第四十一話 下池にも、灯を
水が、粉の袋を叩いた。
ボルグが戸を開ける。後部荷場のすぐ手前、右側にある作業場だ。粉を置いていた場所から、十歩もない。
「床を空けるぞ。そこの箱、どけてくれ!」
俺は戸口の空箱を足で押し、家の並ぶ通りへ寄せた。
ボルグが荷の縄をほどく。通りから駆けてきたロクと、二人がかりで袋を抱えた。
四袋の粉。その後ろに、豆が二袋。
ボルグたちが一袋を運ぶ間にも、左の石壁から噴く水が太くなる。
ロクの赤い頭巾が、見る間に濡れた。
俺も袋の底へ手を差し入れかける。
「カイ、そっちはいい!」
ボルグの声が飛んだ。
「入口を空けとけ。運ぶ方は足りてる」
後ろに、もう二人、船の男たちが来ていた。
ここで俺までしゃがんだら、通れなくなる。
手を引き、戸口へ戻る。
役に立つつもりで、人の足を止めたら何にもならない。
「中は右から置いてください。左は、人が戻る分を空けて!」
エダが作業場の奥で、小箱を棚へ上げた。
空いた床へ、一袋目が置かれる。
白い飛沫の向こう、頭の上で人が叫んだ。
「船の人! 台は止めてある。そのまま待っててくれ!」
中町の乗り口は、俺たちより数メートル高い。
その脇の石段から、台の係が身を乗り出していた。灰色の作業着を着た、四十くらいの男だ。片手を、柵へ強く掛けている。
「何が壊れた!」
船首から戻ってきたオルドが、見上げて聞いた。
「壁の中の水路だ! 水車へ送る水が漏れて、回り方がおかしくなった。こっちで止めた!」
「台は落ちないんだな?」
「鎖は無事だ。柱の止め金も掛けてある!」
傾いてはいない。足元の震えも止まっている。
水車が止まっても、台を支える仕組みは別にある。俺はようやく、それを信じられた。
「上で水を閉じてる。じきに止まるぞ!」
その声の後も、水はしばらく噴き続けた。
五袋目の豆が作業場へ入る。最後の袋を持ったロクの靴が、濡れた床でずれた。
「右、空いてます!」
俺が声を掛けると、ロクは戸口の右側へ足を置き直した。反対側を持つ男も歩幅を合わせる。
二人が中へ入り、袋を下ろした。
六袋とも、作業場へ入った。
エダが、濡れた粉の袋を二つ、離れた場所へ寄せる。
「これは後で中を見よう。今、乾いたのと混ぜるんじゃないよ」
「はい」
やがて、壁からの白い筋が細くなった。
船の縁を叩いていた音が、ばらばらという雫に変わる。
水が止んだ。
静かになって初めて、下池から、何人も俺たちを呼んでいる声が聞こえた。
*
俺は通りを船首へ戻った。
リゼは操船席に座っていた。窓が開いている。
「袋、全部入ったよ」
「よかった。誰か転んだ?」
「大丈夫。ロクがちょっと滑ったけど、持ち直した」
彼女は息を吐き、操縦桿の横へ置いた手を開いた。
袖口が、左右で違う高さになっていた。
「台の上じゃ、コハクを動かせないんだよね」
「うん。脚を出して、台の端を踏んだら危ないから」
リゼは、下に見える岸へ目を向けた。
「着いたらすぐ降ろすよ。ここを空けないと、係の人も直せない」
俺は操船席の戸口を空け、船首へ出た。
船首の乗降台で、オルドが係の説明を聞いていた。
「水を止めたままで下ろせるのか?」
「今の船の重さならな。鎖を巻く軸の止め具を少しずつ緩める。重みで下りるのを、こっちで抑えるんだ」
係は、石の柱の向こうを指した。
鎖を巻き取る太い軸のそばに、別の二人が立っている。長い棒を、一人が両手で握っていた。
「急には下ろさない。止め金を外す前に声を掛ける。船の中で待っててくれ」
「分かった。頼むぞ」
オルドが住民へ知らせて回り、皆が家の壁際や戸口へ座る。俺も通りへ戻り、操舵室の壁へ背をつけた。
笛が鳴った。
