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第四十話 コハク、満載

「鶏は、炊事場に入れないでくれよ」


 船から下りてきたロクは、四つの籠を順番に覗いてから言った。

 丸顔の卵屋が、真顔で頷く。


「入れないよ。食われそうで、こっちも怖い」


 ロクが吹き出した。

 赤い頭巾の下で、日に焼けた頬が持ち上がる。


 俺は卵屋の隣にしゃがんだ。五十くらいの男だ。彼が籠の隙間へ指を入れると、中の鶏が寄ってくる。

 男はひょいと指を上げ、つつかせない。その手つきだけで、毎日やっているのが分かった。


「四つとも、明日の朝に上げたいんですね」

「うん。上の店で一晩落ち着かせるつもりだったけど、今日中はもう諦めた。俺も乗るから、世話はするよ」


 明日の夜が祭りだ。朝に着けば、店で籠を置く場所を整えられるという。売るのは鶏が産んだ卵で、鶏は祭りの後に連れて帰るつもりらしい。

 鶏四籠の運賃は十二枚。台料は他の荷と分け、積み下ろしと世話は本人が引き受ける。船長が条件を確かめ、受け取った紙へ印をつけた。


 籠の下には浅い木の箱を敷き、糞や藁が床へ落ちないようにする。

 それは卵屋が持ってくることになった。


 困ったのは、その次だった。


「うちも朝に頼むよ」

「花は潰さないでくれな」

「箱の上に何も積まないでくれりゃいいんだ」


 少し聞くだけで、みんな俺の顔を見る。

 ここで頷いたら、あとでリゼとボルグが困る。


「すみません。一度、下ろす場所から聞かせてください」


 俺は手を上げた。

 指を二本、立てる。


「中町で下ろす人と、上港まで行く人。まず、分かれてもらえますか」


 男たちが互いの顔を見て、少しずつ動いた。

 空いた場所へ、ティアが入る。


「中町はこっち。誰に渡す荷なのかも教えて。店の名前だけじゃ、カイには分からないから」


 青い短髪の下で、そばかすの浮いた鼻に汗が光っている。

 さっきまで三人から同時に呼ばれていた彼女へ、今度は一人ずつ話が向いた。


 中町の箱を上港の樽の奥へ積んだら、途中で全部出す羽目になる。

 急ぐ荷ばかりを先に積めばいいわけでもない。

 俺は前の仕事で、返事だけ先にして、後から予定がぶつかった日のことを思い出した。あの胃の痛さは、こっちへ持ってきたくない。


 箱を運び始めた人足に、俺は声を掛けた。

「少し待ってください。中町の荷を取り出す時、上港の分まで運び直すことになります。順番が決まってから、お願いします」

 男は箱を足元へ下ろした。

「そいつは、先に言ってくれて助かったよ」


     *


 荷場を見終わる頃には、日が傾いていた。


 ボルグが、コハクの後ろの広場へ縄を一本張る。

 家の並ぶ通りを抜けた先にある、普段から樽や箱を載せる場所だ。


「この左は空けとけ。洗い場まで歩けなくなるからな」


 俺は、岸に立つ荷主たちへ同じ場所を指した。

 重さの見積もりは船長とボルグ。リゼは途中で下ろす荷の位置を見ている。

 荷主が雇った人足たちは、籠と空箱を並べて、明日の積み方を確かめた。確認の済んだ荷は岸へ戻し、生ものや鶏は各店で朝まで預かってもらう。


 欲張れば、まだ置ける。

 でも、ここは倉庫じゃない。仕事から戻れば、十五人が飯を食い、洗濯物を干す船なのだ。


 明朝の一便には、先に受けた油と魚、花、それから鶏を。

 昼で間に合う荷は二便目へ回し、その日でなくていいという店には、翌日を相談した。

 全部を引き受ける返事はしない。断る時は俺も船長の横にいた。


 夕方、ティアが手を振って出ていこうとした。


「あと三軒、朝の荷を取りに寄るね。そのあと、ここの受け渡しを――」

