第四十三話 魚が泳ぐ夜
赤い魚が、家々の屋根より高い所を下りてきた。
俺とリゼはコハクの渡し板を渡り、下池の岸へ出た。
見上げた石壁の途中に、水船を運ぶ大きな箱がある。中町で乗り込んだ祭りの船を、水ごと抱えて下ろしているのだ。
箱の縁から上に、大魚の頭と背中が出ていた。
張られた赤い布と紙が、腹の中の灯りを透かしている。丸い目も、半開きの口も、昼間とは別の生き物みたいだった。
どん、どどん。
魚の腹から太鼓が鳴る。
石壁に跳ね返った音が、遅れて下池まで届いた。その下で、水車につながる歯車が、ごとん、ごとんと噛み合っている。
「カイ、口の中! 人がいる!」
リゼが俺の袖を引いた。
開いた口から、赤い上着を着た若者が身を乗り出している。魚の頭を作っていた、あの男だ。両手に持った房を大きく振ると、岸の子供たちが一斉に跳ねた。
俺たちが運んだ頭だ。
あの時は、戸口を通れるかばかり見ていた。その口が今、町じゅうに向かって笑っている。
「下で見る方が、すごいね」
リゼは、いつの間にか袖から手を放していた。
両手を胸の前へ寄せ、魚の動きに合わせて、少しずつ顔を下げていく。
箱が岸の高さで止まった。
箱の水が池と同じ高さになったところで、係が船の前の扉を開ける。その間を、船首がゆっくり抜けてきた。
先ほどまで壁の前にいた魚が、池へ出る。
岸の屋根と同じ高さに、大きな赤い目が来た。
尾を左右へ振る仕掛けが動き、腹の下にいる漕ぎ手たちが、櫂をそろえて水へ入れる。
ざっ。
赤い光が、水面を押し分けた。
魚が家舟の前を通ると、二階の窓にいた子供が、慌てて奥へ引っ込んだ。
自分より大きな目が、すぐそこに来たのだ。母親に背中を押されて顔を出し、今度は窓から両腕を振る。
歓声が上がった。
俺も声を出していた。何と言ったか、自分でも分からない。ただ、出さずにはいられなかった。
昼間、誰も立っていなかった店先に、人が並んでいる。
子供を肩へ乗せる父親。鍋を置いたまま両手を振る女主人。船の窓から、灯籠を高く差し出す人。
リゼが俺を見た。
笑っているのに、まだ驚いた顔をしていた。
「来たね!」
「うん。ちゃんと、ここまで来たよ!」
*
「近くで見る? 横まで行けるよ」
岸の下から、ティアが呼んだ。
ツユクサの船首へ、小さな灯籠が一つ下がっている。ティアは青い短髪をかき上げ、灯りの向こうで手を振っている。
「二人で二枚。祭りだからって、上げないよ」
「乗る!」
リゼが答えてから、俺の顔を見た。
「いい?」
「もちろん。今、俺も言うところだった」
俺は財布から銅貨を二枚出した。
ティアが受け取り、舟を岸へ押しつけて待つ。リゼが先に座り、俺も手すりへ肘を添えて乗り移った。
「魚の前には出ないからね。見るのは横から」
ティアが櫓を押す。
岸が離れ、祭りの音が急に広くなった。右の店から鍋の蓋を打つ音、左の舟から笛。水面へ落ちた光が、ツユクサの板の上まで跳ねる。
大魚は池の中央へ向かっていた。
俺たちは、そこへ斜めに近づいていく。
隣で、リゼが舟の縁を握った。
「こんなに大きかったんだ」
「頭だけでも、大きかったのにな」
「コハクに載ってた時は、後ろがなかったもんね」
魚の脇に丸い窓がある。
その向こうに、灯籠の明かりと、太鼓を叩く腕が見えた。俺たちが入った腹の中だ。
どん、と一つ、低い音が来る。
音を聞いた後で、胸の奥まで震えた。
リゼが口を開けて、また閉じた。
何か言いかけたらしい。でも、次の太鼓が鳴ると、もう魚へ顔を戻していた。