がつん、と鉄が鳴り、少し間が空いた。
身体が、下へ運ばれ始める。
いつもの、ごとん、ごとん、という調子ではない。
鎖がゆっくり動き、少し止まる。そのたび、柱の向こうで、ぎい、と長く鉄が擦れた。
水車の音はしなかった。
見下ろしていた下池の屋根が、少しずつ高くなる。
俺は顔を上げて待った。下ばかり見ていたら、立てなくなりそうだった。
岸から声がした。
「そのまま、そのまま!」
青い髪が見えた。
ティアが、荷場の人たちを下がらせている。彼女の後ろで、空の荷車が道の端へ寄った。
最後に、ずん、と重い響きがした。
台が止まる。
岸の石畳と、船台の床が並んでいた。
係が固定を確かめ、入口の柵を開く。
オルドの声で、リゼが機関を起こした。
どっ、どっ、どっ。
腹の下から、聞き慣れた震えが戻ってくる。
コハクが六本の脚を伸ばした。
家々の窓が持ち上がり、岸で待つ人たちの顔が、俺たちの足元より低くなっていく。
「カイ、見てて。今度は、私が下ろすから」
窓の向こうで、リゼが袖口をそろえた。
船首の脚が岸を踏む。
次の脚が、重さを受ける。
最後の脚が台を離れた時、荷場から大きな拍手が上がった。
自分の家が歩く音を、こんなに待ったのは初めてだった。
*
荷場で脚を畳むと、ティアが渡し板の下まで来た。
「怪我は?」
「誰もしてないよ」
「よかった。……上から水まで出るんだもん。見てるこっちの足が、ずっと冷たかった」
膝を軽く叩いてから、ティアは俺の肩越しに作業場を見る。
「荷は?」
「粉が二袋、外側が濡れてる。中まで入ったか、荷主さんと確かめたい」
「分かった。呼んでくる」
俺はボルグたちへ下ろす順番を伝え、船首から岸へ運ばれてくる袋を待った。
岸では、昨日、粉と豆を頼んだ白髪交じりの女主人が待っていた。六十前後だろう。俺を見ると、前掛けで手を拭いて近づいてきた。
濡れた二袋を板の上へ寝かせ、口を順に開く。
一袋は、中まで水が入っていなかった。もう一袋の底の角に、湿って固まった粉があった。
外側だけだろうと、先に言わなくてよかった。
「こっちは店で使えないね」
オルドが、女主人へ頷いた。
「濡れた分は弁償する。係にも見てもらうから、このまま置いといてくれ」
「乾いた方は、先にもらえるかい。昼の分を仕込みたいんだ。今夜は祭りの客も来るからね」
「ああ。すぐ運ばせるよ」
女主人は乾いた袋の口を結び、人足を呼んだ。
俺はロクから借りた布を、傷んだ粉の袋へ掛けた。
船長が弁償すると言ったからといって、俺の仕事が済んだわけじゃない。
ティアと荷主を確かめ、損なった分を係へ見せられるようにしておいた。
豆を積んだ荷車が出ていく。
粉の袋を抱えた男が、女主人の店へ歩いていく。
遅れて、いくらか駄目にもした。それでも、昼の飯を作るものは届いた。
炊事場から持ってきた湯を、ロクが皆へ配った。濡れた頭巾を外すと、額にくっきりと巻き跡が残っている。
「鳥を下ろした後でよかったよ。あれまで鳴いてたら、俺、何言われても聞こえなかったぞ」
エダは杯を受け取り、白くなった袖を見せる。
「こっちは水の次に粉をかぶったよ。洗う前で助かった」
「俺は着替えたいなあ」
笑い声の向こうで、止まった水車が日に照らされていた。
*
昼前、会社の馬車が下の荷場へ着いた。
ヴァルターが降りると、まずオルドに怪我人の有無を聞いた。それから台の係と、石壁の根元へ歩いていく。
俺とリゼも、船長についていった。
ティアは、荷の受け渡しを別の船頭へ頼んでから加わった。
立入止めの綱の外へ、壊れた水路の板が運び出されていた。
石壁の内側には、板を組んだ、蓋つきの太い樋が通っているのだという。その継ぎ目を締める鉄が、赤茶色に錆びて折れていた。