「ティア。それ、一人で間に合う?」


 彼女の足が止まった。


「近いから。急げば」

「急いで、戻る時に呼び止められたら?」


 唇が、少し尖った。

 身に覚えがある顔だ。


 俺にもある。終わったと思って席を立った時に限って、もう一件、仕事が来るんだよな。


「明日の朝、ここにいてほしいんだ。どの荷が誰の店のものか、俺にはまだ分からない」

「じゃあ、三軒は?」

「頼める人、いないかな」


 ティアは桟橋へ目を向けた。

 小舟に腰掛けて櫓を拭いていた、六十くらいの白髪の船頭へ歩いていく。


「明日の朝、南の三軒。あたしの代わりに回れる? 運賃は、そっちで受け取って」


 船頭は少し考え、三軒の名を聞いてから頷いた。

 戻ってきたティアの肩が、さっきより下がっている。


 オルドが、彼女へ銅貨を渡した。


「今日の取りまとめ分、六枚な。明日ここで荷を受ける分も、六枚で頼めるか」

「舟で取りに行く分とは、別?」

「ああ。それは荷主と決めてくれ」


 ティアは硬貨を一枚、指の間で回した。

 すぐに財布へしまう。


「じゃあ、明日の朝は任せて。誰より先に来るから」

「早さは競わなくていいよ。朝飯を食べてきて」


 彼女が俺を見て、笑った。


     *


 翌朝、目を覚ますと、船の外で鶏が鳴いていた。


 通りへ出ると、船の後ろから、こっこっ、と短い声が聞こえた。

 籠を持った男たちが渡し板を上がってくる。その向こう、下池の水面には、朝の光が細く揺れていた。


 ティアは、本当にもういた。

 昨日頼んだ白髪の船頭から箱を受け取り、岸の人足へ行き先を伝えている。自分のツユクサは、荷場脇の桟橋につないであった。


 ベルナも、自分の油舟で戻ってきた。

 昨日、預け先から受け取って帰ったのだという。舟をまた荷場の係に預けると、樽を運ぶ人足へ赤い頭布を振った。


 コハクの後部荷場には、中央に油の六樽。

 右の縁には、木の受け箱に載せた鶏の籠。花の桶と魚の箱は、籠から離れたところへ、途中で下ろす順に置く。

 ボルグが留め縄を引いて確かめ、左の通路を最後まで歩いた。


 魚売りと卵屋、それにベルナが、今日の同行者だ。

 ほかの荷主は、受け取る相手を先へ行かせるか、客の店へ届ける手配をしてある。


「十八人。鳥は、そっちで数えてくれよ」


 オルドが言うと、卵屋が籠を覗いた。


「全部いる。静かな方の鶏だけ、持ってきたんだけどな」


 その足元で、一羽が大きく鳴いた。


 俺はロクから受け取った朝飯の椀を、ひとまず炊事場へ返した。

 温かいうちに食いたかった。でも、今は荷物から目を離せない。


 リゼが、操船席の窓からこちらを見た。


「カイ、後ろをお願い。動いたらすぐ教えて」

「分かった。鳥の声は気にしないで」

「気になるよ。いつもいないんだもん」


 笑ってから、彼女は袖口をそろえた。

 俺は通りを後ろへ戻り、卵屋の隣に立った。


 機関が、どっ、と一つ深い音を立てる。

 家並みが岸から持ち上がった。

 木箱の中で藁が擦れ、桶の水が縁をなめる。卵屋が籠へ話しかける声が、足元の歯車に混じった。


 出発だ。


     *


 一つ目の台を上がると、中町の水路と店が見えた。

 石段の上まで、荷車が待っている。

 コハクは台を降り、脇の陸船荷場で脚を畳んだ。船首の渡し板が岸へ下ろされ、俺もそこから下りる。

 岸で待っていた人足が、空手で板を上がった。

 後ろの荷場から、家々の間のまっすぐな通りを抜けて、船首へ。その順に、荷を運んでくる。


「この花は、ここです!」


 俺が手を上げると、荷車のそばにいた女が走ってきた。

 魚売りも自分の箱の一部を指す。

