↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
45/50

第四十五話 今夜は帰れる

「引っ越すかどうかは、あの人たちが決めることです」


 俺は柵の向こうの水を見た。

 山から来た流れが、木の台に載った白い商船の下へ広がっている。水の音ばかりが大きい。


「本人に頼まれたら、船長へ取り次ぎます。俺がここで、運ぶとは言えません」

「明日になって、動けなくなる店が出てもか」

「だから、今夜の水を戻してほしいんです」


 腹の底が熱くなった。

 この人の言い方だと、俺が断ったせいで店を運べなくなるみたいじゃないか。


 リゼが俺の横へ並んだ。


「おばちゃんは、お店に残るって言ったよ。引っ越しを頼まれて、私たちはここへ来たんじゃない」


 ヴァルターは彼女を見た。

 すぐには答えず、運河の測り棒へ目を戻す。


「話は分かった。試験の担当を呼んでくれ」


 ローヴェが入口の作業員へ言った。

 男が小屋へ走り、灯りを持った別の男を連れてきた。五十前後だろう。短い灰色の顎髭に、肘までまくった袖。長靴は泥で汚れていた。


「水門と、この試験を見てる者です。何か?」

「下池で、渡し板が外れかけている。今夜の送水を止めたい。危険なく戻せるか」


 男はローヴェを見て、次にヴァルターを見た。


「切替はできます。ただ、この高さまで上げる試験は、やり直しになりますよ」

「その話は、さっきした」


 代表の低い声に、男は口を閉じた。


 俺も、試験の担当へ聞いた。


「すみません。やり直すのは、今夜やったこと全部ですか」


 怒鳴ってみたかった。

 下で何が起きたか、さっき説明しただろう、と。

 でも、俺の気が済んでも、下の水は増えない。中断すると何が残るのかを知りたかった。


 男は、灯りを持ち替えた。


「水門の開け閉めは、もう確かめた。底の低い所も見た。まだ見てないのは、水を高くためた時の継ぎ目だ」

「そこを、明るくなってからにできませんか」

「できるよ。昼に人を残すことになるが」

「費用も、その分増える」


 ヴァルターが言った。

 明日も人を呼ぶ金が掛かる。その負担まで、なくなったふりはできない。


 ローヴェが、ヴァルターへ向き直った。


「下の係まで予定が届いたかも、まだ確かめていないんだろう。試験の途中で人を避難させる手順には、私は頷けない」

「中断の費用は会社持ちか」

「市から安全のため中断を求めたことは、私の名で記録する。費用の扱いは、それから話そう」


 ローヴェは、髭の男へ指示を出した。


「下への配水を、試験前まで戻してくれ。今夜は新運河への送水を止める」

「代表?」


 男が確かめた。

 ヴァルターの厚い指が、柵の横木を一度叩く。


「……切り替えろ。ここへ入れた水は抜くな。測れる所は、朝までに測っておけ」


「はい」


 男は、ようやく身体の向きを変えた。


 俺はリゼを見た。彼女もこちらを見ていたが、まだ笑わなかった。俺たちは男の後を追った。


     *


 切替の場所は、工事場の上にあった。

 水路沿いの石段を上がると、道の横で、水が二つに分かれているのが見えた。


 右は新運河へ下る、白い石の溝。

 左は町へ戻る、黒ずんだ古い水路。


 それぞれの入口に、上下する厚い戸がある。戸の上の歯車から、岸の作業床まで軸が伸び、丸い大きな取っ手につながっていた。


「下へ戻るのは、左なんですね」

「ああ。ここで分けた水が、別々の斜面を下る。新運河から下池へ抜いてやるわけじゃないよ」


 髭の男が教えてくれた。

 俺たちは手すりの内側へ寄り、作業する人の後ろを空ける。


 男が、取っ手の前にいた若い作業員へ指示を出した。


「町の方を少しずつ開ける。急に流すなよ」


 取っ手が回った。

 がち、がち、と歯車が鳴り、左の戸が上がり始める。


 細い隙間から、水が白く飛び出した。

 黒い石の底を走り、先に残っていた浅い流れを押す。石段の下へ向かって、音が太くなっていく。