係が、割れ目を示した。
「水を戻せば、ここからまた漏れます」
「下池側の台を動かす水は、ここを通ります。水船の箱も、陸船の台もです。池へ流す水とは別ですが、台は両方止まります」
「水の船も、さっきみたいに手で下ろせませんか」
俺が聞くと、係は首を振った。
「一回下ろしても、船が出た後の箱には水が残る。水車なしじゃ、その重い箱を上へ戻せない。次の船を迎えに行けないんだよ」
そこで、ヴァルターが口を開いた。
「直すのに、どれだけ掛かる?」
「傷んだところを外して、樋を組み直します。職人を集められれば、夕方の試運転には」
俺とリゼは顔を見合わせた。今夜に、間に合う。
ヴァルターは、折れた鉄を靴先で返した。
深緑の上着の裾に、乾きかけた泥がつく。
「工事場の職人は回せない。今日は新運河の水門を据える」
「では、こちらは」
「明日だ。今日は水を止めたままにする」
係の口が閉じた。
ティアが、一歩前へ出た。
「それじゃ、灯下りは? 上の魚も、店の船も、下まで来られないよ」
「中町までで終える。下池の客には、上で見てもらう」
俺は、朝、粉を受け取った女主人の方を見た。
店にはもう湯気が上がっていた。女主人は夜の客の分も仕込んでいる。
「下の店は、ここで客を待ってるんです。船も一緒に上がれないなら、商売にはならないでしょう」
「だから、上へ移る場所を用意すると話している」
ヴァルターは俺へ向き直った。
「君たちの船なら、明日には上げられる。今日は休め。朝から大変だっただろう」
気遣いはありがたい。でも、俺たちだけ上がっても、下の店は一つも助からない。
リゼの指が、俺の袖をつかんだ。
引き止める強さではなかった。
「カイ。下で見ようって、約束したよね」
俺は頷いた。
ティアは、壊れた樋の前にしゃがんでいた。青い髪の向こうで、係を見上げる。
「この木の部分は、船大工でも直せるよね?」
「樋の継ぎ方を知っていればな。ただ、台を動かす前の検査は、こっちでやる」
「それでいい」
「ザクを連れてくる。夕方まで、検査の人を帰さないで」
ティアは立ち上がり、ヴァルターへ顔を向けた。
「直す場所は貸してもらえるよね。試運転に通れば、下まで船を下ろしてくれる?」
「……構わん。ただし、こちらから職人も修繕費も出せない」
「金の話は、見積もりを出してからさせてくれ」
オルドが割って入った。
「うちの職人も見に行かせる。まず、間に合うかを確かめよう」
ヴァルターは頷き、係へ向き直った。
「日が落ちるまで待て。それで試運転を終えられなければ、下池行きは中止だ」
ティアは返事をすると、荷場脇のツユクサへ走った。
リゼが、俺の袖を放す。
「昼の荷のことは、私も船長と相談しておくね」
「うん。行ってくる」
俺はコハクへ戻るオルドを追い、ザクへの説明に同行したいと頼んだ。船長はボルグを呼び、俺と一緒に送り出す。
「ティア、二人を頼む。舟賃はうちで払うぞ!」
舟へ下りると、ティアが船首を水路へ向けた。ボルグが俺の向かいに座り、濡れた首の手拭いを絞る。
櫓が水を押した。
水車の止まった岸を離れ、ツユクサが店の舟の間へ入っていく。
その先に、浮き工房の屋根が見えた。ザクは今日も、舟の縁へ板を当てている。
ティアが大きく息を吸った。
「ザク! 今夜の魚、下まで来ないって! 水路を直すの、手を貸して!」
ザクの白い眉が跳ね上がった。
「会社の職人はどうした?」
「新運河の工事が先だって。こっちは、明日まで止めるって!」
板が作業台へ置かれた。
ザクは革の前掛けを締め直し、舟の縁へ出てくる。
「寄せろ。俺も乗る。どこが壊れたか、見せてもらおうじゃねえか」




