第四十四話 水の行き先
「そこ、待って!」
リゼが板橋の手前で腕を広げた。
店を出ようとした男が、片足を上げたまま止まる。
橋の下端が、店舟の縁をこすっていた。
ぎ、ぎ、と木が鳴る。舟が下がるにつれ、岸に掛かった上端が少しずつ引かれているのだ。
「おばちゃん、橋を見て!」
「ああ、まずいね。みんな、中へ戻っとくれ!」
女主人が手を拭きながら来た。
俺たちは客を店の奥へ戻し、板橋の前を空ける。リゼが縁にしゃがみ、板の端を指した。
「あと少しで、岸から外れるよ」
池を見た。
赤い大魚が、まだ太鼓を鳴らしている。
水が減っているのは、この店の周りだけじゃない。あの魚を見上げている人たちの足元でも、同じことが起きている。
ツユクサの客が桟橋へ上がった。
ティアが最後の一人を見届け、こちらへ舟を寄せる。
「店を少し岸へ寄せるよ。綱、緩めて!」
「こっちは任せときな!」
女主人が隣の客に声を掛けた。男が舟の端へ回り、結ばれた綱をほどき始める。
ティアはツユクサを退かせた。女主人と客が、岸の杭へ渡した綱を少しずつ引く。
店が岸へ近づき、板橋の上端が石の縁へ深く乗る。女主人が綱を結び直すと、リゼは足で板を押し、ずれないのを確かめた。
「一人ずつなら、渡れるよ。押さないでね」
板が戻った途端、奥へ下がっていた客がまた歩き出した。
ひとまず、この店は大丈夫だ。けれど、よその店では誰も杭を見ていないかもしれない。
俺はティアへ身をかがめた。
「あの魚まで、乗せてもらえますか」
「どうするの?」
「太鼓を止めてもらいます。あそこから知らせれば、みんな顔を上げる」
言葉にして、胸が痛くなった。
今日一日、あの音が聞きたくて走り回ったのに。
ティアは俺の顔を見てから、舟の向きを変えた。
「まず、乗って」
*
ツユクサが大魚の脇へ近づいた。
丸窓の中で、太鼓を叩く腕が上下する。今はその音に、俺の声が負ける。
「すみません! 頭を作ってた人、呼んでもらえますか!」
窓の中の一人がこちらを見た。
何度か手を振ると、やがて赤い上着の若者が顔を出す。
「あんたか! どうした?」
「水が下がってます。店の渡し板が外れかけました。太鼓を止めて、岸の人に知らせてもらえませんか」
若者の笑顔が消えた。
ティアが櫓を止め、岸の店を指す。舟から桟橋へ渡した板が、どれも急な坂になっていた。
「いつもよりずっと低いよ。まだ減ってる」
若者が奥へ向かって手を上げた。
ばちが、途中で止まる。
どん、と最後の一打が鳴った。
急に、水の音が聞こえた。
舟の底を叩く波と、向こうの笛。その笛も、少し遅れてやんだ。
若者は魚の口へ戻り、両手を口の横へ添えた。
「岸の人、渡し板を見てくれ! 水が下がってる! 外れそうな板には乗らないでくれ!」
窓から振られていた手が止まった。
女主人が隣の店へ声を張る。向こうでは、船頭が子供を舟から降ろすのをやめ、桟橋との高さを確かめている。
「魚は、ここで止めとくぞ!」
「ありがとうございます!」
若者は俺へ片手を上げた。
責められなかったことに、ほっとしてしまった。知らせるべきだと分かっていても、楽しいところへ水を差すのは怖い。
さっきまで魚を追っていた小舟が、今は岸へ散っていく。
何人もの船頭が同じ注意を呼び掛けてくれた。
ティアが、灯りの並ぶ石壁を見た。
「水の入る所、見てくる。カイ、乗っててね」
*
流れの入口は、食堂の並びより少し先にあった。
石壁の根元に人の背丈ほどの口が開き、そこから下池へ水が注ぐ。初めて食堂船へ行った日、ツユクサを押してくれた白い泡の流れだ。
以前は白い流れに隠れていた口の内側に、黒い石の面が見えた。
水は底の真ん中だけを細く走り、落ちた先にできる泡も小さい。
「こんなに減ってる……」
ティアが舟を止めた。
俺も耳を澄ませる。昼間直した水車は、向こうで回っていた。あちらの歯車の音は聞こえるのに、ここで鳴るはずの、ざあっという音がない。
「壊れた樋とは、別なんですよね」
「うん。あっちは台を動かす水。こっちは池に入る水だよ」
岸を、白い上着が歩いてきた。
袖だけが青い。市の保安船長、ローヴェだ。細い首の後ろへ黒髪を束ね、笛を服へしまう。
少し後ろでは、店の方から岸沿いに走ってきたリゼが、俺たちを見つけて手を振っていた。
「太鼓が止まったんでね。何があった?」
「水位が下がってるんです。店の橋が外れかけました」
ローヴェは俺たちの話を聞き、しゃがんで濡れた岸を見た。
昼に水船の運航を許可した係も、こちらへ来た。ローヴェは灰色の作業着の腕を軽くつかみ、流れの入口を示す。
「上で、水を減らしているのか?」
「連絡は来てません。流れはさっきから細くなってます」
「下池から出る方を絞ってくれ。水位を見る者を残して、危ない岸は使わせないでほしい。代表は上の事務所か?」
「日暮れ前に、新運河へ行ったと聞いてます」
「では、そちらを確かめる。下の変化は、上の詰所にも知らせてくれ」
係が頷き、別の男へ声を掛けて走った。
入口が細いからと、出口を全部塞げば済むわけではないらしい。下流でも水を使っている、とティアが小声で教えてくれる。
ティアが舟を岸へつなぎ、俺は降りた。
リゼがそばへ来て、俺の腕を軽く叩く。