荷を運ぶ時は、リゼが俺たちに景色を見せてくれる。今夜は、この子もゆっくり見られる。
いや、今日は俺も、連れ出してもらった方か。
ティアは魚の後ろへ回り、少し距離を取った。
そこからは、町が全部見えた。
下池を囲む家舟の灯り。その上に、中町の窓。もっと上には、上港の明かりが、山の斜面に沿って続いている。
水船の箱が、また上がっていった。
次の船を迎えに行くのだ。小さな灯りを幾つも載せた店の船が、上の乗り口で順番を待っている。
見上げてばかりいたら、舟が揺れた。
足元の水にも、山の上までの灯りが映っている。魚の尾がそこを横切り、一筋の赤を引いていった。
「きれいだねえ」
ティアが、櫓を動かしながら言った。
「この景色、見慣れてるんじゃないの?」
「見慣れてるよ。でも、今日もきれいだもん」
返す言葉がなくて、俺は笑った。
ティアも笑い、舟の向きを変える。
「お腹すいてない? あのおばちゃんの店、今なら座れるよ。後から来る船の客で、すぐ埋まるから」
リゼのお腹が、小さく鳴った。
「……私、何も言ってないよ」
「うん。でも返事は聞こえたよ」
ティアは、店先の空いた桟橋へツユクサを寄せた。
*
店は岸につないだ、屋根付きの大きな舟だった。
水に面した縁へ低い卓が並び、奥に煮炊きの竈がある。俺たちは桟橋でティアの舟を降り、短い板橋を渡って店へ入った。
舟から直接皿を受け取る客もいる。
女主人は鍋の前と店の縁を行ったり来たりし、前掛けの裾を忙しく揺らしていた。
「二人かい。そこの端、空いてるよ!」
白髪交じりの頭が、池を向いた卓を示す。
俺はリゼの向かいへ座ろうとした。
「そこだと、魚が背中になるよ」
彼女が、隣の腰掛けを叩いた。
座っていた位置を端へずらし、俺の分を空ける。
俺はそちらへ回った。
肩が触れそうで触れない。空けてくれた幅は、それくらいだった。
「煮込みが三枚。茶もつけるよ」
「それを二つお願いします」
一人ずつ銅貨を出すと、女主人が小ぶりの椀を二つ置いた。
豆と根菜の間に、白い団子が沈んでいる。煮汁の表面に、刻んだ青い葉と油の粒が浮いていた。
「朝、運んでくれた豆だよ。粉も、乾いてた方を使った」
「いい匂い」
「ちゃんと腹に入れてくれよ。直してもらった水路を、空腹で見てたらもったいないからね」
女主人は笑い、次の客へ顔を向けた。
俺は木の匙で団子を小さく割った。
熱い湯気を吹いてから口へ入れる。柔らかい。豆を煮た汁が中まで染みていて、大きく口を開けなくても食べられた。
向こうの水路で、売り声がした。
「干物、焼けてるぞ! 骨は自分で取ってくれよ!」
板を運んでくれた、赤ら顔の干物屋だ。
今度は舟に小さな火床を載せている。魚を焼く煙が、灯籠の明かりを白く曇らせた。
女主人が店の縁へ出て、指を三本立てた。
干物屋は舟を寄せ、焼けた串を三本、彼女の差し出した皿に載せる。女主人はそれを隣の卓へ運び、干物の代金も客から受け取った。
「後で数えに来なよ。三度でも、好きなだけ!」
干物屋の笑い声が、水の上を遠ざかっていく。
昼、二人が出した金は、ただの親切のための金ではなかった。
この忙しさを待っていたのだ。
「カイ。食べてる?」
「食べてるよ」
「さっきから、店ばっかり見てる」
リゼは匙を止め、俺の顔を覗き込んだ。
「今日はもう、働かなくていいんだよ」
「ちゃんと売れてるなと思って。昼に、金を出してくださいって頼んだからさ」
俺は椀へ目を戻した。
