第四十二話 水車を回せ
「金は取るぞ」
ツユクサへ乗り込み、工具袋を下ろしたザクが、最初に言った。白い眉の下から、俺たちを順に見る。
「そこは船長と話して。私、お金を決められる人じゃないから」
「よし。舟を出してくれ」
ティアが櫓を押す。ザクは座るなり、膝の上で工具袋の口をほどいた。
断られたわけじゃない。その手つきを見て、俺もようやく座り直せた。
*
壊れた樋は、岸から少し石段を上がった所にあった。
石壁の点検口を開けると、胸ほどの高さに、蓋のついた木の箱が横たわっている。水はこの中を通り、隣の水車へ落ちる。樋に沿って、手すりのある細長い作業床が続いていた。
ザクとボルグについて、俺も石段を上がった。入口の端へ寄り、二人の手元を見る。
上流で水を閉じたままなのを係が確かめてから、二人は蓋を外した。
「継ぎ目だけじゃねえな。こっちの底も割れてる」
ザクが指した板を、ボルグが押す。端が、ぺこりと沈んだ。
二人はその先の木を順に確かめ、最後に同じ所へ手を置いた。
「ここから、ここまで替える。二メートルばかりだ」
「隣は使えるな。締め鉄も新しくしよう」
ボルグも頷いた。
二人に続いて岸へ降りると、ザクはオルドへ見積もりを告げた。
「板と鉄、隙間に詰める麻と油。材料が六十。俺の手間が三十。合わせて銅貨九十枚だ。乾かした板は工房にある」
「今日、間に合うか?」
「ボルグに手を貸してもらう。運ぶ奴も要る。それならやれるよ」
船長は、腰の鍵束を握った。
「うちから三十出す。ボルグと、運ぶ者も出すよ。明日からまた使う台だからな」
残りは六十枚。
俺の財布には、それより多く入っている。
払えなくはない。でも、給金十日分だ。サイハへ着いてから要る金も、まだ分からない。
勢いよく任せてくれと言えたら、格好よかっただろう。俺は財布に触れず、今夜の客を待っている店へ目を向けた。
朝の粉を受け取った、白髪交じりの女主人が、店先で煮汁をかき混ぜている。
俺はそちらへ歩いた。
「今夜、下まで船を呼べるかもしれません。修理代が、あと六十枚要るんです」
「会社の水路が壊れたんだろう。なんでうちが払うんだい」
言われると思っていた。俺だって、そう思う。
「会社は今日は出さないと言っています。明日直るのを待つか、先にこちらで払うかです。無理にとは言えません」
女主人は鍋の底から、大きくひと混ぜした。
「上へ来いってさ。簡単に言うよね。鍋だけ抱えて上がったって、椅子も卓もここにあるんだよ」
水路に面した店の縁には、低い卓が並ぶ。
客は舟を横づけして、そこから皿を受け取るのだ。今は、その席が全部空いていた。
「六十で、足りるんだね?」
「職人の見積もりです。追加があれば、先に相談します」
「向こうの店にも聞いてくる。うちだけで全部は出せないよ」
「はい。お願いします」
女主人は隣の店へ声を掛けた。すぐにはいい返事が返ってこない。値段を聞き直す声、会社へ文句を言う声が続いた。
俺は待った。
催促したいのをこらえた。俺には六十枚という不足でも、一軒ずつには、今日の仕入れや明日の支払いがある。
やがて女主人が戻り、ずっしりした布袋をオルドへ渡した。
「六十枚。集めたよ。あっちの干物屋が、今夜は売れた分を三度数えるってさ」
「うちも一度は数えるぞ」
オルドが答えると、女主人はようやく笑った。
船長の三十枚を足し、九十枚がザクへ渡った。
オルドは費用の受取書も頼んだ。会社へ支払いを求める時のために、何にいくら使ったかを残すという。
ザクは紙に内訳を書いて渡し、ティアに振り向く。
「板を取りに行くぞ。長いのを積める舟を、一艘借りてくれ」
*
昼の鐘が鳴る頃、板を積んだ平たい荷舟が岸へ戻ってきた。
ティアのツユクサが横につく。櫓を握る彼女の青い短髪が、汗で額に張りついていた。荷舟を出したのは、さっきの干物屋の主人だ。五十がらみの、赤ら顔の男だった。
「魚は店に降ろしてきたぞ。木まで魚臭くなったら悪いからな」
「水車が回るなら、少しくらい構わねえよ」
ザクが笑い、板を受け取る側へ回った。
俺はオルドの許可をもらい、船内を作業場所に使わせてもらった。岸の狭い道を塞がず、ボルグの道具もすぐ使える。
間もなく、コハクの通りに、木を挽く音が響き始めた。
中央の通りは、船首から後部の荷場までまっすぐだ。
後ろ寄りにあるボルグの作業場の前へ、台を二つ置く。その上に、新しい樋の底板が渡された。板の横には、人が家を出入りする幅を残してある。
船の男たちと干物屋が、岸から船首の渡し板を通って、板を運び込んだ。
荷のなくなった通りに、木の匂いが広がる。
リゼは操舵室の方から戻り、俺に言った。
「昼の便は休むって、待ってる人に知らせてきたよ。明日にする荷は、船長が聞いてる」
「ありがとう。家の前を使う人にも、声を掛けた?」
「うん。エダが、戸の前だけは空けてって」
そのエダが、箒と塵取りを抱えて通りをやってきた。
「空けるだけじゃないよ。木屑は片づけておくれ。晩ご飯に混ざったら、職人さんに食べてもらうからね」
「俺の歯じゃ無理だな」
ザクは答えながら、板の端を三度、指の節で叩いた。