 渡し板を下りた箱へ、別の男が両手を掛けた。


 花を抱える腕が伸び、空いた荷車が次の箱へ寄る。

 俺は名前を読み上げるリゼの声を聞き、降ろす順番を指で知らせた。

 客の店まで運ぶのは、荷主が頼んだ地元の人たちだ。俺が道を知らなくても、箱は迷わず町へ入っていく。


 魚の箱を受け取った男が、蓋を開けた。


「よし。朝の客に間に合った!」


 水路の向こうで、店の戸が開いた。

 まだ閉まっていた窓から、鍋を出す腕が見える。

 先へ歩いていく男の足が速くなり、俺まで急に腹が減った。


 中町の受け渡しが済むと、次の台へ向かった。

 上港まで上がり、残りの魚と油、それから鶏を下ろす。

 卵屋は籠を荷車へ積ませながら、俺へ手を振る。


「帰りは、鳴かないから安心しな!」


「そりゃ、全部下ろしますからね!」


 ベルナが笑い、魚売りも空の荷場を見渡した。

 三人とも、ここで下船する。それぞれの客と、自分の店へ行くのだ。

 帰りの人数は、いつもの十五人に戻る。


 船長が運賃を受け取る横で、帰りの荷が積まれ始めた。

 上の店で買った粉と豆の袋。昨日の女主人たちが頼んだ、下池へ持って帰る品だ。


 俺は、荷場のすぐ手前にあるボルグの作業場の壁へ、背を預けた。


 七百二十枚の代わりが、もう数字だけじゃない。

 朝に店を開けられた人がいる。祭りで産みたてを売ろうと、鶏を連れてきた人もいる。

 あの時、下の人の払える額を聞かずに諦めていたら、この仕事はなかった。


「カイ」


 リゼが、小さな包みを持ってきた。

 操船席を離れて、少し急いだのか、頬が赤い。


「ロクから。椀を持つ暇がないなら、これを食えって」

「俺の朝飯?」

「うん。こぼさないものに替えてくれたよ」


 布を開くと、焼いた芋が二つあった。

 一つを割る。中には、まだほんのり熱が残っている。


「……一つ、食べる?」

「そのつもりで、二つもらってきた」


 彼女は蜂蜜色の三つ編みを肩へ払って、手を出した。

 俺が渡すと、口元へ運ぶ前に、ふっと息を吹きかける。


 俺の分の飯を、誰かが忘れずに取っておいてくれる。

 この船で働くのは、やっぱりいいな。


     *


 上港から中町へ下り、次の台へ乗り継いだ。

 あとは、下池で粉と豆を下ろす。ティアが受け取り先を揃えて待っているはずだ。


 コハクは陸船の台の上で、脚を畳んでいた。

 俺は後部荷場で、粉の袋を留める縄を見ている。ボルグはすぐ手前の作業場で、戻ってきた道具を棚へしまっていた。

 船の左には、台が沿って動く石壁。そこに開いた中町の乗り降り口が、少しずつ頭の上へ遠ざかっていく。


 ごとん。ごとん。


 鎖の音に合わせて、足元が細かく震える。

 下池の屋根は、まだずっと下だ。


 その音が、途切れた。


 がんっ。


 台が止まり、俺は体をよろめかせた。作業場の壁へ、肘から身を預ける。

 粉の袋が少し傾き、留め縄で止まる。


「リゼ?」


 返事より先に、船の前からオルドの声が飛んだ。


「全員、船から出るな!」


 中町の乗り口は、もう上だ。

 下の岸には、まだ届かない。

 コハクの脚を伸ばしても、歩いて出られる場所がない。


 俺は石壁を見た。


 後部荷場のすぐ横で、継ぎ目から水が噴き出していた。

 白い筋が太くなり、船の縁を叩く。


 粉の袋へ、水しぶきが飛んだ。


「ボルグ、戸を開けてください! 粉を中へ!」


 ボルグが振り返り、戸を大きく開けた。

 その間にも、壁から噴く水は勢いを増していた。

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