。
下池への坂を下り始めると、入口の流れが聞こえた。
ざあっ、と、石壁の根元で水が鳴っている。
馬車を降りると、岸にいた係がローヴェへ駆け寄った。
「下がるのは止まりました。今は、少しずつ戻ってます」
「出口は?」
「水位を見て開け直しています。下流の方へも、急に増やすなと伝えてあります」
係は濡れた杭を指した。
俺が見た、あの白線の一つが、水に隠れかけていた。
池全体が元どおりになったわけではない。
舟へ渡す板の脇には人が立ち、綱の張りを見ている。ローヴェは係と話を続け、使っていい岸を一つずつ確かめに行った。
「カイ! リゼ!」
ツユクサが来た。
ティアが石段へ舟を寄せ、縁に膝をついた。見上げた頬に、青い短髪の先が張りついている。
「戻してくれたの?」
「今夜の試験は止めたよ。上で、切り替えるところも見てきた」
「よかった……」
ティアはその場へ座り込んだ。
櫓を横へ寝かせ、両手で顔をこする。
「船長さんには話したよ。家も回った。寝てたおじいちゃん、あたしより元気だった」
「何か言われた?」
「こんな夜中に働くな、って。起こしに行ったのに、寝ろって言われたよ」
笑いかけて、彼女は大きく息を吐いた。
俺はしゃがんだ。
約束を、向こうから言わせてはいけない。
「今夜、余分に運んでもらった分はいくらですか。俺を魚と水路へ連れていってくれた分」
「二枚でいいよ。家を回るのは、あたしもやりたかったから」
「それはありがとう。舟の二枚、ここで払います」
銅貨を渡すと、ティアはすぐに財布へ入れた。
「今度は、すぐ言えた」
「俺も、忘れずに聞けたよ」
ティアが舟をつなぐと、俺は立ち上がった。リゼが石段へ手を伸ばし、上がってくる彼女を迎える。
「おばちゃん、まだ待ってる。店の橋、見てあげて」
*
食堂舟の板橋は、来た時より緩くなっていた。
女主人は岸に立ち、綱を見ている。隣にはオルドがいた。白髪交じりの短髪を撫でつけ、俺たちを見て太い眉を上げる。
「戻ったな。怪我は?」
「してません。遅くなりました」
「話は聞いたよ。ここは俺も見てた」
そこへローヴェが係と来た。橋と綱を確かめ、水位が戻り続けているのを見て、女主人へ頷く。
「今夜は店へ戻っていい。岸には監視を残す。何かあれば、すぐ呼んでくれ」
女主人が、前掛けで手を拭いた。
自分で板へ片足を置く。
「ほら。もう、あんな坂じゃないだろう」
彼女が店へ入り、俺とリゼも続いた。
さっきまで客が座っていた椅子が、奥へ寄せられている。鍋には蓋がしてあり、竈の火も落ちていた。
「今日は、もうおしまいだよ。でもね」
女主人は店の奥を指した。
竈のさらに後ろ、小さな戸があった。
「私、あそこで寝てるんだ。今夜は岸の知り合いに泊めてもらうつもりだった」
商売の後で帰る家も、この舟にある。今夜は、そこへも戻れなくなるところだった。
「朝、目が覚めたら、ここで火を起こしたかったんだよ」
女主人は前掛けをつかみ、竈へ顔を向けた。
俺は冷えた鍋を見た。明日また蓋が開いて、ここで飯を食う人がいる。今夜の試験を止められて、本当によかった。
リゼが、俺の隣で鼻をすすった。
俺も何か言おうとして、やめた。喉が詰まって、まともに返せそうになかった。
彼女は俺の顔を見て、袖をそっとつまんだ。何も聞かずに、女主人の話の続きを待ってくれた。
「もう寝なよ、おばちゃん。朝飯まで起きてるつもり?」
岸からティアが言った。
「分かってるよ。あんたに食べさせる分も、考えてただけさ」
女主人が笑った。今度は、俺も笑えた。
挨拶をして、岸へ戻る。奥の小さな戸に灯りがともり、それから閉まった。
ボルグとザクも、岸の見回りから戻ってきた。
ティアが船長へ知らせた後、オルドが二人にも声を掛けたのだという。水位が下がる間、店舟の綱や橋を見て回っていたらしい。
「上で何を言われた?」
ザクが、編んだ灰髭を指で押さえた。
俺は新運河の試験と、代表の言葉を伝えた。
「明日も同じ水を流し続けるつもりはない、と。古い水路を、いつまで使うのかって」
「捨てる前に、直す所を見せろってんだ」
ザクが舌打ちする。
ボルグは右の耳たぶを引き、池の入口へ目を向けた。
「漏れがあるのは本当なんだろ。どこまで直せるか、確かめてえな」
「水だけじゃないよ。上へ行ける便も要る」
ティアが言った。
見上げた先には、水船を運ぶ大きな箱が止まっている。今夜、赤い大魚を丸ごと抱えて下ろしてきた箱だ。
「あの箱、今は大船を待つことが多いんだよ。小さいのは、一艘ずつ後へ回される。でも、ツユクサだけなら、周りがいっぱい余るでしょう」
「ほかの小舟も、一緒に入れるってこと?」
リゼが顔を上げた。
ティアは頷く。
「何艘かで、一回分の便を頼みたいの。荷を大船へ渡さなくても、自分たちで客の所へ行けるよ」
俺は小舟と箱を見比べた。
入りそうだ。でも、乗れば済むというものでもない。舟同士をぶつけずに止められるか、重さはどうか。聞かなければ分からないことがある。
オルドが、腰の鍵束を握った。
「係に実物を見てもらおう。明朝の試験に行くから、その時に俺からも頼む。運べる荷の話は、俺たちが出せるよ」
「舟を並べる方は、あたしがやる。他の船頭にも聞いてみる」
ティアの声が、さっきよりはっきりした。
「明日、上の客を迎えに行きたい。あたしの船で」
ザクが大きな箱を見上げ、灰髭を指で押さえた。
「水路は俺たちが見る。直せるかも見ねえうちに、店を畳ませてたまるか」
ティアは、岸につないだツユクサへ目を戻した。
船首の青い花が、戻ってきた水に揺れている。
「明日は、あの大きな箱に小舟を並べようよ。下で待ってる船頭、みんな驚くよ」