しゃっ、しゃっ、とかんなが進む。
薄い木屑が巻いて落ち、後からのこぎりが、ざっ、ざっ、と低く続いた。削った面をザクが指でなぞり、ボルグが隣の板を合わせる。
音が止まると、二人とも黙って継ぎ目を見る。隙間が消えたところで、木槌が鳴った。
窓の向こうから、何人も顔を出した。
買い物帰りの住民が足を止め、長い箱を覗き込む。
「水路を家の前で作る日が来るとはねえ」
エダはそう言って、俺に箒を渡した。
俺も手を動かしたかった。
けれど、箒を両手で握ると、包帯の下が引きつった。
「持てる方の手だけでいいよ。隅へ寄せるだけ」
エダの声に従い、柄を持ち直す。
作業の輪に入ると、つい怪我を忘れる。忘れた時に治るなら、もうとっくに治っている。
リゼが塵取りを持ってしゃがんだ。
俺は彼女の前へ、木屑を少しずつ寄せる。
「リゼ、髪についてる」
「え、どこ?」
蜜色の三つ編みの途中に、かんな屑が一巻き絡んでいた。
俺が場所を指すと、彼女は取ろうとして、かえって押し込んだ。
「……取って」
「動かないでね」
左の指先でそっと外す。リゼは俺を見上げたまま待っていた。
近い。さっきまで何を言おうとしていたか、分からなくなる。
「取れた?」
「うん」
「じゃ、次こっち。ボルグが困ってる」
振り向くと、ボルグが削り屑の山を挟んで、板を持ったまま待っていた。
「悪いな。そこを通してくれよ」
俺とリゼは、いっぺんに端へ寄った。
*
その間、岸では台の係たちが、ザクの指示した範囲の古い樋を外していた。
新しい樋に蓋がつく頃には、午後もだいぶ過ぎていた。
ボルグの作業場で締め鉄の長さを合わせ、ザクが最後の穴を確かめる。新しい木の箱が、夕日に薄く染まり始めていた。
運ぶのは、ボルグと船の男たち、それに荷舟を貸した船頭だ。
俺は船首の渡し板を下り、岸で人を止めた。
「長いものが通ります。すみません、少しだけ待ってください!」
四人が箱を抱えて出てくる。
前の二人が向きを変え、後ろが同じ方へ足を運ぶ。岸を通り、点検口の石段へ。係の二人が石段の上で受け取り、作業床へ引き入れた。
ザクとボルグが作業床へ上がる。
空いた場所へ、新しい樋が収まった。
そこからは、岸で待つしかなかった。
金槌が二度、三度と鳴る。工具を取り替える短い間が、やけに長い。
俺は山の端へ目を向けた。日の当たる屋根が、池の向こうへ寄っている。
日が落ちるまでに、試運転を終えなければならない。
ボルグが出てきた。続いてザクも石段を降りる。
係は中を覗き、手で触り、締め鉄の留め方を二人に確かめた。
それから、上へ向けて笛を吹いた。
木の箱の奥で、ざあ、と水が走った。
俺の肩が、勝手に上がる。
石壁からは、何も噴かなかった。
係が点検口で継ぎ目を確かめ、再び笛を吹く。
水の音が太くなった。隣の水車の羽根へ白い流れが当たり、重い輪が、ゆっくり回り始める。
ごとん。
歯車が噛んだ。
もう一度、ごとん。次は、その間が少し短い。
下池の店先から、人が顔を出した。
水車が回り続けている。その音を、皆が黙って聞いていた。
「まだだ。箱を動かしてからだぞ」
ザクが言う。俺は握っていた手を開いた。
水船を運ぶ大きな箱には、いつもの深さまで水が入っている。そこへ係たちが、試験に必要な重りを運び込んだ。
その箱が、岸を離れて上がっていく。
鎖が、がららら、と柱の横を流れた。
途中で止まり、また動く。中町の高さまで上がった箱が、今度は同じ道を下りてくる。
朝、俺たちが怖くて聞いていた音だ。
今は、途切れないでくれと願っていた。
上げ下げと途中の停止を繰り返し、係は鎖と止め金も確かめた。
最後にもう一度、樋の点検口を覗く。
「漏れてない。回り方もいい」
誰も、まだ拍手をしない。
あの言葉を待っている。
係は岸へ降り、笛を胸にしまった。
「水船、下まで通していいぞ!」
ティアが両手を突き上げた。
その後ろで、女主人が大きく手を打つ。あちこちから拍手が重なり、ザクの背中をボルグが叩いた。
「陸船の方は、明朝、重しを載せてからだ。船長、そこは待ってくれよ!」
「ああ。今夜の魚を頼む!」
オルドが答えると、係の一人が中町へ知らせに走った。
女主人も店へ駆けていく。鍋の蓋が開き、干物屋は舟を岸から押し出した。祭りの客を迎える声が、水車の音に重なっていく。
俺はリゼを見た。
彼女もこっちを見ていて、笑った途端、少しだけ目が潤んだ。
「間に合ったね」
「うん。今夜、下で見られるよ」
*
片づけを終える頃には、池の縁に灯がともっていた。
オルドに報告すると、夜は仕事を入れないから行ってこいと言われた。コハクには、祭りを見に出ない住民が残ってくれる。
俺は手を洗い、着替えて船首へ戻った。
リゼはもう渡し板の上で待っていた。
帽子を外し、三つ編みについた木屑も、きれいに落としてある。
「カイ、急いで。始まるよ」
岸から、太鼓が聞こえた。
いや、下ではない。石壁のずっと上、中町の方だ。
水船の箱が、上の乗り口で待っている。
その向こうから、内側に灯をともした、赤い大魚の顔がゆっくり現れた。
下池じゅうの窓が開いた。