修理が間に合っても、店に客が来なかったら気まずかった。自分の金を出すのをためらったくせに、とも思う。
でも、さっきの女主人は、俺のことなど忘れて客へ笑っていた。
もう、売れ具合を気にしながら食べなくていいのか。
「よかったね。じゃあ、冷める前に食べようよ」
リゼが自分の椀を持ち上げる。
そうだ。今は、隣の子と夕飯を食べに来た。
「じゃあ、リゼに頼んでいい?」
「なに?」
「魚が来たら教えて。俺、今のうちに食べる」
彼女は一度だけ瞬きして、笑った。
「それくらい、自分で見てよ」
「頼むの、うまくいかなかったな」
「食べてる間だけなら、見ててあげる」
俺はもう一口、豆をすくった。
*
二つ目の太鼓が、池の向こうで鳴り始めた。
後から下りてきた船だ。大魚の太鼓が答え、少しずれた拍子に、岸の人たちが手を打つ。
椀を空にした俺たちは、並んで茶を飲んだ。
舟が通るたび、卓の下で水が柔らかく鳴る。さっきまで頼んでいた俺の方が、先に魚を見つけた。
「来たよ」
「うん」
リゼは杯を卓へ置いた。
戻ってきた大魚が、店の前を通り始める。
赤い明かりが、彼女の頬に移った。
灰緑の目の中に、小さく丸い灯りが幾つも映っている。
俺は、そちらを見ていた。
「……カイ、魚はあっちだよ」
「リゼがどんな顔するか、見たかったんだよ」
言ってから、少し遅れて恥ずかしくなった。
何でもないふりをして茶を飲もうとしたが、杯がもう空だった。
リゼは俺の手元を見て、それから顔を上げる。
「……今、変な顔してなかった?」
「してないよ。すごく楽しそうだった」
「なら、いいけど」
リゼは三つ編みの先を指で押さえた。
魚がすぐ前を通っているのに、二人とも、しばらく卓を見ていた。
魚の尾が、俺たちの前を過ぎる。
リゼはその先へ目を向けたまま、腰掛けの上で少しだけ近づいた。
肩が触れた。
俺は、肩を引かなかった。
「次の町も、二人で歩こうね」
「うん。今度は俺から誘うよ」
「忘れないでよ」
「忘れない」
俺は、空の杯を卓へ置いた。
前の世界でも、画面の中の祭りには何度も行った。
仕事の後、仲間と待ち合わせて、灯りの飾られた街を歩いた。あれも楽しかった。今、懐かしく思い出せる。
明日、ロクに祭りの話を聞かれたら、何を話そう。
舟で魚の横まで行ったこと。太鼓が腹に響いたこと。あの煮込みがうまかったこと。
リゼが隣に座らせてくれた話も、したい。
でも、それを話したら、俺が今どんなに嬉しいかまで、顔でばれてしまいそうだった。
そこは、やめておこう。
リゼの肩は、まだ俺の肩に触れていた。
*
食器を返し、板橋へ向かった時だった。
来た時より、橋が急になっていた。
岸の桟橋はそのままだ。店の舟の方が、低い。
俺は立ち止まり、板橋の脇に打たれた杭を見た。
水位を見る白線の塗られた杭だ。
黒く濡れた帯が、水面より上に出ている。幅は、手のひらほどもあった。
「リゼ、来た時、こんなに坂だった?」
「……ううん」
彼女は板橋へ一歩乗りかけ、店の縁へ戻った。
ツユクサが、客を降ろしに桟橋へ近づいていた。
ティアも杭を見ている。櫓を止め、岸へ舟を寄せた。
「水、減ってるね」
「祭りの船が下りてきたから?」
俺が聞くと、ティアは首を振った。
「いつもは、こんなに変わらないよ。今夜、水を減らす予定も聞いてない」
まだ、上から船が下りてくる。
店には客がいて、大魚の太鼓も鳴っている。
太鼓が一巡する間に、さっきまで水に隠れていた白い線が、一本、はっきり現れた。