 髭の男が、右の取っ手を回した。

 こちらの戸は下がる。新運河へ落ちる水が狭まり、その分、町へ向かう白い筋が増えた。

 やがて右の戸が閉じ切った。男は左の開き具合を確かめ、若い作業員へ止める合図を出した。


 リゼが手すりから身を乗り出しかけ、足を戻した。

 蜜色の三つ編みが肩から落ちる。


「これが、下まで行くんだね」

「うん」


 水を見送るなんて、初めてだった。

 もう少し早く行ってくれ、と言いそうになる。遠くの店も、家も、同じように待っているはずだった。


 操作が済むと、ローヴェは作業員に時刻を記録させた。上の詰所へ伝言の者を出し、下にも切替を知らせるよう頼む。

 水位を見張るよう、下の係へはすでに伝えてある。俺たちも戻って、実際に水が増えるところまで確かめる。


 俺は、引き上げかけた髭の男に頭を下げた。


「夜中に仕事を変えてもらって、すみません」

「こっちも、下でそんなことになってるとは聞いてなかったよ」


 男は濡れた長靴の先を見てから、苦笑した。


「泥を落とすのは、朝にするわ」


 俺たちの望みが通っても、この人の仕事は残った。礼を言い、作業床を空けた。


 下の柵で待っていたヴァルターが、馬車へ向かう俺を呼んだ。


「今夜は戻す。だが、明日からも同じ量を古い池へ流し続けるつもりはない」

「明日の試験は、下の状況を見てからだ」


 ローヴェが答えた。


「危険なまま再開はさせない」

「船を安全に上へ移せば、その問題はなくなる」


 代表は、今度は俺へ言った。


「止めさせる度に、今日と同じ人数を呼ぶのか。下の水路を、いつまで使うつもりだ」


 答えが出なかった。

 今夜を何とかすることしか、考えていなかった。


 それでも、明日のために今夜を諦めなくてよかったはずだ。

 馬車へ乗り込む時、俺はもう一度、町へ流れていく水の音を聞いた。


     *


 帰りも、馬車で一時間以上掛かった。

 下池への坂を下り始めると、入口の流れが聞こえた。


 ざあっ、と、石壁の根元で水が鳴っている。


 馬車を降りると、岸にいた係がローヴェへ駆け寄った。


「下がるのは止まりました。今は、少しずつ戻ってます」

「出口は?」

「水位を見て開け直しています。下流の方へも、急に増やすなと伝えてあります」


 係は濡れた杭を指した。

 俺が見た、あの白線の一つが、水に隠れかけていた。


 池全体が元どおりになったわけではない。

 舟へ渡す板の脇には人が立ち、綱の張りを見ている。ローヴェは係と話を続け、使っていい岸を一つずつ確かめに行った。


「カイ! リゼ!」


 ツユクサが来た。

 ティアが石段へ舟を寄せ、縁に膝をついた。見上げた頬に、青い短髪の先が張りついている。


「戻してくれたの?」

「今夜の試験は止めたよ。上で、切り替えるところも見てきた」

「よかった……」


 ティアはその場へ座り込んだ。

 櫓を横へ寝かせ、両手で顔をこする。


「船長さんには話したよ。家も回った。寝てたおじいちゃん、あたしより元気だった」

「何か言われた?」

「こんな夜中に働くな、って。起こしに行ったのに、寝ろって言われたよ」


 笑いかけて、彼女は大きく息を吐いた。


 俺はしゃがんだ。

 約束を、向こうから言わせてはいけない。


「今夜、余分に運んでもらった分はいくらですか。俺を魚と水路へ連れていってくれた分」

「二枚でいいよ。家を回るのは、あたしもやりたかったから」

「それはありがとう。舟の二枚、ここで払います」


 銅貨を渡すと、ティアはすぐに財布へ入れた。


「今度は、すぐ言えた」

「俺も、忘れずに聞けたよ」


 ティアが舟をつなぐと、俺は立ち上がった。リゼが石段へ手を伸ばし、上がってくる彼女を迎える。


「おばちゃん、まだ待ってる。店の橋、見てあげて」


     *


 食堂舟の板橋は、来た時より緩くなっていた。