「お客さん、みんな岸へ出られたよ。おばちゃんは、お店に残るって」
「ありがとう。せっかく、二人で来たのに」
「放って帰る方が、気になって眠れないよ」
彼女は袖をそろえ、少し先にいるローヴェを見た。
「私も行く。昨日の運河と、どこが変わったのか見たい」
新運河。
昨日見た、白い船が建つ乾いた谷を思い出した。
「水が、あっちへ行ってるってことですか」
「まだ分からない。だから確かめる」
ローヴェは、俺とリゼを見比べた。
「二人とも来てくれ。代表に話すなら、最初に水位を見た人がいた方がいい」
「じゃあ、あたしは下にいる」
ティアが舟の上から言った。
「知ってる家を回るよ。奥のおじいちゃん、太鼓が止まったって寝てるかもしれないし」
「コハクにも、行先を伝えてもらえる?」
「うん。船長さんにね」
俺は頭を下げた。
「今夜の分も、戻ったら相談させてください。舟の仕事を増やしてしまったので」
「覚えててよ。あたし、言いそびれるから」
口ではそう言いながら、もう綱を外している。
今度は帰ってきたら、俺から切り出そう。
*
ローヴェが手配した港の馬車で、岸の道を上がった。
水位の変わる池で舟を乗り継ぐより、陸路の方が確実だという。
中町を過ぎ、上港の灯りも後ろへ回った。
車輪が石を踏む音に、馬の蹄が重なる。山の脇を曲がるたび、下池の赤い魚が、小さく見え隠れした。
一時間以上が過ぎていた。
リゼは、上着の袖口を膝の上で握っている。
俺は伝えることを頭の中で並べた。いつ、どこで、何が起きたか。仕事で問題を報告する時も、困っていますと繰り返すより、相手が判断できる話をした方が早かった。
どこかの手違いなら、ここで戻してもらえるはずだ。
そう思いたかった。
「カイ、橋のことは私が話すよ。あの端、ずっと見てたから」
リゼが俺の手を見て言った。
無意識に、布の上から指を握り込んでいた。俺は力を抜いた。
「うん、頼む。流れの入口は、俺が話す」
馬車が止まる前に、音が聞こえた。
ざあああ、と、途切れず続く音。
下池で聞こえなくなった音だった。
俺たちは馬車を降り、工事場の柵へ歩いた。
昨日来た時と同じ場所だ。岸から低い運河の底を見下ろせる。乾いていたはずの石の面が、灯りを細かく散らしていた。
水が走っている。
上流側の壁にある水門から、白い流れが噴き出していた。
まだ船を浮かべる深さではない。白い商船の腹は木の台に載ったままで、足元を水がくるぶしほどの深さで覆っている。
作業員が灯りを持って、水門の横に立っていた。
別の一人は、長い目盛りの棒を水へ下ろしている。
誰も慌てていない。
水が漏れてきたからではない。入ってくる量を測りながら、ここへためているのだ。
「止まって。今、下には入れないよ」
柵の入口にいた作業員が俺たちへ言った。
ローヴェが名乗ると、男はすぐに奥の小屋へ向かった。
リゼが、柵の横木を握った。
「こっちには、こんなにあるのに」
水が石を叩き、白い船の下へ広がっていく。
下池の女主人は、その水が来ないせいで、客を椅子から立たせていた。
俺は、まだ何も答えられなかった。
深緑の上着が、小屋から出てきた。
ヴァルターは灯りの下で俺たちを認めると、まずローヴェへ顔を向ける。
「下で何かあったか」
「水位が急に下がっている。店舟の出入りに支障が出た。今、下の係に流出を絞らせている」
代表の視線が、一度だけ測り棒へ動いた。
「こちらの送水試験は予定どおりだ」
「下の係には、連絡が来ていなかった」
「試験の予定は港へ出してある。下までどう伝えたか、確かめさせよう」
俺は口を挟んだ。
「山から来る水を、この運河へ回しているんですか」
「そうだ。入れた水を逃がさず保てるか、確かめている」
「下池へ行く分を減らして?」
「今夜だけの配分だ」
魚を見ていた間にも、ここには水が来ていた。
古い池から漏れているだけなら、あの太い流れは何だ。
「水を戻してください。まだ店には客がいるんです」
「今止めれば、測定を初めからやり直すことになる。水門を据えた者も、今夜は残してある」
代表は声を荒らげなかった。
いくら掛けて、何人を待たせているか。その話なら、すぐに数字が出てくる顔だった。
「下では、渡し板が岸から外れかけました」
リゼが言った。袖を握っていた手が、今は身体の横で開いている。
「お店の人たちが綱を引いて、舟を寄せたんです。今もそのままの橋が、ほかにあるかもしれません」
「危ない岸は使わせない。朝までには、こちらへの量を減らす」
ローヴェが一歩前へ出た。
「朝まで待てるかを、いま確認している。下の水位に合わせて、送る量を変えてくれ」
「古い池の漏れに合わせていたら、新しい港は造れんよ」
厚い指が、柵の横木に置かれた。
その向こうで、白い船を支える木の台が、水に濡れて黒くなっていく。
この人は、下の町を見ていないわけじゃない。
昼には、あそこへ自分で来ていた。店も、家も、客のいない椅子も見ていた。
見たうえで、こっちを選んでいる。
「下の人たちは、あそこで商売を続けたいんです」
「だから上へ移れと言っている」
ヴァルターは俺を見た。
「君たちは荷を運べる。明日は、下町の引っ越しを手伝ってくれ」