 女主人は岸に立ち、綱を見ている。隣にはオルドがいた。白髪交じりの短髪を撫でつけ、俺たちを見て太い眉を上げる。


「戻ったな。怪我は?」

「してません。遅くなりました」

「話は聞いたよ。ここは俺も見てた」


 そこへローヴェが係と来た。橋と綱を確かめ、水位が戻り続けているのを見て、女主人へ頷く。


「今夜は店へ戻っていい。岸には監視を残す。何かあれば、すぐ呼んでくれ」


 女主人が、前掛けで手を拭いた。

 自分で板へ片足を置く。


「ほら。もう、あんな坂じゃないだろう」


 彼女が店へ入り、俺とリゼも続いた。

 さっきまで客が座っていた椅子が、奥へ寄せられている。鍋には蓋がしてあり、竈の火も落ちていた。


「今日は、もうおしまいだよ。でもね」


 女主人は店の奥を指した。

 竈のさらに後ろ、小さな戸があった。


「私、あそこで寝てるんだ。今夜は岸の知り合いに泊めてもらうつもりだった」


 商売の後で帰る家も、この舟にある。今夜は、そこへも戻れなくなるところだった。


「朝、目が覚めたら、ここで火を起こしたかったんだよ」


 女主人は前掛けをつかみ、竈へ顔を向けた。

 俺は冷えた鍋を見た。明日また蓋が開いて、ここで飯を食う人がいる。今夜の試験を止められて、本当によかった。


 リゼが、俺の隣で鼻をすすった。

 俺も何か言おうとして、やめた。喉が詰まって、まともに返せそうになかった。

 彼女は俺の顔を見て、袖をそっとつまんだ。何も聞かずに、女主人の話の続きを待ってくれた。


「もう寝なよ、おばちゃん。朝飯まで起きてるつもり?」


 岸からティアが言った。


「分かってるよ。あんたに食べさせる分も、考えてただけさ」


 女主人が笑った。今度は、俺も笑えた。

 挨拶をして、岸へ戻る。奥の小さな戸に灯りがともり、それから閉まった。


 ボルグとザクも、岸の見回りから戻ってきた。

 ティアが船長へ知らせた後、オルドが二人にも声を掛けたのだという。水位が下がる間、店舟の綱や橋を見て回っていたらしい。


「上で何を言われた?」


 ザクが、編んだ灰髭を指で押さえた。

 俺は新運河の試験と、代表の言葉を伝えた。


「明日も同じ水を流し続けるつもりはない、と。古い水路を、いつまで使うのかって」

「捨てる前に、直す所を見せろってんだ」


 ザクが舌打ちする。

 ボルグは右の耳たぶを引き、池の入口へ目を向けた。


「漏れがあるのは本当なんだろ。どこまで直せるか、確かめてえな」

「水だけじゃないよ。上へ行ける便も要る」


 ティアが言った。

 見上げた先には、水船を運ぶ大きな箱が止まっている。今夜、赤い大魚を丸ごと抱えて下ろしてきた箱だ。


「あの箱、今は大船を待つことが多いんだよ。小さいのは、一艘ずつ後へ回される。でも、ツユクサだけなら、周りがいっぱい余るでしょう」

「ほかの小舟も、一緒に入れるってこと?」


 リゼが顔を上げた。

 ティアは頷く。


「何艘かで、一回分の便を頼みたいの。荷を大船へ渡さなくても、自分たちで客の所へ行けるよ」


 俺は小舟と箱を見比べた。

 入りそうだ。でも、乗れば済むというものでもない。舟同士をぶつけずに止められるか、重さはどうか。聞かなければ分からないことがある。


 オルドが、腰の鍵束を握った。


「係に実物を見てもらおう。明朝の試験に行くから、その時に俺からも頼む。運べる荷の話は、俺たちが出せるよ」

「舟を並べる方は、あたしがやる。他の船頭にも聞いてみる」


 ティアの声が、さっきよりはっきりした。


「明日、上の客を迎えに行きたい。あたしの船で」


 ザクが大きな箱を見上げ、灰髭を指で押さえた。


「水路は俺たちが見る。直せるかも見ねえうちに、店を畳ませてたまるか」


 ティアは、岸につないだツユクサへ目を戻した。

 船首の青い花が、戻ってきた水に揺れている。


「明日は、あの大きな箱に小舟を並べようよ。下で待ってる船頭、みんな驚くよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。